熟慮すること

常に分別を働かせなさい。そうすれば損失や失敗がもたらす遺憾や後悔の念が生じるのを防ぐことができます。何らかの計画をたて着手したものの、状況をきちんと慎重に見極められなかったために自らの行動を後悔したり運命を呪ったりする人のいかに多いことか。そういった人たちは熟考が足りなかったことと運命を非難するという二重の間違いを犯しているのです。

あるプロジェクトのゴールがどんなに素晴らしかろうと、それを達成するためにはいつも十分な予防措置を講じる必要があります。現実的な行動計画をたて、予想される長所と短所を注意深く比較しないのであれば、それはあなたが本気でないか全くの愚か者であるかのどちらかです。そういった人々の行動は何もしないよりもよほど害があります。

ゴールに達するには熟慮と安全策を講じることが重要な決め手となります。最終的に失敗をもたらしたり他人の非難を招きかねない事柄に対して、注意を怠ったり無関心でいるのは重大な過失です。賢明な人であればあらゆる欠点や問題点を想定し、実際に発生した場合の解決法や適切な対処法を把握しておくでしょう。"家に押し入られる前に泥棒を捕まえたほうがまし"と昔からの言い習わしにある通りです。

きちんとした企画立案を行い、安全策を講じた上で一つ一つの責務に取り掛かりなさい。それが物的・知的側面でメリットを生み出すものではなく、また付加価値を与えるものでないとしてもこの段階を踏まえるよう気を配りなさい。適切な予防措置がとられていないプロジェクトは取るに足らない無意味なものに過ぎず、それに気を取られてしまっている人の愚かさや幼稚さを露呈することになっているのです。

大変厳しい試練や逆境に直面した後に勝ち得た成功を通じて、その人自身に備わる美徳や価値が明らかにされます。悪条件にあって成功を成し遂げるのは、現実的なプランを立案しそれに忠実に従うことに負うところが大きいのです。つまり人の価値や美徳はもたらされた成功に比例しますし、その成功は冒険的な試みに踏み出す前にいかほどの熟慮をなしたかに比例するのです。

整然と首尾一貫して責務を果たしていくには、最初に立てる計画や方策と、ライバルに翻弄されない能力という二点にかかっています。専心して物事に取り組んでいくには先見の明に優れていることと熟慮が必要なのです。すったもんだし雑音をたてながら始動する人々の多くが二段階目にさえ進まないうちにライバルや敵に足をすくわれ遅れをとってしまうのです。彼らは気がついたときには、以前から警告を受けていた害悪やイライラの種に囲まれてしまっています。それもこれも事前の適切な準備を怠ったからなのです。それが唯一の負の結果であればいいのですが・・・彼らの後に従っている人々への影響も考えてみてください。失敗が原因で希望は失われ、麻痺状態や無気力に覆われるのです。

思慮深さは、及び腰であったり引っ込み思案であることとは違います。適当な準備や計画を伴わない行動が勇敢でも大胆でもないことと同じです。極端に注意深すぎるのも何らかの損害を及ぼすかもしれませんが、そういった損害は埋め合わせができるものです。一方で慎重さに欠けることこそ勇敢だと考えているような人の軽率で不注意な行動は非常に危険で物騒といわざるを得ません。

多くの悪い習慣と同様、人々を欺いて支配するテクニックを使い大衆を操作しようとすることは西洋からの贈り物です。しかし私たちはそういったものを拒否します。そうではなく、私たちは遅くとも平和的な道を選びます。たとえそれがより多くの悲しみを伴う長い苦難の道であったとしてもです。

創造主を前にしたとき、あなたの真の評価は活動力と目的の偉大さによって測られます。これら二つの要素がはっきりと現れるのが、他者の成功のためとあらば自らの快適さや欲求も進んで犠牲にできるかという点です。自分自身の個人的な成功が目前に迫っているときに己の欲求を抑え、叫びだしたくなる気持ちさえもこらえて、社会の幸福のためであれば己の尊厳も踏みにじること以上に偉大な犠牲がありえるでしょうか。

戦で勝利を挙げた軍があったとしてその勇敢さだけに着目し、成功が戦略的計画によってもたらされた事実を無視するのは愚かというものでしょう。同様に、無鉄砲さが成功の秘訣だと解釈して、慎重に計画をたてたり前もってよく考えたりすることをないがしろにするのはばかげています。

ゴールを確実にするために努力し、また実現するために予防策を張ることは、全能のお方からの援助の誘因となります。これはひとつの真実に備わる二つの側面を表しています。プロジェクトの準備段階もしくは始動の時点で誤りがあれば、その援助は訪れません。そうなれば成功も手に入りません。旅路を安全かつ着実に前進していくのは、洞察力を持ち続け油断を怠らない者にのみ可能なのです。幸運な者とはこの事実を知っている者のことです。