イスラーム世界の空虚さ

イスラーム世界の空虚さ

ただ言葉のみではどのような事柄も解決する事はできません。もし可能であるなら、有言不実行な人々の数多くの言葉によって、今まで解けなかった問題の数々は跡形もなくなっていた事でしょう。イスラーム世界には空虚さが存在しています。信仰してはいるけれども、それが信じている行動様式には影響を及ぼさないのです。地震にさらされた地面のようにイスラーム世界には大きな大きな窪みがあるのです。「私はムスリムだが、勝手気ままにいきるさ。」と言うような理解の仕方では、信仰心が強いとは言えないでしょう。ムスリムであるという事を、このような気楽な生活パターンで持続するのは難しいです。ディーン(宗教)は人間性を形成し、型に入れ整え、人の人生に一定の秩序を与えるために齎されました。人間が宗教を気の向くままに形作るという事ではありません。

もっともらしい方便では神の知識は成り立たない

1400年間、今日まで伝えられて来たディーン(宗教)が存在します。ある方が人間の名誉欲とそれへの期待からしゃしゃり出て、ディーン(宗教)をもてあそぶようなこと

は断じてしてはなりません。独特な行動をしたいのでしたら、ここから離れ、他の地域でなさるように。名誉欲からくる見せかけの言葉は、たとえ、どんなに雄弁であっても、神についての知識に関する限り、通用いたしません。1400年も生き続け、生かされ続けてきたイスラームの教えを、方便によって歪曲しようとするのは、大変大きな過ちです。

宗教的生活と真剣さ

子ども達は私達の人生の写真といえます。そうであるならば、私達はそれなりのポーズを取ることが必要でしょう。このようなよい人間になってもらいたいとお考えになるなら、まず私達は彼らにそのようなよい人間として映し出されるべきでしょう。たとえば礼拝はムスリムにとって放棄する事のできない、また他のことでは満たす事のできない崇拝行為の1つです。そのため子ども達の礼拝する習慣はそれが意識下で身につく年頃から始める方がよろしいでしょう。4才ころから生活の中で自然な形で行なわれるよう努め、性質の一部となるようにすべきでしょう。少し成長した頃、子どもが「礼拝しないなら死んだ方がまし。」と言えるようにすべきだし、このように考えられるまで根気よく見守りましょう。

ユダヤ教徒達を御覧なさい ( 注1 ) 。彼らは夏となく冬となく、幼少の頃から、子ども達を土曜日毎に、伝統的行事に連れて行くようにシナゴーグへ連れて行きます。私達と言えばお祭りからお祭りにのみ連れて行くのですが、彼らは服装に関してもその様式を変えていません。飛行機での旅においても、彼らに許されている食事しか食べません。彼らは彼らにとって価値あることを誠心誠意、一心に守ろうとしています。専心さに対して、アッラーもこの世で彼らに報奨をお与えになっているのです。

私達と言えば、残念ながら真剣さに欠けます。これらのことには大変軟弱です。一種の恐れと恥ずかしさの念を抱いています。いいえ逆に私達は私達のディーン ( 宗教 ) を様々な城壁で防御し、盾を手にし、それを守り抜かなければなりません。ファルド ( 義務 ) 、ワージブ(義務)、スンナ(注2)、ムスタハーブ(注3)、マンドゥープ(注4)がこれらに対する内壁と外壁となり得ます。必要に迫られない限り、これらを変えてはなりません。宗教的価値を守り、生きていく上で、真剣さと確固たる決意を持ちつづける事が大切です。

ここで、アブドッラー・ブン・ムバーラクの言葉を思い出していただきたいと思います。「礼儀正しく振舞う事を軽視する者は、スンナを欠いた為に罰せられる。スンナを軽視する者は何時しかファルド(義務)を欠いてしまう。ファルド(義務)軽視する者は、アッラーを全身全霊で知る知識を欠いてしまう。」

このような結果に至らないよう、ムスリムたちは真剣かつ確固たる決意の許に生きるべきです。誰でも自分の属する宗教を恥ずべきではありません。旅路においても、礼拝し、クルアーンを読誦する事を恥ずかしがってはいけません。私達が、私達として留まる限り、他者の間にあっても、それを説明することが可能でしょう。さもなければ、逆に私達は彼らに似始めていると言う事になります。実に、宗教は私達のすべてです。現世でも来世でもです。私達の生活はそれと共に均衡が保たれ、形作られます。人生はそれによって正しく理解されます。人生において私達を完成に導くのはそれです。

よい行いに頼らない事

天国への道は正に、アッラーの御手の中にあります。誰も自分自身の行為によって、天国には入れません。なぜなら、天国はただアッラーの十分な恩恵によってのみ入ることができるからです。クルアーンにも主の約束が語られています。ほんの些細な善行にもその報奨が準備されていると。そうです。地獄に落ちたとしても、その報奨は見出せるでしょう。この観点から、どんなかすかなイーマーン(信仰心)でも大変重要である事がわかります。なぜなら、イーマーンなくして天国に入る事は困難だからです。ですから、イーマーンを善き行為によって強化していく事が必要です。

時には、大変素晴らしい崇拝行為の中に混じってしまった小さなことによって、その素晴らしさが失われることもあります。さらに、来世でも災いとなる場合があります。たとえば、礼拝ですが、大変表面的に軽軽しく気楽にするとします。してはいるけれども、疲れを感じながらしているわけですね。またサダカについても同様です。物質的援助をするとしましょう。しかしながら、目的は、彼自身について周囲の人々に「ほら、なんて寛大な人だろう。」と言わせるためであり、彼は拍手喝采を待ち望んでいるとします。この場合これらの行為は、地獄への道を彼に開く事になります。

このため信仰心、感覚、考えを精神的に高揚させるためには、何時でも活き活きと活力に満ち溢れていなければならないでしょう。宗教がちょうど新しく下されたかのように、教友達と共に生きているかのように、常に新鮮さを持ち続けるるよう努めるべきです。

夢でさえもクルアーンの命にそむかぬ者達は、いつでも新鮮な信仰心や感覚、考えを持ち続けることができる者達です。これらの方々は、私達の長、預言者(彼の上に平安あれ)御前に侍るがごとく感じられる人々です。彼らは、夢の中でさえも、預言者 ( 彼の上に平安あれ ) を見出し、彼に向かい、彼と語り合う事を探し求める者たちです。

今日ムスリムたちには莫大な益が齎されています。もしそれを最大限に活用する事ができるならば・・・私達の誰も私達の長、預言者 ( 彼の上に平安あれ ) にお会いした事はありませんし、クルアーンが天から下されたこと目撃した者もおりません。それにもかかわらず、まるで彼にお会いしたかのように、そしてまた、下されたのを目撃したかのように、私達は心から信じております。そうです。これらは多大に私達を益するものですので、もしよく評価することができるのならば、人類の誉れ高きお方がおっしゃられたように、末世においてイスラームの教えを保ち続ける「同胞」達の仲間となることが可能かもしれません。ムスリムとして、異郷の地 ( 注5 ) に生活している今日、私達にとって、これは最も善き吉報ではないでしょうか?

服従と自由

神の恵みから遠ざかり、宗教の基本は存在しないという考え方は、人を俗世欲へと駆り立てます。たとえば、身に降りかかる出来事を価値付ける場合、信仰に基づいて重要か否かを考えたり、信仰を中心に価値付けし出来事を捉えようとしたりはしません。もし洞察力を持ってご覧にならないならば、「ああすればこうならなかった。どうしてこのような結果になったんだろう・・・」と不平を述べ立て、身を滅ぼします。けれどもアッラーへの信仰心と天命へ服従と神意への従順さともに、同様の出来事をご覧になるのなら、手に入る結果は違ったものとなります。そうです、もし人が真の自由に到達したいのならば、彼 ( アッラー ) に、そして彼から来るすべてのことに服し従いましょう。服し従う事からはるか離れてしまった魂は、生きた屍のようなものです。死体とたいして変わりません。この理由のために、人間はアッラーとの関係を、ネイ ( 注6 ) のように持続的に奏で続けなかればならないのです。保護されるのはすべてアッラーであられます。すべてのことを彼のご承諾を求めて行なわなければなりません。少なくとも、そのように努めるべきでしょう。そうです、人間はたとえ微かではあってもこの真実を信じるならば、いいえ信じてください、もし信じるならば、この世でも、あの世でも、失うものはありません。


注1:アメリカ在住のユダヤ人

注2、スンナ:預言者(彼の上に平安あれ)の行なった報奨のある行為

注3、ムスタハーブ:預言者(彼の上に平安あれ)の行なった行為、行なえば報奨があり、行なわなくても罪にならない行為

注4、マンドゥープ:行なえば報奨があり、行なわなくても罪にならない行為。たとえばウドゥーを礼拝時間に入る前にする事はこの行為にあたります。

注5、アメリカ在住のトルコ人に向けた講話での発言

注6、管楽器。音色は尺八に似ている