人は航跡の様である

将来の教育者たちは、次のハディースについて、学ぼうとするべきであろう。

「人はあたかも、金や銀の鉱石のようである。無明時代に価値があった者たちは、イスラームに入信し、深みを増し、(それを消化できれば)やはり、最も価値のある者たちである」[1]

この言葉により、預言者ムハンマドはあたかも全ての教育者や心理学者を導き、彼らに次のような事を教えられているのである。

人々の教育において、彼らの性格を確立することがとても重要である。外見は魂の世界を反映するものである。だからまず、それぞれの精神世界が明らかにされる必要がある。それから、それぞれに応じた形のるつぼに入れられ、溶かされるべきである。教育とは、ある意味、それに形を与えることである。形を与えるためには、その人がまず適したるつぼで溶かされることがどうしても必要となる。

何もわからずにいいかげんに行なわれる教育には何の効果もないだけでなく、大きな害につながることもある。そのためアッラーは、この仕事の責任者でもあるお方に、次のようにおっしゃられている。

「言ってやるがいい。これこそ私の道。私も、私に従う者たちも明瞭な証拠の上に立って、アッラーに呼びかける」(ユースフ章12/108)

提案や考えへの呼びかけは、洞察力を持って行なわれるべきである。ここでの洞察力とは、それが、誰に対して、何に対して、何を基準に呼びかけられるのか、それを認識した上で実行することを言う。つまり預言者は、呼びかけにおいて認識という道を選ばれ、またウンマ(共同体)にもその道を勧められているのである。そしてそれを命じられたのはアッラーである。

誰が、何度の熱で溶け、真髄に達するのか、誰がどのるつぼに入れられるべきか、誰がどこで蒸留器に入れられるべきか、これらは洞察力によってのみ見いだされ、知ることができるのである。

ジャーヒリーヤ時代(預言者ムハンマドによってイスラームが布教される以前の無明時代)、当時の人々の中で、はっきりした意識を持ち、洞察力があり、正義感を持ち公正であった人々は、目が正義と真実に開かれイスラームを知り、理解することによって真実に目覚めてからも、最も価値ある人々である。なぜなら、金はるつぼで溶かされてもなお金であるからであり、銀はやはり銀であり、銅は銅である。決して、他の物質に変わることはない。

人々の中で無明時代に金であった者たちはイスラームを受け入れてからもやはり金である。ただし、教えにおいて知識を得て、深みを増すことがその条件である。彼らがその状態に達するためには、当然教師が教えを授けること、ある意味では化学者がそれらをるつぼで溶かすこと、が必要となる。彼らの心にイスラームを吹きかけることは、ただこの形で可能となる。彼らも、イスラームへの理解にただこの形で到達するのである。

 


[1] Bukhari, Manaqib 1; Muslim, Birr 160; Ibn Hanbal, Musnad 2/539