リダ(甘受)1

リダ(甘受)は不幸に対して嫌悪や反抗を示さず、運命のすべてに不平を言わず、より良くは平穏のうちに受け入れることを意味します。言い換えると、普通は苦痛や恐怖をもたらすような出来事であっても、すべてを歓迎するということです。リダの別の定義は、自分たちにとって喜ばしいように見えることであっても嫌なことに見えることであっても、アッラーが自分たちになさることを喜んで受け入れることです。

精神的旅路のはじめにおいては、信仰する者は自分の自由意志としてリダを行わなければなりませんが、実際には、それはアッラーからの愛する者たちへの直接の贈り物と言えます。そのため、忍耐とは違って、アッラーも預言者(彼の上に平安と祝福がありますように)もそれを命じられはしませんでした。ただ、勧められただけなのです。預言者の話として伝えられたものとして、「不運に耐えず、アッラーのご意思を甘受しない者は、別の主を持つ者である」という話がありますが、ハディース学者たちはこれを真正なる預言者のハディースとしては認めませんでした。

信仰の深い人たちの中には、リダは信頼や服従よりも高い状態だと考える人たちもいますが、他の状態と同様に、リダも時として現れ時として消える、アッラーからの贈り物もしくは輝きだと考える人たちもいます。さらに、クシャイリ師など、はじめはしもべの自由意志につながり、それに依存しているものだが、終わりには、心の状態となるものだと考える人々もいます。「アッラーを主、イスラームを宗教、ムハンマドを預言者とすることを喜ばしく感じる者は、信仰の喜びを味わった」というハディースは、終わりにはアッラーからの贈り物になるとしても、私たちはじめには自分の自由意志でリダを得るようにすべきだと示しています。

アッラーが神であることに満足するということは、アッラーを愛し、アッラーにしかるべき畏敬の念を抱き、崇拝行為にまた助けを求めてアッラーに向かい、そしてすべてをアッラーからのみ期待するということを意味します。アッラーが主であることに満足するということは、私たちのためにアッラーが決定されたことを歓迎し、(どんなに辛くとも)自分たちに降り掛かるどんな不幸に対しても不服を唱えないこと、自分たちをどう扱われるかについてアッラーを信頼し、そしてアッラーのなされることすべてに満足するということを示します。預言者(彼の上に平安と祝福あれ)に満足するということは、無条件に彼に服従するということであり、自分の考えよりも彼のご指示やお導きを好み、そして自分の理解力を彼の行いや言葉、彼によって届けられた啓示を批判しないように使うことを意味します。イスラームに満足するということは、『イスラーム以外の教えを追求する者は、決して受け入れられない。(聖クルアーン3:85)』で述べられているように、イスラームを理想の行動原理や規範として受け入れ、個人生活や家族生活、社会生活においてそれらを実践することを意味します。

状況によっては、このようなレベルのリダのせいで、共同体の中においても独り残されたり、残されるように感じたりすることになるかもしれません。しかし、アッラーの近くに辿り着き、預言者(彼の上に平安と祝福あれ)の道を追う人々は、そのように残されたと感じることはありません。アッラーと深くつながっている人は、孤独を感じることはないのです。むしろ、彼らは、独りでアッラーに祈るとき、アッラーをより近くに感じ、アッラーの愛に溢れ、『おぉアッラー、私をもっと頻繁に独りにしてください。そして、あなたから私が離れてしまうことになるようなことにならないようにしてください。私にあなたが常に私と共にいると感じさせて下さい。』と言うのです。

前述のように、リダは旅路のはじめに自由意志という個人の意識的な決心によってのみ得られるアッラーからの贈り物です。リダには、信仰の深さ、宗教的行為におけるまじめさ、アッラーをまるで見ているかのような崇拝における深い意識によって達成することができます。素晴らしいリダのレベルになるには、信頼、服従、献身というレベルをこえなければなりません。自由意志でリダのレベルに到達するのは非常に困難であるため、アッラーはそれをお命じにはなりませんでした。ただアドバイスされ、到達した者を高く評価されたのです。

もし最後にはリダのレベルに達したいと思って旅路に出るのであれば、主との関係において真面目であり、(求めてはいなくとも)もたらされたアッラーからの贈り物のすべてを、アッラーの祝福として感謝して受け入れ、欠乏については語ることなく、苦悩や孤独や困難の時にもすべての宗教的義務を果たし、アッラーの前で祈るときはまるで結婚式の部屋に入る時のようでなければなりません。リダの土台として最も重要なことは、心の中で絶え間なくアッラーを新しく発見しながら、意識や経験の中に常にアッラーの存在を感じ続けることでしょう。

アッラーの懲罰に対する絶望や安心感というものはこの世においてはあり得ないものであるため、恐怖や希望は現世に関係のあるものだと言えます。これらは、それに対して来世に与えられる報奨を除いては、来世には関係のないものです。それとは対照的に、アッラーをありがたく感じアッラーを愛することは永遠に続くものであり、アッラーの判断を甘受することやアッラーをありがたく思うことは現世と来世両方における精神的平安と幸福の源となるものなのです。

これは、リダを自分のものとしアッラーのお喜びを得てアッラーに認められた人々は、不安や困難、苦悩などから解放されるということではありません。依然として人生において悩ましいことや不快なことはたくさんあるからです。しかしながら、リダにおいて素晴らしい人は、それらを純粋な慈悲だと考えます。リダやアッラーのお喜びによって、彼らの飲む「毒」は「錬金薬」に変わり、彼らの直面する悩みによって、彼らはさらに深くアッラーを愛するようになるからです。

リダの道は、進むのは困難ですが、安全でまっすぐな道です。それは時にたった一つの努力によって旅人を人間としての完璧さという頂上へと導きます。信仰する者が、アッラーを感じ(アッラーは時間にも場所にも包摂されることはありませんが)あらゆるところでアッラーを見つけるために、アッラーの道で非常な努力をすることや、宇宙を(それがまるで一冊の本のように)研究することによって、その頂上に辿り着くのと同時に、頂上は、進むべき道を探し求める中で出会う困難に対する個人の無力さのためにもたらされる内面の苦悩や悲しみを通して、到達することができる場所でもあるのです。

リダによって、アッラーが信仰する者にご満足されるということからくるぞくぞくするような喜びや天からのそよ風という結果がもたらされ、それは個人の恐怖や希望の深さに比例したものとなります。それはアッラーを近くに感じることや、崇拝や忠実さ、罪に対する奮闘や世俗的な自分自身やシャイターンの誘惑などから来るものではありません。むしろ、それには希望や期待が合わさり、自己コントロールによって規制された精神的歓喜、アッラーからの直接の贈り物、アッラーに感謝する状態だけに結びついた慈悲の風と言えるでしょう。この状態には、思考や考慮、計画、希望、期待、感情、行動に関してアッラーのご意志に従うことが必要とされます。したがって、リダを満足や歓喜を経験するための方法だと考え、満足や歓喜を得ることを期待することは、リダという意志と誠意の純粋さに基づいている状態を軽んじていることなのです。実際には、このことは心の動きを通して得られる状態や、それ自体が心の動きそのものである状態のすべてに関して共通して言えることなのです。人はアッラーに認められることもしくはアッラーのご満悦だけを愛し求めなければならないのです。

スーフィズムの初期において、精神的に優れていた人々はリダやアッラーに満足することについての見解を表現しています。ドゥ・アル=ヌン・アル=ミスリによると、リダとはあらかじめアッラーのお望みを自分の望みよりも好むこと、アッラーのなさること望まれることは何であれ良いことであるという認識に基づいて、不平を感じることなくアッラーのご意志を受け入れること、そして、逆境においてもアッラーへの愛に溢れることです。アリ・ザイン・アル=アビディンはリダをアッラーのご意志やご満悦に合わないものはすべて求めないと決心することだと説明しています。アブー・ウスマーンによると、リダはアッラーのご意志やなされることすべてを、それがアッラーのお慈悲から来るものなのか、権威からなのか、怒りからなのかに関係なく、同じ気持ちで歓迎し、その中で好みの優劣を持たないことを意味します。アッラーの預言者は「あなたが何かを定められた後には、私はあなたにリダを請い求めます。」とおっしゃられました。あらかじめアッラーのご意志に満足するということは、リダは苦難が起こった時にそれに耐えることを意味するのに、あらかじめその苦難に対してリダを示すことが決まっているということを意味します。つまり、リダはアッラーが神・主であられることから起こることすべてに対して憤りや不満を感じないということを意味し、また、自分の運命に対して不平を感じず、受け入れて耐えることを嬉しく思い、それに備えるということです。信仰の深い者は心のバランスを欠くことがありません。むしろ、ひどく悲惨な出来事や衝撃的な出来事があっても、自分の高潔さと真っ直ぐさを保ち、天の刻板に刻まれたアッラーの定められた運命を考え、出来事に対して後悔や悲しさを感じないのです。

一般の人々にとっては、リダはアッラーが自分たちに望まれたことに対して不服を唱えないということを意味します。アッラーについてのより深い精神的知識を持っている人々にとっては、リダは自分の運命を歓迎することを意味します。そして精神的に深い生活を送っている人々にとっては、リダは、自分の考えに注意を払うことなく、常に何をアッラーが彼らに望まれているか、アッラーは彼らがどのようにあることを望まれているかに注意深くあることを意味します。『おお、安心、大悟している魂よ、あなたの主に返れ、歓喜し御満悦にあずかって。あなたは、わがしもべの中に入れ。あなたは、わが楽園に入れ。(89:27-30)』という章句は、リダのすべてのレベルを包含し、アッラーのご意志と運命に甘んじて従った者たちの欲望に対する返答も含んでいます。

この章句に見られるように、リダの状態に達することとアッラーに満足しアッラーに満足されることは、その人がアッラーに向き合うこと次第なのです。これはアッラーに対する完全なる献身と信頼、服従、そして、すべてをアッラーに委ねることを意味します。この状態に辿り着いた人は、死んでアッラーと見えることを切望し、平穏の心のうちに死に、楽園へと迎えられるのです。

別の観点から見ると、一般の人々は、アッラーの命に従って生活し、主アッラーの権威に従順であろうとすることによってリダを示します。これは次の章句で表現されています。『言ってやるがいい。「アッラーは凡てのものの主であられる。わたしがかれ以外に主を求めようか。(6:164)[林1] 」『言ってやるがいい。「わたしは、アッラー以外の加護をどうして求めるだろうか。かれは天と地の創造者で、(すべてを)養い、(誰からも)養われない。」(6:14)』このレベルのリダはアッラーの単一性に対する真の信仰とアッラーへの真の愛を求める人には不可欠なものです。信仰する者は誰もが意識的にアッラーのお導きに服従し、信仰においても生活においてもアッラーに何ものをも並べてはならず、アッラーだけを人類と全世界の主、創造主、支配者として愛し、アッラーの名の下に愛する価値のある人だけをアッラーの定められた限度において愛さなければなりません。

アッラーの知識を一定レベル持っている人々のリダのレベルは、異議を唱えることなくアッラーのご意志と規律を歓迎することに現れます。また、心のコントロールの強さにも見ることができます。そのコントロールはとても強く、彼らの心は一瞬たりとも逸れることがありません。このようなリダはアッラーの知識の備わった心とアッラーの関係だと考えられています。

リダの第3段階は、アッラーのご満悦を得られることに満足を感じる、浄められた信仰の深い学者たちが達成できるものです。このようなリダの報奨を得る人は、個人的な怒りや喜びや悲しみを感じることはありません。そのような人はもはや自分のために感じたり考えたり望んだりすることはなく、そのためアッラーのご意志だけが残るので、主の中に消滅するという喜びを体験するのです。

 


[林1]6:165と書いてありますが、内容から164かと思います。