預言者ムハンマドのお祈り

お祈り[1](ドゥアー)は崇拝行為の一つである[2]。お祈りはアッラーへの回帰である[3]。しもべであることについて語る際、お祈りについて語らずにいることはできない。そもそもアッラーは「言ってやるがいい。あなたが私の主に祈らないのなら、かれはあなた方を構ってくださらないであろう」(識別章25/77)と告げられているのではなかっただろうか。「われに祈れ。われはあなた方に答えるであろう」(ガーフィル章40/60)とおっしゃられておられるのもまた、その方である。

お祈りは、しもべとアッラーとの強力な結びつきである。言い換えるなら、お祈りは、しもべの考えがアッラーに伝えられるあり方である。しもべにはなし得ない、力が足りない全てのことを、全てに力が及ばれるアッラーから求める。この要求が、お祈りである。らせんを描きながら、しもべからアッラーに上っていく心地よい音のようなものである。

今日、ただ日に五回の礼拝や一部の崇拝行為の終わりに、短縮された形でなされるお祈りだが、本来は生きていく上で、そしてその先において、何よりも必須の存在である。人の生はお祈りなしでは考えられない。我々が生きている人生は、最初から終わりまでお祈りで構成されている。お祈りはアッラーの恵みをとく暗号であり、天国の地の鍵でもある。お祈りはしもべからアッラーに高く捧げられる、しもべとしての印章であり、アッラーからしもべにくだされる恵みの象徴である[4]。もっと正確に言うなら、アッラーとしもべとの間の結びつきの焦点である。お祈りはある意味では崇拝行為であり、別の意味では能力の世界と霊的世界を結びつける崇高な昇天である。人間を一段一段アッラーの元へ高める、聖なる昇天である。

慈悲の手が我々に触れられているのは、お祈りによるものである。お祈りは同時に、懲罰から身を守るものでもある。我々に慈悲と神のお喜びをもたらし、怒りを退ける、しもべとしての重要な行為なのだ。多くの場合、人の能力が尽きてしまったところでお祈りの意識が生じる。(最初からそれがあればどれほどいいことか)しかしお祈りの意識に、始まりや終わりを確認することはできないし、そんなものはないであろう。なぜなら、お祈りから切り離されている瞬間というものはあり得ないからである。人は、自身から一瞬たりとも離れられることのないアッラーに対して、お祈りからも一瞬たりとも離れないことが必要である。なぜなら、アッラーの扉にはお祈りによって辿り着くことができるのだ。その扉では、お祈りによって話すことができ、また慈悲を我々に引き寄せるのも、お祈りである。

我々にとって、お祈りとは求めることである。私たちはアッラーから、物質的、精神的に必要とするものを求める。しかし多くの場合、求めているものについて求め方を知っておらず、また求めることすら徳に反する場合もある。恵みの持ち主であるアッラーから求めるに当たって、全権の主であられるアッラーが定められた形ではなく、自らの望む形を追求してしまう。それだから、全ての願いがすぐに聞き届けられると思い、実現されなかったお祈りに関しては、それが拒否されたのだと悲しむ。もっとはっきり言うならその完全なお力を、自らの力の周囲に付き添っているものだと見なしたがるのだ。これらはお祈りのあり方に反するものである。このような意志によって行われるお祈りは、アッラーとしもべとを結びつけるものとは程遠い存在である。お祈りのあり方や真髄に対する尊重はそのお祈りが聞き届けられる条件の一つ、おそらくは第一条件である。

お祈りは時として、強い希望、要求において、思いという形で心から立ち上る。この場合しもべは何も言ってはいない。その唇にはわずかな動きもない。しかし、すべてをご存知の方が自分を見ておられることを意識し、アッラーへの完全な信頼のうちに自らを置くように努める。ちょうど、聖イブラーヒームが炎の中に投げ入れられた時のような状態である。全ての可能性が閉ざされ、いかなる手段も残っていないという事態にあって「火よ、冷たくなれ。イブラーヒームに平安あれ」(預言者章21/69)というアッラーのご命令が、思いもかけなかった形で彼の救いとなったのである。

心の中の思いが言葉としてアッラーに届けられること、これもお祈りの二つめの仕方である。この場合しもべは、ただ自分の現状を伝える。しかし要求を述べ立てることはない。時には現状と共に、望みをも伝える。聖クルアーンでは、預言者たちのお祈りからその両方に対する規範が示されている。

一つめのあり方としては、預言者アイユーブ(ヨブ)の「本当に災厄が私に降りかかりました。だがあなたは、慈悲深い上に慈悲深いお方であられます」(預言者章21/83)と、預言者ユーヌスの「あなたの他に神はありません。あなたの栄光を讃えます。本当に私は不義な者でした」(預言者章21/87)などがその例である。

二つめのあり方の例は聖ザカリーヤー(ザカリヤ)のお祈りである。「主よ、あなたの御許から、無垢の後継ぎを私に御授けください。本当にあなたは祈りをお聞き届けくださいます」(イムラーン家章3/38)

聖クルアーンで、お祈りが何度も取り上げられていること、お祈りの方法が預言者ムハンマドに伝えられていることは、その重要性を示しているという観点から非常に意味深い。そうでなければクルアーンは何百もの節でお祈りのことを繰り返し説いただろうか。それに加えて預言者ムハンマドから伝わる何百、何千ものハディースも、またお祈りの重要性を繰り返し示し、また人生のそれぞれの場面で行われるべきお祈りを人々に示しているのである。人は感情や思いを願いとして表現する際、最適な形で、少ない言葉で多くの意味を含む形で言い表すことを望む。この点において最大の援助者はまずクルアーンで、そしてハディースで示されているお祈りなのである。

なぜなら、我々に要求する術を与えられた主こそが、それをお祈りにおいてどのような形で望むべきかということをも示されるのだ。最も適した形で教えられたのは、疑いもなく預言者ムハンマドであられる。なぜなら、お祈りをもってその扉がたたかれる存在を最もよくご存知なのはそのお方だからだ。

預言者ムハンマドは正しい道を行くお方であられた。そもそもしもべであるということはそういういうことである。アッラーは「あなた方はわれに仕えなさい。それこそが正しい道である」(ヤー・スィーン章36/61)とおっしゃられておられる。預言者ムハンマドの全ての行動に、ある規範と均衡がある。そのお方は、世界を制覇すべく軍隊を派遣されつつも、蟻でさえも痛めつけてはならないという原則をも守られた。原因と結果を追求されつつも、お祈りを決して忘れられることもなかった。

昼夜問わず平伏して乞い願う生き方を見たい者があれば、預言者ムハンマドの生き方を見るべきだろう。お祈りとはどういう意味を持つのかということ、お祈りを行う上での規範、そしてお祈りが人に与える物質的、精神的なものを見て、教訓を得るべきである。

数百人の人々が預言者ムハンマドのお祈りを集め、お祈り集を作った。アッラーはその恵みをこの本を記した人にも与えられたのだ。できる限り小さくまとめるべく努められ、預言者ムハンマドのお祈りがまとめられたが、この作品[5]を見る者は皆、お祈りにおいてすら預言者ムハンマドにかなうものなど誰もいないということを理解するだろう。まるで預言者ムハンマドは、人生の全てをお祈りのみに費やされたかのようであった。他の人間が生涯を通して他に何もせず、ひたすらお祈りのみをしていたとしても、その一生涯分のお祈りは預言者ムハンマドの後世に伝えられているお祈りに、何とか足りる程度であろう。

預言者ムハンマドは、お祈りをその人生にちりばめられ、常にその光の結晶の上を歩かれた。お祈りはそのお方の口元から消えることなく、その心で止むことのない声であった。預言者ムハンマドはわずかでもお祈りせずにおられることはなかった。その唇を湿らせる、天国の川の水で満たされたそのグラスを手放されることはなかったのだ。行動の徒であられ、また裁量するお方でもあられたが、崇拝行為やお祈りにおいてもこのお方に並ぶものはいなかったのである。

教友たちもまた、崇拝する者の集合であった。それでも、預言者ムハンマドと共に進もうとすると取り残されてしまっていた。預言者ムハンマドは疲れも知らずに歩き続けられるお方だった。なぜならアッラーがそのお方を、常に前進し、人々の前に立つべく創造されたのだ。昇天で、ジブリール(ガブリエル天使)はこのお方と共に進もうとしたが、結果としてある地点で彼の力は尽きてしまった。「進みなさい、アッラーの使徒よ!ここから先はあなただけのものだ」と言ったのだ。そう、預言者ムハンマドは、天使たちとさえ競えるお方であった。

預言者ムハンマドは、宗教儀礼の意識において、そしてお祈りという塔において、最上の位置におられた。アッラーの偉大さ、崇高さを最も高い地点からご覧になっておられた。その恵みによって満たされ、あくことなき熱情で「あなたの位階を把握しきることができないのです」とおっしゃられ、「アッラーを完全に知ることができないとわかることこそが真に知るということである」と意味していた。アブー・バクルは「理解しきることができないと知ること、真の理解とはこれである」と語られた。苦悩されておられ、御自身の聖なる位階にふさわしい形で「これ以上はないのか」とおっしゃられておられた。

預言者ムハンマドがお祈りの中で使われている言葉や、お祈りにおける深さも、誰も到達することのできない偉大な豊かさを見せるものである。私は全く何のためらいもなく次のことを述べなければならない。すなわち、預言者の全てのお祈りは、それぞれが包括する意味の説明が本になるほど観広いものである。預言者の言葉は全ての人間の言葉よりも優れたものであり、このお方のお祈りも、全ての人間が行なってきた、あるいはこれから行なわれるであろうお祈りよりもずっと深いのである。なぜなら、アッラーを最もよく知り、アッラーを最も畏れているのは預言者ムハンマドであるからである。だから、最も深く優れたお祈りもまた、このお方が行なわれるものなのである。

預言者ムハンマドのすべてのお祈りについてここで取り上げることはしない。そもそもこの話題を取り上げたのはただ、預言者ムハンマドのお祈りの偉大さのしるしとなるだろうからである。預言者ムハンマドの何千ものお祈りの中から一部の例を取り上げ、このテーマの締めくくりとしたい。

 


[1] 訳者注 イスラームには礼拝と祈り、2つのアッラーへの語りかけがある。礼拝(サラート)には義務と随意のものがあり、決められた動作によってアッラーへの信仰を示すものである。祈り(ドゥアー)とは自分の気持ちをアッラーに訴えるものである。
[2] Tirmidhi, Tafsiru'l-Kur'an 3,16,40; Ibn Maja Dua 1; Musnad 4/267
[3] Tirmidhi, Dua 1
[4] Daylami, al-Firdaws 2/224
[5] 訳者注 この作品の名前は「Majmuatu'l-Ad'iyyati'l-Ma'sura」、「Dua Mecmuasi」