これが私の最後の言葉になりうる

病気はある面では、来世への旅のための準備への招待であり、忠告でもある。あらゆる病気は人間にこの人生がはかなくつかのまで、永遠の世界へ行く事を思い出させてくれる。もう何年もの間、いろいろ多くのやまいにかかっているのだが、最近煩った心臓発作は、完全に私を来世へと結びつけた。さて、ここで申し上げる文章を「最後の言葉」と考え、私は音を発している。私は、人生の最後の時を生きており、そして、来世に開かれた階段に、充分、近づいたことを心に感じる。あのはじめての発作を何とか切り抜けたものの、心臓と糖尿のやまいは今も続いている。日に何回も血糖値を調べ、心臓のリズムを失い、鼓動を聞くのさえ困難な状態である。いくつか特別に使う薬を除けば、毎日 25 から 30 種のくすりを使用している。多くのくすりが体に及ぼす悪影響だけでも、人を床につかせるにはじゅうぶんである。だが、ベッドに横たわっていること、さらに、 ( 痛みの為に)寝不足が続いていることが私の命を縮めているようだ。このため、長い間、ベッドに寝ているのがいやなので、半ば座りながら 1 人か 2 人の友人とともにいられる居場所をより好んでいるわけだ。

ある人々が、もしある場所で貧しい者 ( 私)に関する文を発見すると、すぐに新聞や雑誌、インターネットのページなどによって、私が関心を持つ考えにたどりつくことができる。さらに、私のEメールアドレスを望む方々や文通しあっている方々がいらっしゃることを友人から伺っている。しかし、私は何人かの親友から届いた手紙さえ読むことができないでいる。返事が全く書けない。インターネットにも、全く時間をさくこともない。実は、私の人生の最後の時とみなされる今をそのようなことで過す事を望んでいいのだ。主の御前に侍るとき、主が承諾してくださるよう、行ってきたイバーダとドゥアーのほかどんなことも大いなるアッラーに対する不誠実さの表れとみなしている。今はただ主の承諾のみを考え、主の御前でサジダすること、預かり物を返す瞬間を、もっとも清浄な感情と考えのなかで、迎えたいと願っている。

私を善く考える友人達が貧しい者 ( 私)からまだ何か学ぶことができるだろうと考えて私に質問をなさる。私にはお話できることはなにもないのだが、彼らへの敬意の表れとして短い文であってもお答えしようと努めている。あとで、知ったことだが、友人達の何人かにお伝えしたことをメモして、インターネットのサイトに発行しているそうだ。お伝えしたことは価値あることでもなく、何かを説明したとは考えられない。しかし、善い考えを持った、善い意志(ニーヤ)で、善いことを考えている方々のこの努力を尊重し、私は何も言わずに見守っている。

このことについて違った側面があるだろう。私は自分自身を人に忠告し、何かを伝えることができるとは考えていなかったし、今もそう思っていない。説教(ヴァーズ)し忠告するものはしっかりとした内面的準備と精神的満足感と共に聞く人々の前に出なければならない。これは顔に仮面をつけて出るというような意味ではない。語る者は、まず始めに、心をアッラーとの関係におき、聞く方々の時間を浪費しないようよく準備を整えることに気を配らなければならない。スピ-チ一つ、忠告一つと言うように通り過ぎてはいけない。人は 30 分語るために何日も前から、知性、思考、魂、感情を整えなければならず、目を他のことから遠ざけ、心を(銃の)照尺と昇順具で(アッラーの)承諾という的(まと)に焦点を定めなければならない。そして、多くドゥアーし、至高なるアッラーがお喜びになるだろう言葉を語ることができるように、主に助けを求め、懇願しなければならない。

ある人が、偉大な人の 1 人、タービイーンのターウス ビン カユサーンを訪れ、「ドゥアーしてくださいますか」というと、ターウス・ハズレトレリは「心はドゥアーできるほど、(アッラーへの)畏敬の念を感じる事ができないようです。」と仰った。このように語る者は、心にアッラーへの畏怖を持ち、十分精神的な準備を整えてから、聞かれる方々の前に出なければならない。出て行くときも、悪い例にならないようアッラーに助けを求める必要がある。そう、助けを求め「イスラーム社会を、私自身のふるまい、不作法さで彼らが判断してしまったら、宗教(ディーン)に対して彼らに嫌悪感を抱かせる原因となってしまう。」と考えながら、壇上へぶるぶる震えながら歩まなければならない。そうして、この畏怖の感覚と共に、語り始めなければならない。

さて、このことに責任を感じるものにとって、道を示すと言う名のもとに人々に話をすることはたいへん難しい。忠告ほど難しいものはないと言える。すべてのことばをアッラーが受け入れてくださるよう導くこと、何かよいことを話すとすぐ自我が計算しはじめるので、「嗚呼、主よ、間違いをおかさないよう貴方に助けを求めます。ことばを語らせているのは貴方です。私に音を発しているのは私ですが、人々の必要に応じて、この言葉を思い出させてくださるのは貴方です。これを自分の持ち物のように感じ、多信仰におちいることから私を御守りください。」と言いながら、瞬時に、自分自身に問い直し、するどく見つめることが非常に重要である。と同時に、重要なだけに、困難なことでもある。「説教(ヴァーズ)は心の声」でなければならない。説教をするものは、その声がまず始めに自分自身の心の中において聴く必要がある。まるで、誰かが彼に忠告をしているかのように感じなければならない。彼自身がたとえにあげた勇者たちを自分にひきつけて、理解しなければならない。ハムザを伝説化する時は、その向かいに、ウトゥバやシャイバそしてワリドの姿が見ているかのようでなくてはいけない。そして真剣に集中して語らなければならない。

責任感から、貧しい人々は知っていることをたまたま声に出して、言うことがありえる。しかし、問題は 30 分間で満たされ、語られたことにはならない。道を示す者にとって、最も大切なことは、人間とアッラーとの間の障害をとりのぞくと同時に、彼らの心を神聖な世界と結びつけることである。話し手の目に触るような態度や、耳を刺激するような言葉でまた、説明の際の無作法さによって妨げてしまうのなら、導きの目的は逆の結果を生むことになるだろう。ハーティプ(説教者)自身をその間から消し去って、聞き手をアッラーと共に存在させることが基本である。話し手の自我の欲望をも含めて取り除くこと、精神の巡りあう橋を作ることが、方向性のある道を示すための講演では、もっとも重要な目的となる。このような準備も感受性のない者達が警告という目的で、見せかけで叫んだり、呼んだりしても、また、機知に富んでテーマを圧倒したとしても、人々には好まれないだろう。彼らをアッラーへ近づけることができなかったように、彼自身からも遠ざけてしまうことになるだろう。