アッラーのご満悦という境地を求めて

アッラーのご満悦という境地を求めて

質問:この祈りはムスリムにとって何を意味しますか?「私たちはアッラーが我々の主であり、イスラームが我々の宗教であり、ムハンマドが我々の使徒であることに満足しました・・・」[1]。この神聖な言葉を唱える際の相応しい礼節はありますか?

答え:高貴なる預言者様(彼に祝福と平安あれ)は、全能のアッラーが、「アッラーが我々の主であり、イスラームが我々の宗教であり、ムハンマドが我々の使徒であることに満足しました」といって朝な夕なに祈るムスリムに満足されるという喜ばしい吉報をもたらしました[2]。ですからこの言葉はムスリムにとって、朝晩習慣的に行う祈りとすべき神聖な言葉であります。この祈りを唱える人は、アッラー、そしてひいてはかれの為すことすべてについて満足していること、天与のシステムとしてのイスラームに満足していること、そして従うべき指導者としての預言者に満足していることを認めていることになります。実に真のムスリムとしての道も、こうした考え方や感情を大切にし、信仰に確信を抱くこところを経ています。預言者様はこの賢明な忠告によって我々に非常に大切な真実についての教えを授けてくださり、舌で認めたこの満足の境地に実際到達できるような、またこの感情を発展させ、根付かせ、深めさせるような行いをするよう、ムスリムに奨励しておられるのです。

アッラーのご満悦における北極星

預言者様は、冒頭で رَضِينَا بِاللهِ رَبًّا と述べてアッラーに満足していることを宣言し、この真実に則して紡がれた彼の模範的な人生をもってして、アッラーのご満悦を得る上でご自身が北極星であられることを明らかにされました。アッラーのご満悦を得るという地平線の中心点は彼であられます。ですから我々は「アッラーが我々の主であることに満足しました」と言う度に、彼が我々の前を歩く案内人であることを知り、そのように見なければなりません。それがどれほどのことかというと、ある人がアッラーへと向かう精神的旅路において翼を身につけ、アッラーから「われはそなたに満足している」と語りかけられるのを直接聞いたとして、そしてあり得ないことではありますが、アッラーがその人を預言者様と同席に着かせてくださり、啓示を授ける際にその旅人へのご好意として両者に同じ教えを施してくださるようなことがあったとしても、それでもその人は預言者様のことを、先を歩む究極の指導者であると見なさなければならないのです。なぜならその旅人がそれほどまでの感情、思考、論理、哲学、洞察力、深い熟考といったものを獲得できるのも、預言者様の導きがあってこそだからです。預言者様がいらっしゃらなかったら旅人のこの世と来世の人生は暗黒の牢獄となっていたでしょう。ですからムスリムがアッラーのご満悦という地平線を目指す上で最初から、諸預言者の長であられるお方を常に案内人そして教師として見なすことが非常に重要となります。この精神的な旅路においてある一定のレベルに到達することによって預言者様への敬意を深める人もいますが、何事もイスラームの客観的な基準に則って比較検討することを怠る人(アッラーがお守りくださいますように)はこのことがバランスを失い不適切な振る舞いを引き起こす原因となる場合があり、「私のヌール(光)は彼のヌールほどに輝かしい」といった発言が飛び出るところまで至ることがあります。実際は預言者様(彼に祝福と平安あれ)は最初の光であり、中間の光であり、最後の光であられます。その光に匹敵することや彼が到達された地位に達することなど誰にもできるはずがないのです。

預言者様(彼に祝福と平安あれ)はこの神聖なお言葉の中で続けて وَبِالْإِسْلَامِ دِينًا という表現により神から授かったシステムとしてのイスラームに満足していることを表明しておられます。預言者様ほどにイスラームを正しく理解し、天与のシステムに対して彼ほどの満足に到達し、そのシステムに人生を捧げ、それを確立させることだけを考えることのできる人など他にはありえせん。アブー・バクル様ほどの誠実さ、ウマル様がみせた真否を区別する上での熱心さ、ウスマーン様がクルアーンに寄せた深い関心、アリー様が心と精神の英雄であられた様、これらすべての徳をすべて足し合わせたとしても、預言者様のイスラームに対する満足度と比較したら十分の一にも及ばないことがお分かりになるでしょう。私の表現によってこの偉大な方々を軽んじているというように思わないでください。むしろ私は偉大さを強調するためにこの方々を挙げ、イスラームというテーマにおいていかに預言者様が満足される英雄であられたかを示そうとしたまでです。

最後に、預言者様は وَبِمُحَمَّدٍ رَسُولًا と述べてアッラーの使徒であられることへの満足を表明されました。実際、アッラーに愛される僕としてあられたこのお方は徹底的なまでに謙虚で控えめであられたため、アッラーの僕としての意識をもって常に行動しておられました。ご自身の召使と共に食事を取られ、召使が食べ始めるまではご自身も食べ始められませんでした。ご自身を取るに足らない人間となんら変わりなくご覧になられていたのです。こうしたことに関わらず、彼は重責として肩にのしかかってくるアッラーの教えを人々に伝えるという任務を任されていたのでした。ですから「ラー・イラーハ・イッラッラー」と言いアッラーを唯一の神として受け入れたとしても、「ムハンマドゥン・ラスールッラー」と述べて預言者ムハンマドが神の使徒であることを認めなければムスリムとはなりえません。彼の預言者性を受け入れるということは、イスラームとイーマーン(信仰)において不可欠な項目であるからです。比類なき謙虚さと預言者としての任務を宣言することの間には、一見矛盾が存在するかのように思えるかもしれません。だからこそ「ムハンマドはアッラーの預言者である」という事実に彼が満足を表明していることにはまた別の価値が備わっているのです。なぜならこれはアッラーが命じられたことだからです。

アッラーの知識と、アッラーのご満悦の意識

この聖なる言葉を唱える際のマナーとして、慣れから生じる侮りの気持ちを含めることなく、心の底から湧き起こる愛情や情熱と共に述べることが非常に重要となります。実際のところ、アッラー、預言者、そしてイスラームに満足するかどうかはすべて、これらを良く知っているかどうかに関わっています。知識を持っている人はその知識の度合いに応じて愛することができるでしょうし、反対に知識のない人は、自分が知らないものに対して無関心であり続けるでしょう。ですからアッラーについて、その偉大さや威厳、ルブービーヤ(主性)やウルーヒーヤ(神性)の秘密を知らなければ、満足の境地に到達することなどできないのです。人類の誇りであられるお方についても、その真の人柄や美徳を知らなければ、そのお方の預言者性についてもあるべき形で受け入れることはできないでしょう。同様にイスラームの教えについても、そこに備わる広大さと深遠さを考慮しながらその方法論や付随する事柄を理解するのでなければ、あるべき形でイスラームを正しく認識することはできません。

現在も過去も、人類の誇りであられるお方に対する多くの人々の無関心は、その方に関する知識の欠如と馴染みのないことが原因となっています。人々の心にそのお方に対する愛を燃え立たせることができれば、好奇心が刺激され、彼を真剣に知ろうとする機会が生まれるでしょう。ところが街中にこうした雰囲気があるわけではなく、学校やモスクでさえ人々にそのお方を知る機会を提供できないでいます。家庭でもその雰囲気が生まれてはいません。結果として、多くの人々が人類の誇りであられるこのお方を良く知らないまま成長してきています。しかしここまでの怠慢、損失があるにも関わらず、ムスリムの心でそのお方に関係する意味が輝きを放ち、「ラーイラーハイッラッラー、ムハンマドゥン・ラスールッラー(アッラーの外に神なし、ムハンマドはアッラーの使徒なり)」と唱え続けているのであれば、これは全能なるアッラーからの特別な恩恵であると見なさねばなりません。

最上の恵みのために絶えずドゥアーすること

アッラーのご満悦が天国や天国での恵みよりも素晴らしい恵みであるならば、私たちは手を広げ、このように言い続けながらアッラーのご満悦を求めて祈るべきです;

اَللّٰهُمَّ إِلَى مَا تُحِبُّ وَتَرْضَى

「アッラーよ、あなたが愛し満足なさるものに(導いてください)」

私たちはまた、アッラーのご満悦に到達するために生き、呼吸するべきで、常にこう祈る必要があります;

اَللّٰهُمَّ عَفْوَكَ وَعَافِيَتَكَ وَرِضَاكَ

「アッラーよ、あなたからの許し、幸福、そしてご満悦を求めています」

なぜならアッラーは、しもべが一心に祈ったものを授けてくださると約束されているからです。しかしながら、この件に関しては粘り強くあり続ける必要があります。願ったものが授けられるには、5年、10年、20年と祈り続けて初めて叶うかもしれないからです。ですから、アッラーが私たちに満足してほしいと心から願い、アッラーが為すどんな行いについても満足しながら自らの心臓が鼓動を打つことを願うのであれば、10年、20年かかろうと私たちはその願いを切に祈る必要があります。私の考えですが、この目的のために祈りの長距離マラソンに取り組む価値は十分あります。なぜならアッラーは、天国に入るよりも、天国の最上階に到達するよりも、かれの愛する預言者にお会いするよりも素晴らしい恵みがあることを啓示されているからです;「・・・だが最も偉大なものは、アッラーの御満悦である」(悔悟章9:72)。ですがアッラーのご満悦を求めてそれほど長い間祈りを捧げた人は私たちのうち誰もいないのではないでしょうか。アッラーに心を開き「アッラーよ、あなたのご満悦を、あなたのご満悦を・・・」と言いながら25年間も祈り続けた人はいないのではないでしょうか。本当は25年だけでなく、250年間祈り続けるのが妥当であると言えましょう。もしそれほどの寿命が授けられたとしたらですが。

結論ですが、高貴な預言者様はこれらの言葉でムスリムにとっての非常に崇高な目標を示されました。であれば、ムスリムがすべきことは、この目標を達成するためにできることは何であれ行うことです。信仰を持つ人は誰でも、この目標を抱き、そこへの到達を切望すべきです。真剣に目標を採択する人は、それを実現させることを夢見ながら生きるものです。それはウドゥーをする際、礼拝に向かう際、さらには礼拝を捧げる際などあらゆる瞬間にその事柄が頭を駆け巡るほどです。結果として、想いを巡らせていたその事柄がアッラーの視点から祈りとして受け入れられることになり得ます。そしてアッラーはそれを無駄骨となさることはありません。アッラーのご満悦という境地を獲得するために絶えず奮闘しなければならないのはこのためです。私たちは昼も夜もこのことに専念して生活し、息をするべきです。これこそが四六時中私たちの思考に浸透している考えであるべきです。

[1] サヒーフ・ブハーリー「知識」29 、サヒーフ・ムスリム「断食」197
[2] スナン・アブー・ダーウード「アーダーブ」100