「上にある手は下にある手よりも価値がある」

預言者ムハンマドは次のように言われた。

「上にある手は下にある手よりも価値がある」[1]

上にある手とは与える側の手、下にある手とは受け取る側の手のことである。そのことは、別のハディースで預言者ムハンマド自らが解き明かしておられる[2]。事実として、与える側の手が上にあり、受け取る側の手が下にあると見なすことができることに加えて、与える側の方に善行や徳がある事をも示している。人間の名誉、尊厳と言った意味からも、一方は優位にあり、もう一方は下位にあると言える。またこの言い方は良い者に与える事を望ませ、受け取る事を嫌がらせるためでもあり、その意味からもこの言葉は素晴らしいものである。

さらに、与える者がいれば当然そこにはそれを受け取る者がいるという観点から、与える手が価値があるという表現でよしとされ、受け取る手は悪いという表現はされることなく、ただ価値が減ることを述べられるに留められ、様々な条件下においては受け取る行為も許される事を指摘されておられる。

一般的な意味でこうした「与える手」「受け取る手」という解釈は合っていると言えるが、、このハディースは「与える手は受け取る手よりも価値がある」と訳すことは不十分である。原文で使われている言葉は「上にある手」、「下にある手」である。預言者ムハンマドはここで比喩表現を使っておられるのだ。「与える手」、「受け取る手」という意味をも含むと言えるが、完全な訳ではないのである。

まず、「手」と言う言葉が示しているのは人そのものであり、与える者は、受け取る者よりも価値があるという意味になる。

時には受け取る者に価値がある

次に、預言者は、「与える」、「受け取る」、ではなく、「上にある」、「下にある」という表現をされている。このことから次のようなことが読み取れる。与える手は、常に受け取る手よりも価値があるというわけではない。受け取る側が特に価値があるということにはならないが、他に何の手段もない場合など、状況は違ってくる。もしくは、受け取る者は、与える側の者が善行を施したことになるのを望んで受け取り、をふさわしい目的で使った場合、あるいは与える側が恩を着せる場合などといった場合は、価値があって上にあるのは受け取る側の手である。見かけは与えるほうが上に見えるかもしれないが、真実においては確実に下になるのである。

身なりもよくなく、人が集まるところなどで常に軽蔑されている貧しい者たちがいる。彼らが何か求めるために戸を叩いても開けられることはない。ただ、彼らの中では困難にしっかり耐えている者たちがいる。預言者の言葉の中でそのような者たちについては「彼らが何かについてアッラーに誓いを立てた場合、アッラーは彼らにそれを実現させられる」というのがある。ベラ・ビン・マーリクもその一人である[3]。ムスリムたちは戦いに苦しむと彼のところに来て、勝って戻る事をアッラーの御名に誓うよう彼に望みに来ていた。彼も誓いをたて、それは実現したのであった[4]。このように、受け取る手はこのような人であることもあるのである。

教友の一人、サウバーンはとても貧しかった。しかし預言者ムハンマドは彼に、決して誰からも何も受け取らないようにと勧められた。その日以来、彼は誰からも何も受け取らなかった。さらには、時としてラクダに乗っている際に鞭が地に落ちることがあったが、彼は誰にも頼まないで、自らラクダを降り、自分で鞭を拾うのであった。[5]

時には、彼のような者に何かが与えられることもあるかもしれない。それは天使ジブリールのような人に物を与えるようなものであろう。受け取る側にあっても、このような人々は決して与える側の人々より下にあるわけではない。預言者ムハンマドの奥様アーイシャからの伝承にあるように、このような人々に物が与えられる時、まずその差し出された物はアッラーの御手に置かれ、それから受け取る側の人に、アッラーがそれを与えられるのである。[6]

重要な助言

預言者ムハンマドは、このハディースを通して我々に次のような事を勧められている。

「常に、自分を高いところに置くように努めなさい。施しを求める事によって自らをつまらない者としないようにしなさい。人として、そして国家として、常に与える側という立場を守るよう努めなさい。そうすればいつでもあなた方は優位に立つことができ、名誉も守られるであろう。上にある者はいつもものを与えるときは安全の中にいて、下にある者は不安の中にそれを受け取り生きるということを忘れてはいけない。あなた方は支配する手になりなさい。支配される手になってはいけない。優位にあることができれば、支配する手になることもできるであろう」

国家間のものさし

このハディースは、我々にとって国家間の関係においても確実なものさしとなるものである。もし我々が上にある手であることができれば、国家間の力関係においても我々にもいい場所が与えられるであろう。そうすれば、超大国の力に抑圧された人々も立ち上がる機会を得て、救われるだろう。そうでなければ、抑圧され、見下される側であるという状態から逃れることはできないであろう。今日の世界ではどこにでも見られる光景である。超大国はいくらかの資金援助をする代わりに、その民族の血を吸い、彼らを抑圧する。今日我々(トルコ)は受け取る手であるという苦しい状況にあり、その状態から抜け出す手段も見つけられずにのた打ち回っているのである。一人の人としても、国家としても我々がしなければならないことは、懸命に働き、努力し、イスラーム世界から、ある意味では全ての人類から期待されていること実現することである。

預言者ムハンマドはここでも、短い言葉の中で多くを語られているのである。

 


[1] Bukhari, Wasa'ya' 9, Zakat 18; Muslim, Zakat 94; Ibn Hanbal, Musnad 2/4
[2] Darimi, Zakat 22; Bukhari, Zakat 18
[3] Tirmidhi, Manaqib 55
[4] Ibn Hajar, al-Isabah 1/143
[5] Abu Dawud, Zakat 27; Ibn Hanbal, Musnad 5/275
[6] Bukhari, Zakat 8; Muslim, Zakat 63-64