運命と自由意志の一致とその関係

運命と言う項目において人がとらわれやすいテーマが、運命と人の意志の関わりである。一方において運命を批判し、強制的で人を拘束し、人を犠牲や囚人といった状態に陥れるものだという見方がある。他方においては、運命も創造も完全に人間に帰すものだという誤った解釈...。これらは二つとも、三つの点において、運命や意志の真実を述べるところから非常に遠い。運命における真実というのは、この二つのちょうど中間なのである。つまり、先にも述べようと努めたように、全世界において、さらには人間の生活において運命の支配が存在する。かつ、人間は傾向、意志、思考、判断、検討、選択、決定といった自由意志の持ち主である。だから、秤の両方の皿のように取り扱われ、平衡が保たれるべきなのだ。

クルアーンは、続いている二つの章句で、二つの立場をまとめるという形で、この問題を解決に導いている。

包み隠す章81/27~28節では、「これ(クルアーン)こそは、万人への教訓に他ならない。それはあなたがたの中、誰でも正しい道を歩みたいと望む者のためのものである」とされるが、それに続く29節では、「だが万有の主、アッラーの御望みがない限り、あなたがたはこれを望むことも出来ないのである」とある。これによって、全てを望まれるお方がアッラーであること、しかしその望みは、人間にも一つの傾向や望む権利を与えられることに対立するものではないことが明らかにされているのだ。

他の章においては「本当にアッラーは、あなたがたを創り、またあなたがたが、造るものをも(創られる)」(整列者章37/96)とされ、創造、存在させることが完全にアッラーのみのものであることを明らかにしている。さらに他のいくつかの章では、「人には、自らが努力したものの他には何も残らない。アッラーの道で努力しなさい。天国へ駆けなさい。アッラーから原因や要因を求めなさい。学びなさい、書きなさい、考えなさい!」と言うような形の宣言や励ましが行なわれ、人が運命を前に手を縛られた囚人ではないことを、そして小さな条件として意志が用いられなければならないことを明らかにしている。いくつかの章句においてはさらに明らかな形で記されている。

「われとの約束を履行しなさい。われはあなたがたとの約束を果たすであろう」(雌牛章2/40)

「あなたがたがアッラーに助力すれば、かれはあなたがたを助けられ、その足場を堅固にされる」(ムハンマド章47/7)

「本当にアッラーは、人が自ら変えない限り、決して人々(の運命)を変えられない」(雷電章13/11)

だから、絶対的な強制は、命をもたないもの、植物、動物、すなわち意志を持たない存在のためのものであり、人間や幽精には「条件付きの強制」がある。ただ、自由意志とその結果の創造は、完全に、アッラーに定められ、運命の書で確定されていたのだ。

1.アッラーは、私たちがどのように振舞うかを前もってご存知である故に、私たちの運命をそのように記された

アッラーは、私たちが自分の意志を用いて、どのように振舞うかを前もってご存知である故に、私たちの運命をそのように記された。

これまでにも明らかにされたように、運命は人に、定められた方向性でもって行動するよう強制するものではない。そうではなく、しもべがどのように行動するか前もってアッラーによって知られているために、運命もそのように確定されるのである。つまり、運命は英知の一種であり、管理や力の一種ではないのだ。英知は、その認識事項に従属する。ただし、アッラーの英知について従属するということは正しくないかもしれない。

運命は英知の一種であると言うことは、全てがアッラーの英知において形付けられ、決定や確定、それから一つの計画、企画の状態にされる、と言うことである。知ることと、知った事を行なうこと、つまり外的世界に出現させることは別物である。私たちの頭の中にどれほどの計画やプロジェクトを構築したとしても、これらは決して、例えば一つの家なり工場なりにはならない。英知が、認識されている事実に従属していると言うことも、一つの思考や計画が外部、つまり実際においてとることになる形と結びついているということを意味する。―似せていることにはならないよう望むが―アッラーの英知の一つの称号である運命も、このような計画やプロジェクトのようであり、この計画やプロジェクトは、実践される際、人が意志によって行なう行動によって、形や本質を獲得するのだ。それは、紙に書かれた目に見えない文字が、その紙に力と意志という薬品をたらすことによって見えるようになるようなものである。人が自由意志によって着手することによって、アッラーも、紙面上の目に見えない文字に、そのお力とご意志と共にご自身を顕され、そのようにして紙の字も外的存在と形を獲得する。ただしアッラーは、人がその意志によって何を行なうか前もってご存知であられるため、全てをあらかじめ一つずつ帳面に記されたのである。

イズミール・アンカラ間を走っている電車を考えて見てほしい。この電車が、何時にどこの駅にいるかと言うことは分単位で確定され、時刻表にされて掲げられている。電車は、この時刻表に書かれている時刻どおりに、着いているべき駅に着く。しかし実際は、電車の速度、線路の様々な特徴、電車がどれほどの客や貨物を乗せることができるか、道程にある駅、さらには季節や天気の状態などが電車の運行に影響を及ぼす要素であり、またこれら全ての要素が、時刻表を作成した係によっては認識されているのである。ここで、電車は、時刻表を作成した係員がそれを書いたから、決められた時刻に決められた駅に着くのだろうか。それとも、上で触れた、この係員とは関係のない要素によって、電車の運行が調節されているのだろうか。そう、意志の状況もまたこのようである。それは、運命の絶対的な命令下にあるのではないのだ。

日食のような、天文学的出来事は前もって知られ、カレンダーや論文などで時間や分の単位まで書かれている。ここで、日食、あるいは月食は、カレンダーに書かれているから、あるいは学者によって認識されているから、その時刻に起こるのだろうか? 日食や月食は、カレンダーで書かれているからと言って起こるのではない。むしろ逆に、それが起こるであろうからこそ、カレンダーに書かれているのである。人は、行なうであろう事を、アッラーが運命にそのように記されたと言って行なうのではない。人が行なうであろうからこそ、アッラーが記されるのである。人がその意志によって行なう全ての事が運命として記されることは、意思が用いられる事を妨げるものではないのと同様、人が意志をもつこともまた、行なうであろう事が前もって運命として記される事を妨げるものではないのだ。

2.意志が勘定に入れられていない、一方通行的な運命はありえない

運命と言うテーマの真髄、急所とも言えるポイントが、次の点である。アッラーは無限の英知によって、起こりうることをそれが起こる前に知られ、運命の書に記載されるが、その際、人の努力、あるいは人の努力を呼び起こす意志は、この記載から外されてはいない。人が自ら行なった事における取り分は意志、つまりスイッチを押したことであり、アッラーの方は、創造され、現され、結果を創られることである。この双方が同時に確定され、記されることを私たちは運命と呼んでいるのだ。

隣の部屋にある、あなたには見えない、それでもチクタクという音を聞くことのできる、一つの時計を考えてみてほしい。この時計が動いているかどうか尋ねられたなら、あなたは「動いている」と答えるだろう。そしてそれ以上「でもちょっと見てみてください、短針と長針は回っていますか?」と尋ねられることはない。時計が動いていることは、短針と長針の動きも含め、全ての機能が働いているということを意味する。逆の言い方をするならば、短針と長針が常に回って時を示していることは、その時計が動いていること、そしてその歯車も回っていることを証拠付けているのである。

まさしくこのように、運命が存在するならそこに意志も存在するのであり、意志について取り上げる場合は運命と一緒でしか、取り上げられないのだ。

だから人は、運命の前に手を縛られたロボットではないのだ。つまり人は、蜘蛛の巣のような運命の網にからめとられ、後ろ手に手錠をかけられ、絞殺刑のロープが首にかけられ、息ができなくなっている、あるいは海に投げ入れられ「濡れるんじゃないぞ!」とからかわれている哀れな囚人ではないのである。そう、運命がこのようなものではないのと同様、人もまた、運命の風を受けて揺れている枯葉ではないのだ。イスラームにおけるあらゆる項目においては、中庸と適正さがある。例えば、どういう状況であれ、どこにおいても怒りまくっているような場合は「過度」であり、あらゆる言動に対して沈黙を続けることは「不足」である。決して結婚せず、あたかも女性を否定しているような場合は「不足」であり、前を通るあらゆる女性から受益しようと考えるのは「過度」である。資本を崇拝することは「過度」であり、逆に財産を無意味とすることは「不足」である。

運命に関して、全てが人間に帰すものとし「人は自らの行為を自ら創りだす」と言うことは「過度」であり「しもべには、自らの行為においても何ら役割も機能も持たない」とし、人を、運命を前にして一切の器官を動かすことができないと見なすことは「不足」である。この項目を通して、私たちがその通じとなろうと努めてきた預言者の慣行の道を行く人は「努力と意志はしもべから、創造はアッラーから」とし、このテーマにおける真実と中庸の道を示している。

正しい道への導きも、逸脱も、善行も、罪も、創造されたのはアッラーであられる。(イブラーヒーム章14/4)導きや逸脱、善行や罪への方向付けとその創造が十トンの荷であるとすれば、これらの創造は完全にアッラーに帰されるものであるから、しもべの取り分はグラムでは表せないようなものであり、しかしそこからもたらされる結果は大きい。人がモスクや礼拝所、あるいはアッラーの家のどれかに行こうという望みや意志を持ち、その方向における選択と傾向を明らかにした場合、アッラーも、彼が望むその大きな、そして重要な結果に彼を運ばれる。説話を聞くこと、あるいは清らかな友人のそばでアッラーに関して知識を得ることは、導きへの要因となりえる。なぜならもはやスイッチが押されたからである。逆に、酒場に行こうという意志を持ち、その方向、傾向に進もうとしている人は、アッラーも逸脱へと押され、その道に放置されることもありえる。しかし望まれるなら、そのまま放置されないこともある。アッラーとその使徒に対して語られた醜い言葉は、アッラーのムディッルという御名(逸脱へと連れていく御方)のノッカーに触れることであるかもしれない。そしてその人の意志に応じて応報があったとしても、それは正しくないことが行なわれたことにはならない。簡単に言うと、導きと逸脱と、二つの道のうち一つを選択した人は、自らが選択した道の終点、結果に到達する。到達させるのはアッラーで、到達し、到達しようとするのはしもべである。そして、その行為の種類によって、あの世で罰や褒賞を受けるのである。

3.運命は、要因とその結果を一緒に鑑みる

意志の手にある要因や媒介も、運命の書に記されている。一つの事故、一つの死、一言で言うと悲しい出来事の後は、しばしば「あそこに行かなければよかったのに。銃を手にしなければよかったのに。これほどのスピードを出していなければよかったのに」というような言葉が吐かれる。しかし実際は、運命においてはその出来事と共に、その出来事の原因となる行動、人の意志をも含めた要因、人の意志を含まない要因も記されているのだ。つまり、それぞれの出来事、人生のあらゆる瞬間が、あらゆる観点から、全ての詳細に至るまで記されているのである。

つまり、誰かが自らの意志で、銃で誰かを殺したのであれば、この出来事はアッラーの限りない英知によってその発生以前に見られ、知られたのであり、この二つが共に記されているのである。「銃を使う人が、この事象を自らの意志で行なうだろう、引き金をその指で引くだろう、結果、もう一人の人が死ぬだろう」と、あらかじめ記されていた。この殺人で使用された、あるいはその人の死の要因になった銃弾が放たれた銃と、指を動かした要因が取り除かれた場合、相手の人の死に関する定めやその死の要因として他に何がありえるだろうか? 例えば、交通事故で死んだかもしれないとしよう。その場合も、彼の死が交通事故によって起こることは記されていた、と私たちは言う。何か他の要因が示され、例えば、病気と言われれば、その場合も、結果であるその死が、病気と共に記されていたと言われるだろう。

結論

結論として、運命は意志を立証し、その二つはお互いに支えあっている。意志は運命を、運命は意志を否定しない。このテーマを簡潔な文章として示すとしたら、以下のようになる。

宇宙においてはアッラーによる運命とプログラムが支配を行ない、人においても意志と傾向が存在する。

アッラーは、無限の英知の持ち主であられるため、過去と現在、未来を一つの点のようにごらんになる。

アッラーは、未来において発生するであろうあらゆる事象を、様々な書という形で記録され、記帳される。

私たちは自らが行なうことを、アッラーがそのように記されたからと行なうのではない。逆に、アッラーは私たちが自らの意志をどのような方向に使うかをご存知であられるため、それを記されるのだ。

アッラーは、私たちの運命を記される時、私たちの意志を除外されない。それをいかに使うかを勘定に入れられ、記される。

アッラーがその深いお慈悲によって私たちに与えられたものの他、意志のスイッチを正しい方向で用いることへの結果として、天国を約束されておられる。