知と、無知であること

知識を書きとめ書物にすることは、既知の事柄が再度説かれるという観点では有益なことであるが、天啓や物事に秘められた真実を見出そうとする精神を麻痺させるという点では、千の害を持つといえるかも知れない。

知識は、教えへの導きでの道案内である。それがもし啓示を基盤とし、啓示によってはぐくまれたものであるなら、その場合、それは天空を超越し別の次元に達する。そして特別な価値を獲得するのだ。

現代では、新たな発明、発見をするような人は育成されない。模倣をするような人たちが育ってきているのだ。部分的に、全てを変化させる反骨精神が必要とされている。全てが変わるだろう。本、書簡、扉、机、全てが。そして批判によってそれを始めることが本来のあり方である。

無知は最も悪い友であり、知は最も誠実な同行者である。

知識は、それが穏やかな性質と結びついた時には、驚くような深さに到達する。

無知な人は腹をたてると怒鳴り散らす。知性ある人はやるべきことを考える。

徳とは、知識、穏やかさ、そして崇拝行為という三脚の上に載っている。

知識は、宗教的実践の源とならないのであれば、ひからびてしまう運命にある。

必要性は、知の発見への、良い目を持った水先案内人である。

理解することと知ることとはそれぞれ異なる。千の事柄を知るよりは、一つのことを理解するほうがより良い。

「私は知りません。」と言うことに自らを慣れさせなさい。「知りません。」と言うことを決して恥じてはいけない。

様々な競い合いがあるように、もし「貧窮さ」の競い合いが行なわれることがあったとすれば、無知であることはその競技の王者となっていただろう。