知識、学問

立証済みの知識について、それが教えから遠ざかる元になるのではと恐れ、そういった知識や学問から遠ざかることは子供じみた行為です。それら全てを教えや信仰に対立するものと見なし、学問の否定の理由とすることは早とちりであり、無知なのです。

知識や学問は、私達の幸せを確かなものにし、人間性を高めるものである限り役に立つ存在です。逆に、人を悪夢におとしいる学問や技術は、私達の行く道を妨げる怨霊であり、悪魔です。

20世紀のはじめ、学問を神聖視し、その為に全てを犠牲にした浅はかな唯物論者たちがいました。彼らに対して世界中の学者達は「宗教を伴わない学問は盲目的なものであり、学問を伴わない宗教も大きな欠損を持ったなものである。」として非難しました。今日のこの状態を見たとしたら、この学者達はなんというでしょうか。

立証済みの知識について、それには何の意味もないことを主張することは無知であり偏屈です。立証済みの知識以外の全てを否定することも、かなりな偏屈です。新しい知識を得るごとに、その知識の明かりを通して、まだまだ知らないことが山のようにあるということを理解し認めることが、考え方の道筋なのです。

知識や技術は人に仕える存在であり、それらを恐れなければならない理由も存在しません。学究的であることや、知識に基づいた世界を作っていくことにも危険はありません。無知であること、はっきりした意識を持たないこと、そして責任を負うことから逃げようとすることにこそ、危険があるのです。