夜明けが待たれていた

光を内に秘めた、闇の世界.....預言者の到来にわずかな時間を残して、地平線には、喜びの知らせに満ちた輝きがうつり始めている。マッカの人々の心にも影響は及ぼされており、多くの人々が訪れるであろう最後の預言者について語り始めていた。助言が行なわれてもいた。彼が出現したら、すぐに彼の元に走りなさい、彼の魂と一つになりなさい。

皆の希望が訪れるべき最後の救い主にかかっていた。親たちはこの救い主が自分の血筋から現れることを望んだ。そして、多くの新生児にムハンマドという名が与えられた。

しかし、その救い主はイブラーヒームよりイスマーイールへと移り、アブドゥルムッターリブからアブドッラーへと続く黄金の血統から訪れるのであった。この流れから来る光が待たれていたのである。

さまざまな出来事が、彼の到来を知らせていた。暗闇が濃さを増したことは、まもなく訪れる暁の時が近いことを告げていた。

当時の人々は、生を生とする目的や理想を持っていなかった。人々のすることなすことは「砂漠の中の蜃気楼のようなもので、渇き切った者には水だと思われる。だがやって来れば何も見出せない」(御光章24/39)

感情、思考、振る舞いはそのようなものだったのである。「深海の暗黒のようなもので、波が彼らを覆い、その上に(また)波があり、その上を(さらに)雲が覆っている。暗黒の上に暗黒が重なる。かれが手を差し伸べてもほとんどそれは見られない」(御光章24/40)

この時代の名は「ジャーヒリーヤ」(無明時代)である。ただし、学問がないという意味の無知ではない。信仰や信心に対する憎悪という意味での、無知である。

この時代の醜い出来事を示すことによってあなた方の心に一時的なものであれ暗い覆いをかぶせることは私の本意ではない。迷信にこだわっている有様は精神的苦痛となり得るものである。しかしそれでも、その時代を説明するためには、少しばかり当時の慣習やならわしについて触れることにも意義があると思われる。預言者ムハンマドがいかに全世界への恵みとして遣わされたのか、この恵みが遣わされたことがどれほどの神の恵みであったか、ということがより理解されるであろうからである。

彼が遣わされたことは皆にとって神の最大の恵みであり、恩恵である。この事実についてアッラー御自身が次のように語られておられる。

「本当にアッラーは、信者たちに対して豊かに恵みを授けられ、彼らの中から、一人の使徒をあげて、啓示を彼らに読誦させ、彼らを清め、また啓典と英知を教えられた」(イムラーン家章3/164)

アッラーのお恵みと、その気前のよさに注目してほしい。人々に対して、彼らの中から、彼らと同じ感情を持ち、同じ思考を分け合い、真実へと続く道において彼らを導き、彼らが導師を必要としていれば彼らの前に立ち、説教するものが必要とされていれば説教台に上がり、彼らが命令を必要としていれば命令書に判を押し、彼らが司令官を必要としていれば彼らを最上の軍として導く使徒を遣わされたのである。

キリスト教には次のような信仰がある。彼らは、聖イーサー(イエス)が人間の原罪が許されるように神によって犠牲とされたという信仰を持つ。つまり、彼らによると神は献身的行為をされ、人を許すために自らの息子(絶対あり得ないことであるが、)であるメシアを犠牲とされた。それでイーサーは、(彼らによると)十字架にかけられ、このようにして聖アーダムから始まり、全ての人間が生まれながらにして背負っているという原罪が許されたというのである。これは信仰として過ちであり、また誤った解釈を生み出し得るという面から、逸脱でもある。

ただし、この認識は一部だが真実を語ってもいる。すなわち、神は人々の罪を許すため、彼らを過ちや逸脱、荒々しさの中に放置しておかないために、最も愛されるしもべを、預言者ムハンマドを、彼がどのような目に遭うかを知られながらもなお、預言者として遣わされたのである。人々が道で迷い、そうして失われてしまわないように、人間性を持ち、それぞれが人として完全であるように、内面性を深め、常にアッラーを感じることができるように。そして、イブラーヒーム・ハックの表現を借りるなら、彼らの神をその良心の宝と見なせるように。

「アッラーはこの世界に収まりきることは決してないと語られた

しかし信仰する者の心には収まり得る」

心というのはそういうものであり、この世界に収まりきることのないアッラーは常に、貴重な鉱山のように、心において自らの存在を感じさせられるのである。

本、知識、思考、哲学、天地、何ものもアッラーを把握することはできない。彼を語りつくすことはできない。ただ、心は一部であれその説明をなし得る。心は言葉であり、かつて耳はその心の言葉による説明ほどに輝かしい語りを聞いたことはなかったのである。

だから人は、その心において道を探り、何かを求める時はそこで求め、神に到るために努めなければならない。アッラーが、預言者ムハンマドを遣わされたのはそのためなのである。

そう、彼は人々の元に、アッラーの章を読誦し、奇跡を彼らに示し、人々に人間が何であるかを教えるために来られたのである。彼のお陰で人々はけがれから逃れ、清められ、肉体的罪から救われて精神的生き方をするよう高められるはずであった。そして、高められたのである。彼は人々に書と神意を教えられ、人々もそれらがもたらす光によって目覚め、永遠の道へと入って行くはずであった。そして、結果としてそれが実現したのである。

私たちにとって非常に重要な恵みに満ちた日がある。そのいくつかは信者たちの祝日とみなされる。毎週金曜日に味わわれる喜びの何倍もの喜びを、犠牲祭や断食明けの大祭で私たちは味わう。犠牲祭とは、聖イブラーヒームが明らかな意識を持って犠牲を払おうとした日であり、ムスリムたちが罪の許しを心から願い、またそのために一部の人々がバイトッ アッラー(カアバ)に平伏し、アラファトに滞在し、預言者の魂と共に伏して祈る日である。断食明けの大祭は、一月の断食によって神に近づいたという喜び、生きていることの喜びを分かち合うという意味を持つ、豊かな祝祭日である。ただ、もう一つの祝日が存在する。それは全ての人間の、さらには存在するもの全ての祝日とみなすことができるものである。すなわちそれは、預言者がこの世に遣わされ、我々の中に下られ、我々に名誉を与えられた日である。預言者ムハンマドの生まれられた日である。

つまり、アッラーが太陽のように創られたその光を、灯明のように私たちの世界に掲げられた日である。そう、その光のお陰で無明時代は打ち破られ、世界は光に満ちたのであった。これは、アッラーがジンと人間にくだされた最大の恵みであり、恩恵である。