生活水準 & 涙

生活水準

テレビのニュースでは、折々に四人家族の月々の生活水準と称する数字を公表する。何が基準とされているのかきちんとは知らないが、ここで示されている数字を見ると、特に私たちの国の人々にとっては、達成することが困難なものである。とともに、こういった数字が何度も繰り返されること、報道される形がきちんと完成されたものになっていないことは、人々を感謝のない状態へ、満足感のない状態へと追いやっている。私は覚えているが、私の子供時代、人々はヨーグルトだけの朝食をとり、それでも、畑や果樹園でかいがいしく働いていた。決して誇張でないことは信じてほしい。なぜなら私もその一員であったからである。ヨーグルトだけの朝食を取り、日が暮れるまで家畜にえさを与えるため移動させていた。人々は石鹸すら買うことができず、白土で洗濯物を洗っていた。ノミの流行に悩まされ、ペストが流行した折には老若男女を問わず多くの死者を出していた。多くの者は日に一度だけの食事を取っていた。そう、-アッラーがあの日々を二度と味わうことのないようにしてくださいますようー非情に困難な状況にあった。しかし誰も、自分の状態に不平をいったりはしていなかったのである。

私たちは間違ってしまったのだという確信を私は持つのだ。こういったニュースによって、もっと正確に言うならこういったやり方によって、人々を感謝のない状態へ追いやっているのである。アッラーに対して不平を持つように仕向けているのだ。ニュースの与えられ方において、新しい手段を見出さなければならない。嘘であってはならないし、真実が反映されていなければならないし、人々は正しい知識を得なければならない。同時に、人々は自分が見出せたものに満足しなければならないし、恩知らずになってしまってはいけないのである。そうでなければ、何を与えたとしても、彼らを満足させることはできない。 

浪費・・・。それはすべての人々を、経済的な意味でくじいてしまう、癌である。先日私は、バスルームなどで私たちが使っているペーパータオルの価格を友人に尋ねた。いくらかの数字を答えたが、安いか高いかは重要ではないのである。重要なのは、それがちゃんと完全に使われること、無駄にされないことである。自慢したことになるのかもしれないが、一つの例としてここでこのことを語るのにさしつかえはないと思う。私は、仕方なく使っているこのペーパータオルの 1 枚ずつを、必ず 3.4 回使っている。まず手や顔を拭き、それから足を拭き、その後浴槽の底を拭く。それから捨てているのだ。しかし、この注意深さがどこでも見られるわけではないのである。飲み食いから服飾まで、すべてにおいて浪費が私たちの生活を支配している。

ベディウッザマン師が、その「経済のたより」の中で示されている例を見てほしい。監獄における拷問や、苦痛、空腹、乾き、これらに対して揺るがない信仰、あの世への見方、運命への承諾・・・。それからあなた方は見るであろう。このような苦難の中にいる人が、アッラーへの感謝、賞賛によって、崩れることなくしっかりと立っているのである。

私たちも、知性があり、きちんと育成され、その目標を上手に滞りなく語る人々を必要としている。テレビ番組に出て、こういった例を語らせるために。人々の中にあって、私たちが受けているアッラーの恩恵について目を向けさせるために。人々を恩師知らずであることから救うために。アッラーの私たちに対する恵み、恩恵に対して、完全なしもべとしてのあり方を示さなければならないということを説刑するために。

一部の人たちは、私がアメリカで 4 年間流刑の憂き目にあっていると語る。何が流刑だというのか。

真の不信仰のために行動する人々は、完全な孤独を生きているし、これまでもそうであった。例えば、トロツキーを考えてみてほしい。彼はメキシコで、完全な孤独のうちに、庭付きの大きな別荘の陰にある小屋で、何年も暮らした。スターリンへの恐怖から、外へ出ることもできずにいた。しかし運命の奇妙さで、その小屋も見つけ出され、彼は殺害されたのであった。

そう、アッラーはここで私たちに、あなた方に、私たちすべてに、ある意味で異邦における暮らしを味あわせられておられる。しかしここでの異邦における郷愁は、あの世においてある近接さの媒介となりえる。それならなぜ、不平を言っておられるのか。人間の感情として、祖国、故郷、妻、親友、親戚といっておられるのであれば、それは当然なことである。人がこれらを慕うということ以上に当然で自然である事項もないであろう。しかしこれらを慕うとき、アッラーが私たちにもたらしてくださる恵み、恩恵に対して、私たちは恩知らずであってはならないのである。

私たちは決して、困窮といったものを、完全な意味で体験してはいない。たとえるなら、ベディウッザマン師が体験されたものの十分の一でさえ、私は味わったことはないし、あなた方もそうであろう。次のような表現を見てみてほしい。「28年間、あらゆる苦痛を味わい、あらゆる拷問をうけた。80数年の生涯において、この世的な意味で楽しかったようなことは何もない。」と語られ、さまざまな事件を説明されている。しかし、そういった状態にまったく不平は言っておられない。「喜びを与えるものを受け取りなさい、悲しみを与えるものは放棄しなさい」と、何事においても物事のよい面を見ておられるのである。コップのうち、からになってしまった部分ではなく、まだ水が入っている部分を見ておられるのだ。

要するに、私たちはアッラーのお恵み、恩恵に対して、感謝と共にそのお返しをするべきなのである。自分が持っている限りの可能性を、アッラーを説くことに、アッラーへの愛を抱かせることに、アッラーを正しく認識し、また認識させることに、用いなければならないのだ。人々の中に、どのような状態に対しても満足するという感情を目ざまさせなければならない。病気、健康、裕福さ、貧しさ、あらゆる状態に。いうならば人々のうめき声においてさえ、感謝の声、感謝を口ずさむ声が聞かれるべきなのである。

「あの世の火炎が焼くことのない二つの目がある。一つは、アッラーに対する畏怖のうちに涙を流す目、もう一つは境界線地帯で、敵に対してしっかりと見開かれている目である」と、人類の誉れであるお方がおっしゃられておられる。アッラーに対する畏怖のうちで涙を流すことにおいて重要である点は、人の心における純粋な興奮が、偽善や見せかけによって汚されることなく、涙によって詩とされることである。偽善や見せかけにならないないためには、人がいないところを選ぶことがあらゆる意味で無難である。しかし時に人は、心の興奮を抑えることができない。この場合は、意志の力でそれを制御するよう努めなければならない。それもできないのであれば、その場合は自らを外に追いやらなければならない。泣く演技をすることは非常に危険である。それは人をだめにする。だからイマーム・ガザーリー師は、「泣く者も、失ってしまい得る。泣かない者も。」と言われているのだ。

本質的な部分を見るならば、誠実さは静けさのうちにある。誠実さは小さないショーウィンドウから内部に向かって開かれた、この世を包む込むほどに大きな店のようである。涙が、その店の輝かしいショーウィンドウである。店が満たされていれば、ショーウィンドウもそれに比例して豊かに、美しくなる。しかし店がからっぽで、ショーウィンドウしかないのであれば、その価値もそれだけなのだ。

聖ハディースでは、「クルアーンを読みながら泣くことができないのであれば、泣くように自らを圧しなさい」と、預言者の長は言われておられる(彼の上に平安あれ)これは、あなた方の心をやわらげ、あなた方を慈しみ深くさせ、泣かせ、あなた方の心の苦悩を吐き出させるような物事を追い求めなさいということ、ハディースにおける表現を借りるなら、泣く方法を探りなさいということである。

涙は同時に、結びついているものに対する誠実さの現れである。どのようであれ、そうであるように見えるということ、どのように見えるのであれ、そういう状態であるということである。「そうである」ことがなく、ただ「そのように見える」だけであれば、そこには二面性、偽りがある。ある意味で、忠実さと相反するものが二面性である。だからこそ、悔悟章で、偽信者たちがタブーク遠征に応召しなかったことを説いた後で、クルアーンでは「あなたがた信仰する者たちよ、アッラーを畏れ、(言行の)誠実な者と一緒にいなさい。」と掲示されている。