預言者のような強い意志と努力

イスラームの中で生きようと奮闘努力し、その道を歩みつづけようと励まれているみなさん、それぞれの人生において、あなた方のニーヤ(意図)が、すべて彼の方 ( アッラー ) のためであるなら、あなた方は真っ青な色合いに包まれた天国に属する魅力的な香りを、あなた方が通り過ぎるどの路でも放つことでしょう。

そうです。信仰者のニーヤ ( 意図 ) はたいへん重要です。ニーヤ ( 意図 ) は日常的な行為を崇拝行為に変えますが、同様に、それが正しく守られない場合、数々の崇拝行為は崇拝行為ではなくなってしまいます。もしよこしまなニーヤ ( 意図 ) によって、礼拝の方式を汚すなら、そう、そのとき、あなた方の目の前に亡霊のよう得体の知れない代物が現われます。一方で、アッラーの預言者(彼の上に平安あれ)を見習った寝方でさえ崇拝行為になることをイスラーム学者達は明言しています。

ニーヤ ( 意図 ) はこれほど大切ですので、いつでもアッラーと共に、そして、いつもいつも誉れ高きアッラーの御言葉と共に、座し、立つことがあなた方を大変向上させるのです。もともと、アッラー又はアッラーの御名を高めるのに自分自身をしっかりと結びつける事はおそらく、それほど深い考えもなく、深遠な崇拝行為ともつながりませんが、人々を高めるのは、継続的にアッラーに向かい続けようとする意図と努力なのです。

この事が人々を思いもかけないほど高く向上させるので、その真実を知った者は、食べる時も、飲む時も、寝る時も、そして起きる時、いつでも「これらの真実をどのように伝えたものだろうか!」と語ったものでした。アッラーに向かう時に伴う苦悩と共に生きる事こそが、真理なるアッラーへ届けられるもっとも優れた祈り(ドゥアー)となるのです。

預言者達の預言者性はよく知られています。預言者性とはアッラーの神意によって与えられた預言者の属性です。であるなら、なぜ私達は彼を見習わないでいられましょうか。彼の行った行為をなさずにいられましょうか。私達は、預言者 ( 彼の上に平安あれ ) の示された強い意志と努力を見習うことで、預言者 ( 彼の上に平安あれ ) のように、貧困の真っ只中でも生きぬく事ができるようになります。もし私達の魂から無駄な空想を取り去る事ができるのなら、預言者 ( 彼の上に平安あれ ) を見習い注意深く考えていくうちには、私達も彼のように「苦難と共にある者」となりえるでしょう。イスラームからのすばらしい感動や高揚を私達は日常生活のいたる所で、感じることができます。このような苦悩を感じる事は実は困難なことではないと私は確信しております。

一方で、アッラーはある者たちに愛情を植え付け給います。もし何方かに御手をのばされるなら、直ちにその方の時は熟します。このことを誰も知り得ませんが、おそらくアッラーご自身が私達にその機会を与え給うたことの目撃者であられます。

そうであるならば、時が失われる前に、私達はアッラーの望まれる事を成し遂げなければなりません。

イスラームの道を歩む時、時には私達の目前には障害が現われます。ある者はあなた方の前に現われ、あなた方を害そうとするかもしれませんが、預言者達にも多々の障害が生じたではありませんか? とするならば、この人生において、そしてイスラームの道において生じる多々の障害を現実的に受け入れるべきでしょう。

また一方で、大地の上に蒔かれた種のすべては芽を出しません。幾つかの種は鳥達が食べ、幾つかは腐ってしまいます。そうであるなら、(芽を出すという)そのがんばりを高く評価し、手の中にある種すべてを、瞬時に、土に蒔くべきでしょう。こうなるようにとか、ああなるようにとか、あなたの目を成果に向けないで下さい。アッラーと駆け引きすることになり、それは誤りです。私達は、私達の役目を果たし、結果は彼の方の神意にお任せすべきです。

継続すること

日常生活の行動において大切なことは、アッラーがご覧になっているように、すべてのことを間断なく、間違いなく、滞ることなく行うことです。信仰は、理論的に考えることによって理解できる側面を備えています。この種の信仰はある段階まで人々を導き、高めることが可能です。「人が朝の礼拝を40日間集団でするなら、アッラーは彼の心に輝かしい光を灯すだろう。」と偉大な先人が語っています。が、この結果は、概念上の信仰ではなく実践の信仰によりを手に入れることができます。さらに大切なのは、その実践による信仰を「アッラーがご覧になっている」という深慮と共に、成し遂げることです。

アッラーへ専心すること、アッラーに向かうことを可能にし、いつもアッラーの御前に在ると感じる感覚は人それぞれに多様であり、いろいろな段階があります。もっとも優れている段階は動機や原因に囚われずに、動機や原因をはるかに超えた方向、つまりアッラーへ方向付けられる場合です。私達はその段階に到達するために、なんとしても、秘密の鍵を手に入れなければなりません。その鍵を手に入れるためにも、自我に固執してはなりません。この近道のひとつは、礼拝を正しく完全なやり方で行っているかを常にチェックしながら礼拝することでしょう。そして礼拝後に、心をこめてアッラーを讃え、両腕を主に掲げ祈ることです。

ただここで、意図がたいへん重要になることをもう一度確認しましょう。運動すると言う目的でなされる礼拝は「運動をすること」という意図(ニーヤ)になりますが、この意図は礼拝から礼拝そのものの意味を取り去ります。意図されたように、ただの運動という行動とみなされます。偉いなあと周りの人が言うようにとか、私に注目するようにとか、拍手喝采するようにと行われる場合も同様で、これらは意図となりますが、人々はこのような意図によって地獄へ転げ落ちていきます。

ご覧になったように、自分自身に固執せず、無我の境地に到達するためには、すべてを彼の方にお任せし、継続的に自我と戦うことが必須となります。そうです、彼の方の恩恵が豪雨のように私達に降り注ぎます。大切なポイントは、これらの恩恵、恩寵を純粋にアッラーからの預かり物であると意識し、すべてを本来の持ち主であられるアッラーにお返しできるかどうかなのです。

さらに、彼の方が定められた規則を守り、従うことも大切なポイントですね。人はよく働き、そして疲れます。が、それらがもし彼の方のためではなく、彼の方の定められた範囲内でなければ、寝ることも惜しまず働かれても、すべては「骨折り損のくたびれもうけ」となり、それらはただの疲労となるのみです。すべてのことを創造者のみがご存知です。その創造者の命に服し従うなら、あなたはさらに高い段階に到達できることでしょう。