個人の問題を解決することと社会の改善

個人の問題を解決することと社会の改善

質問:先生は、自分自身の問題を解決できない人は周囲や社会に存在する問題を解決することはできないとおっしゃっていました。自分自身(ナフス)の改善と社会の改善との関連を説明してくださいますか?

答え:「ナフス」は辞書的には何かの本質、もしくはそのもの、という意味があります。宗教用語としてのナフスすなわち「自我」は、悪意や敵意、欲望、憤怒といった潜在的に害を含んでいる感情の本質や中心を意味しており、こうした感情はすべて、ある種の英知から人間の本性に備わっているものです。これはシャイターンの囁きや扇動に傾きやすく、人の中心として機能するメカニズムの名前です。しかしこのメカニズムは同時に、転換や向上の可能性を秘めていること、つまり人が精神的な世界に上昇していくための最も重要な手段となることも知る必要があります。しかしながらそれが価値ある任務を遂行できるかは、野生の馬が調教され乗用の馬となるのと同様、天の規律による導きと管理のもと訓練され、浄化されるかどうかにかかっています。もしナフスがそれそのものの機能に任されるがままとなれば、空想じみた感情や欲求の後を常に追いかけて動物的な欲望や肉体的な快楽の虜となり悪を追い求めることとなるでしょう。そして最終的に人は永遠の破滅へと真っ逆さまに落ちていくことでしょう。

乳離れしない子ども

イマーム・ブースィーリーはある有名な定型詩の中で、規律のとれていない自我についてこのように述べています。「ナフスは乳飲み子のようである。時が来ても断乳しないなら、食欲が増してもっと欲しがるだろう。意志の力を行使しひとたび授乳をやめるなら、その時、やめることができるだろう」。

もし適切な時点で、意義深く説得力のある議論によって自我が授乳への欲求を断たれるなら、その飽くことを知らない欲求はコントロールのもとにおくことができるでしょう。しかし自我は、アッラーがこれを禁じてくださることを願いますが、自由奔放主義に傾くままに放置され否定的な考えや感情の影響下で力を増すのなら、反抗的となり収拾不可能の悪循環にはまってしまうでしょう。そして己の欲求や空想、気まぐれを人に押し付けるようになります。ひいては真実とその人の間に間仕切りを作り出し、一種の精神面における遮蔽を生み出すこととなります。このことから、ナフスの囚われの身となり種々の問題の重荷を背負わされた人は、他者にとって良い模範となり、善へと導くことはできなくなってしまうのです。ここでこの人が取り掛かるべき仕事は、まず自分自身が抱える問題を解決することです。これに取り組む方法は意志を相応に評価し、自我の飽くなき欲求に待ったをかけ、許された領域内での喜びで満足させ、罪に向けて歩みを進めないようにさせることです。これによって「アンマーラ」とよばれる常に悪を命じる自我から救われ、「ラウワーマ」と呼ばれる常に自己批判を行い正しい振る舞いかどうかを自問する自我のレベルへと進歩することとなります。さらには創造主との関係において満ち足りた「ムトゥマインナ」、すなわち澄み切って満足した良心を持つ自我の地平にまで上昇することもできます。加えて、人は数多くの害に対してアラーに庇護を求めるのと同様に、自らの自己中心さや、人間の本質の中でシャイターンの拠点となる悪を命じる自我についても、昼夜アッラーの庇護を求めなければなりません。

アッラーの道における最大の努力

預言者様はある戦いからの帰り道、教友たちに向かって、小さなジハード(アッラーの道における努力)から最大のジハードに戻るのだと警告なさいました。[1]ここで「最大の」という言葉を使ったことは、この事柄の重要性を示している点で注目に値します。さらにはこの脅かすような発言がムスリムにとっては非常に重要な、決定的意味を持つ戦いの帰り道になされたものであり、それゆえ自我との戦いと、至近距離における敵との戦いに従事することの対比という視点を与えてくれています。さらには、この発言が人々が勝利に沸いているときになされたという点でも非常に意味深いものです。時に非常に重要な発言とは、人々の雰囲気など考えに入れずになされる場合があり得ます(それゆえその発言が注目を引かなかったりします)。そして人々の心にしかるべき形で影響を及ぼさないことがあります。この視点から見ると、このありがたい言葉が発せられたタイミングはムスリムを勝利のめまいから救うという点で非常に重要なものです。この発言によって預言者様(彼に祝福と平安あれ)は、征服軍としてマディーナに戻る道すがら、勝利を収めた教友たちの間でもたげる可能性のあったマイナスの考えを避けようとしたのでした。

我々は、「主よ、わたしたちと、わたしたち以前に信仰に入った兄弟(姉妹)たちを、御赦し下さい。信仰している者に対する恨み心を、わたしたちの胸の中に持たせないで下さい。主よ、本当にあなたは、(特にあなたを信仰する僕たちに対して)親切で慈悲深くあられます。」(集合章59:10)というクルアーンに出てくる祈りの意味に従って、預言者の教友たちについて良く考えることを常としています。他方で、人類の誉れであられるお方は彼らの精神的な浄化や訓練を担っておられたため、彼らの魂の状態を考慮して、最初から、まだその兆候さえも出ないうちに、この警告によってある種のマイナスな感情を防ごうと、意図されたのだと考えられます。実際のところフナインに赴く道すがら、一部の人々の間に、この軍隊に打ち勝てる者など他にはいないという考えが起こったところ、その後一時的な敗退を喫することとなり、人類の誉れであられるお方(彼に祝福と平安あれ)の並ならぬ努力によって、その一時的敗退は再び勝利に取って代わられたということがありました。この例も我々のテーマに密接に関わっています。人はアッラーの道で奮闘しているとき、時には深刻な損失という犠牲のもと大変な困難を通り抜けてくるかもしれません。そして結果として、アッラーは物質的・精神的勝利を授けてくださります。まさにその勝利の瞬間、人に生じえる(傲慢という)ある種のマイナスの感情を制御することは非常に重要となるのです。ベディウッザマン師は誠実さに関する文章の中で、「見栄っ張りなわが自我よ、アッラーの道において奉仕したなどと自慢するでない、ハディースにもあるように、アッラーはこの宗教を自堕落な人間によっても強められる。あなたは純粋ではないのだから、自分自身を自堕落な人間だと見なしなさい」と仰っています。ごく普通の人々のみならず、非常に高徳な方々でさえも、こうした成果や勝利を目の前にしては謙虚さを保ち続けられないこともあり得るのです。

実に、制御し美徳を獲得する目的で自我に向き合わない人は、この世と来世の幸福という点で非常に大きな損失をこうむっていると言わざるを得ません。人を真に人間たらしめるのはその肉体ではなく、その自我、その人の本当の自己です。高貴なる預言者様はあるとき、「アッラーはあなたの体や身体的な外見を見ているのではありません。かれはあなたの心と(心に由来する)行いを見ておられるのです」と仰いました。[2]もし人がその心に真の崇拝や尊敬の念が宿っているのなら、それはその人の態度や振る舞いのあらゆる点に反映されるでしょう。ある時預言者様はある不注意な人物に言及され、彼の心にアッラーへの畏敬の念があったとしたら体の器官も畏敬の中にあったであろう、と仰いました。[3]それゆえ、まず自分自身の本質に向き合い、自我との戦いに取り組み、そこに潜む問題を解決することが非常に重要となるのです。この意義深さゆえに、アッラーの使徒はこのことを「大きなジハード」と述べられたでした。

害悪となる恵み

自我は人をそそのかして罪を犯させることがありますが、時に恵みとして降り注ぐやり方でその人を墜落させることもあります。たとえば、クルアーンはカールーンの物語として次のように述べています。「さてカールーンは、ムーサーの民の一人であったが、かれらに対し横柄な態度をとるようになった」(物語章28:76)。彼はしかるべきやり方でアッラーを信仰しなかったため、アッラーから授かった富や財産によって惑わされ、自我の問題を解決することができませんでした。信仰を持っているように見えても、己の信条を信仰における確信へと転換させることができず、心からの承認という地平に昇ることができませんでした。つまり、単なる情報を、実践によってアッラーの知識へと転換させることをせず、その知識に基づく、もしくはそこから派生する確信を得ることができず、真実を見ることができることに基づく確信に達することもできませんでした。そこでこのような発言するまでに至ったのでした。「これを授かったのも、わたしが持っている知識(能力)のためである」(物語章28:78)。カールーンは預言者ムーサーや彼の民と共に過ごしたにも関わらず、この世的な富に誘惑され敗者の一員となってしまいました。

同様に、預言者ムーサーの民の1人であったサーミリー(サマリア人)という、弁が立ち職人芸を持つ者がいました。しかしながら彼は崇拝用に金の仔牛の像を作り、アッラーから与えられた才能を誤用したため、自らを破滅へと陥れてしまいました。クルアーンでこのように述べられています。「かれ(ムーサー)は言った。『出ていきなさい。生きている限りは、(自らに近づかないよう人々に警告するために)『不可触』と言うことになろう・・』」(ターハー章20:97)。サーミリーは人生の最後まで絶望的な悲嘆の中で暮らすことになるのでした。

このように人が個人の問題を解決できなけえば、アッラーからの恵みでさえも人々にとっての害悪となりえることが分かるでしょう。言い換えれば、恵みのように見えるものでも知らず知らずのうちに懲罰に形を変えることがあるということです。技能、権力、統治する機会、民衆から寄せられる感謝の気持ち、地位を得ること、これらはすべてこの視点から考慮することができます。人が自らのナフスを制御することなくこうした財産を手に入れてしまうと、預言者の道から外れ、気づかぬうちにファラオの道にまで達してしまうでしょう。

今回のテーマについて預言者ムーサー(彼に平安あれ)の時代のある物語からさらに説明していきましょう。実は、寓話の中にはそれが実際にあった話であるかどうかが疑わしいものもあります。しかし大切なのはその寓話が伝える意味であり、我々がそこから得られる教訓であります。その話ですが、シナイ山に向かう途中、ムーサー様は、着るものがないために自分自身を砂に埋めてしまった男を見ます。男は、財産を手に入れられるようアッラーに祈って欲しいとムーサー様に頼みます。ムーサー様がこのことでアッラーに嘆願すると、彼は今の状態がこの男にとってはより良いことを知ります。そこでムーサー様はこのメッセージを男に伝えますが、男はなおも強く望み続けます。とうとうアッラーはムーサー様に、この男を助けるよう命じます。ムーサー様の助けにより、しばらくして男はいくらかの金を手に入れ、一頭の羊を買います。その後、幾何学的な増殖によりあっという間に羊の群れを所有するようになります。ある日預言者ムーサーが再びシナイ山に向かって旅していると、ある一団が目に入りました。そこで何が起こったのか近づいて見てみることにしました。そこで彼が聞いたのは次のような話でした。「昔とても貧乏な男がいた。あるときアッラーは男に豊富な財産を与えた。しかし豊かになったことは何の役にもたたなかったんだ。男は酒を飲み始め、ある日男は酔っ払って喧嘩に加わり、人を殺してしまった。今その男は報復の処刑を受けるところさ」。

まとめますと、歴史の中で、あるいは我々の時代に起こった様々な例で見るように、自らの問題を処理できない人はしばしば、財産や精神に与えられた贈り物を自らの破滅につながる手段としてしまうことがあります。事実、恵みがアッラーを忘れさせ、それによって不注意な者となってしまうなら、見かけは恵みであることも「隠れた害悪」なのです。大きな勝利であってもそれが人をアッラーから引き離すものであるなら、それはアッラーから送られた災難であることを知るべきです。勝利がほとんど間近なところで大きな損失に苦しむこととなるのです(言い換えれば、人は自らの自我を正しく制御していれば高潔の徒となっていたかもしれない、ということです)。ゆえに、自らをこうしたあらゆる危険性から守るには、ナフスとの戦いを決してやめないこと、そしてその罠やたくらみに対して常に警戒していることです。

[1] バイハキー、ズフド 1/165
[2] サヒーフ・ムスリム、ビッル 34;スナン イブン・マージャ、ズフド 9
[3] ハキーム・アッティルミズィー、ナワーディル・アル=ウスール、2/172