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ゴミ箱と花嫁のヘや

作者: M.F.ギュレン オン . で掲示される こわれた壷

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質問:きちんとした、秩序ある環境での生活と精神的(心的)秩序の保持とは何か関連がありますか?

答え:人間が適切でバランスの取れた、規則正しい生活を続けるためにふさわしい決まりや基本を伝えるイスラームは整理整頓・規則正しさを重視します。順序に従いいくつかの規則にもとづいて行います。これらの規律ある配列(秩序)はあらゆる崇拝行為の中に浸透しており、それらは大切な部分となっています。ウドゥーをするときの順序も聖クルアーンによって明示された順に従って清めますし、アザーンやイカーマの言葉も決まった順に従ってとなえられます。また、タクビールをする前にルクーウに移らないようにとか、ルクーウをする前にサジダをしないようにとか礼拝行為にも決められた順序があります。また、礼拝のキラーアのときに唱える章はクルアーンの順にふさわしい順番で唱えます。ハッジでサファーとマルワの間をサアイ(小走り)するときサファーからはじめマルワで終わりにしますし、アカバのジャムラで投石の後、初めに犠牲を捧げそれから剃髪します。イフラームを解くまでの崇拝行為はすべて順序正しく行われます。このような意味でも、配列(順序よさ)は大切なテーマであるといえます。

人間存在のための秩序という種子

万有(宇宙)を観てみると、ある種の調和、秩序を見出します。あらゆる被造物は構成部分が、それぞれに調和し統制されているように、万有も完璧な秩序と統制の中にあります。万有を完璧な秩序と統制に従って創られた至高なるアッラーは人間の本性に、整った調和の取れた魂を置き給いました。その本質において、大変整然とした完全な形で人間を創られました。人間が自らをよく観察してみれば、その本質に据え置かれている整った調和の取れた魂を発見することでしょう。ですから、彼の周囲(環境)も、彼自身に似せさせて、整った秩序ある環境を作る能力、その中で生活を続ける能力を与え給いました。

預言者様(彼の上に平安あれ)は「およそ子供はすべて本然の姿をもって生まれてこないものはない。」とおっしゃっています。つまり、善悪の満ちるこの世の生活において、至高なるアッラーは人間に善行の側へ向かう能力(良心)授け給いました。本然の姿を守り壊さない人間は誰でも善へむかい、アッラーを知性と心的理解力によって知ることができます。悪魔からの攻撃にさらされても負けることなく人間は誰でもイスラームに基づいて、生活できます。ここで、イスラームの意味するところは、調和、整然、秩序、平和です。イスラームは、彼の本然の姿を端的にあらわしています。

この点からみると、整理整頓を好み秩序を求める精神は、人間の特質のひとつといえます。そのような感覚や心はある人々の中ではすばやく育ちます。時折まだ7-8歳の子供がベットメーキングをし、散らかった衣類を集め、部屋をきれいに片付けるのを目にします。その子には本来持ち備えた「秩序を求める種子」の成長のためのふさわしい土台があります。その子は整理整頓を好む、秩序ある家庭で育ち、母からそれらを学び、整った秩序ある環境についての知識を養っていたのです。

結果として、見よう見まねで知らず知らずに台所に散らかったお皿があればそれらを片付け、できる限り周りをきちんとしようとするわけです。

家庭での整理整頓ときまり

そうです、秩序を求める精神を育てるためには、その人の住む周りの環境がとても大切です。なぜならおよそ子供は彼自身が育った文化、環境に影響を受けるものだからです。時々、人の心のつくりに関して、環境がその人の秩序を求める心を形作るのに十分ではない場合があります。たとえ、そうであっても、少なくてもしつけを受け本然の姿に基づいて体系付け育てること、自然に、やりやすくしてあげることが必要です。言い換えますと、人が整理整頓を好む種子を持つとしても、その感覚を、その人の状態、態度、行動に映し出すには、秩序ある環境で育つことが必要であるということです。

行儀作法のよい家族や家族集団の中で育つこと、規律正しい父親や祖父のいらっしゃる家庭で育つことがのぞましいです。子供の時からずっときちんとした生活をすることは、将来その子が担うであろうさまざまな義務や責任を不足なく行うことへとつながるため、とても大切なことです。家で、飲んだり、食べたり、寝たり起きたりすることが、日常生活の中で自然に行え、慣れ親しんだ決まりがあるなら、また年上の方々にも規律ある生活態度を見出すことができるなら、彼の人生は、家庭でもまた社会でも、よりきちんとした生活を続けることになるでしょう。さもなければ、多くの場合、家庭で身に着けた行儀の悪さを社会へ持ち込み、いつも平和を壊すもととなります。適切な年頃に秩序と、行儀作法を身につけることができなかった人々がいくら可能性があるといっても、一生涯、不健全な状態で生きていくことになりやすいのです。何度もこの行儀の悪さは彼らの魂や心に働きかけ精神的喜び(甘美さ)を失う原因となってしまうのです。

そもそも、人間はさまざまな知識をどんなに多く学ぼうと励んだとしても、乾物屋や喫茶店の周りでそれをするのでしたら、それらの知識、物理学、化学又は生物学の中には、その乾物屋や喫茶店からの風味や香り、色彩、図柄などに影響を受けてしまいます。人が神学校卒であったとしても、もし農業で生計を立てている場所で育ったなら、彼の世界の神学的雰囲気は、鋤やこん棒、くびきなどの道具に影響を受けます。つまり知識を得るには、人間の心に潜在的に備わった整然さ(秩序正しさ)について教えることができる、開かれた整った環境が必要となるということです。そのような整えられた環境を見出せないものたちが秩序ある人間にあることはたいへん困難です。

さらに、人間はカレンダーにのっとって過ごすことに慣れ、自分自身をプログラムに基づいた生活に慣れさせるのならその人の身の回りの場所も整理整頓されているかどうかについても注意を払い行動します。たとえば毎日礼拝をする者、崇拝行為を怠らない者は崇拝行為においての秩序正しさが身についていることになります。この秩序正しさは明らかに生活のほかの分野においても現れます。真の主との結びつきを健全に保つ者や、ドゥアーに割いた時を忠誠心と共に毎日一定時間、真の主を心から希求し人生を豊かにする者や、夜も昼も、決まった規則にしたがって過ごす者や、精神的・霊的生活をこのような秩序によってプログラムする者が、その人の残りの時間を無秩序に行き当たりばったりに生活することは考えられません。精神的・霊的生活において規則正しい人間は、表面に現れる生活においても自分自身に対して逆の行動を取ったり、だらしがない生活をしたりすることはありえません。その人々にとっては、崇拝行為においてすべてを滞りなく適切に行うように、物的世界でも物や品々をきちんと片付け整理整頓し秩序ある調和の取れた生活をするのはむずかしいことではありません。

不精な者達よ!

トルコのあることわざに、「ライオンは寝る場所で明らかになる。」と伝えられています。そうですね。狐たちもまた彼らのうなり声で明らかになります。心的・霊的世界において秩序を保たない人間は、ほとんど物的世界でも秩序正しさや整理整頓になれることは不可能です。このような人々は他人から待ち望みます。周りの整頓は他の人がやればいい、彼の奴隷がやればいい、召使達がきれいに片付ければいい、机を他の人が拭けばいい、部屋を誰かが来て掃除すればいい、さらには家の食器類まで他の人が洗って並べてくれればいいのにというように、いつも他の人々が仕事をしてくれることを待っているのです。この怠け者の心は自分自身の手を決して使いたくありませんし、これっぽっちも仕事をしたいとは思いません。ほとんどの場合、この状態と行動の背後には多大な傲慢さと尊大さが隠れています。

自分をより重要ですばらしい人間とみなしています。たとえば、熟読もせずに、目次を読んだだけで何かレポートを書くというような場合でも、自分は高められ、純化され、偉くなったように錯覚します。他の仕事は他の人々がやればよいと信じるようになり、彼の中に芽生えた自分は頭脳明晰だという考えにとらわれ、その種の仕事をせず尊大な態度を取ります。またそのため彼には秩序の感覚は身につかず、整理整頓の能力を育て、状態や行動に反映させることもできません。結果として、彼は寝ても起きても召使を探します。寝床から起きあがるとき「ああ、誰かいてくれればいいのになあ、そしてこの布団を片付けてくれればいいのに」という考えに満たされます。(どうかお許しを、)このような種類の人々になるとしたら、それは「怠け者」であることです。

しかし、体の器官すべてが祝福された、あの世のための行動を適切になさる神の使徒(彼の上に平安あれ)はその御手を水にひたし、家の扉や床を洗うことを進んでなさいました。家事をよくなさいました。アーイシャ様の伝えるところによれば、アッラーの使徒(彼の上に平安あれ)は家で普通の方のように振舞われました。ご自身の服のつぎあてをなさいましたし、靴の修繕もなさいました。家事も婦人達にもよく手伝いをなさいました。一方で彼は戦いにも参加なさいましたし、伝道の責任も果たされていらっしゃいました。子供達のしつけにも心魂を注がれました。家事においても大変よく婦人達の手伝いをなさいました。たとえば家の中を掃いたり、洗った服を絞ったりなされました。どんなときでもアッラーの使徒はこれらの仕事をなさっていました。これらのことをなさっても決してそれらの行動を低い仕事とはごらんになりませんでした。それどころか、それらは本来備え持ったすばらしい特質の一つで、誰かが何か仕事をしているのをご覧になると、かならず手助けに走られました。たとえば、草原で食事を作るとき、彼も「私もまきを集めてかまどをたきますよ。」とおっしゃられました。マスジドを建設するときも、皆が日干し煉瓦を1つ運ぼうとするときは、彼は2つの日干し煉瓦を運ばれたものでした。これらのことをなさったときも彼のご高名は四方八方につたえられ、彼の教えについて、いろいろな地域で語りあわれました。当時、アッラーの使徒は(時間の)調整を適切になさり、彼は非常に重要な仕事(義務)を果たされる間に、これらの仕事をなさる機会も作られました。と同時に、これは使徒の魂に内在する整理整頓を好む気持ちと、秩序への熱い思いが外へ表れたことを意味します。

内外の関連

人の行動や振る舞いと内的生活との間には、お互いを支えあい整えあう確かな関係が存在します。人々はいつも創造者のご満悦に正しく向かい、人間らしさや人間としての徳を正しく身につけようとします。彼らの方位自身はいつも同じ方向を指し、行動の針はいつも同じ方向を指し示します。彼らは細かい点まで気を配り、見事なほどきちんとしており、義務を果たします。内的世界に関してもとどまることなく香炉のようによい香りを放ちながら、外的世界にでも、秩序正しくきちんと生活します。霊的世界の秩序正しさと日常生活のさまざまな場所での秩序正しさの関連をよりよく示している人々はサラフィ サーリヒーンです。たとえばカリフ.ウマルの心と魂の世界でも秩序正しさは、社会生活にも反映しています。彼はあらゆる分野でまさしく秩序あるお方でした。彼がイスラームの輝ける歴史に贈った公平なシステム、軍隊の規律正しさ、近代国家の土台となる組織は彼の心に内在する秩序正しさを映し出したものです。基礎となったこれらの機構(組織体)はカリフ.ウマルの心の中にある規律を重んじる感覚が外へ現れた結果なのです。

心の秩序正しさを持たない人間はというと、いつも秩序のない、規律のない、だらしない、散らかしっぱなしの人々といえます。彼らの一人が何かをある場所に置くとそこは必ずゴミ箱と化してしまいます。彼の崇拝行為もそれを反映し、秩序正しさは見られません。彼は礼拝を強いられてしますし、断食も望まずにします。祈りやズィクルの本もいいかげんに読みます。読んだものが心に残らず、またそれを感じないことが彼を悩ませることはありません。アッラーに近づくという目的もそれを貫くために生じる困難もありません。なぜなら心に秩序正しさがないのですから・・・

しかし、内外の関連や内が外に現れるということについて完全にそうとも言えません。時々整理整頓できるきちんとした人間になれる天分を持つ人々が、適切な環境で育てられなかったために(その天分を発達させられず、)心の中に生ずる秩序正しさを好む感覚を発見し、育てさせることができない場合があります。たとえば、サイド.ヌルスィー氏はおそらく丈夫な敷物を持っていらっしゃらなかったと思いますので、粗末な薄い敷物を使っていらっしゃったと想像して見てください。彼はそれをきちんと整えて置かれたことでしょう。継ぎ当てられたふとんや何度も修繕した礼拝用マットをきちんとたたみ部屋の隅に置きました。いつも秩序正しく 身の周りを保たれていらっしゃいました。働くときも服が汚れないようにと袖が落ちてこないように腕に腕輪をなさいました。仕事をする時も、仕事着を着ました。服も継ぎ当てられてはいましたが、けっして汚れておらず、形も崩れていませんでした。書籍類や改訂版の本類や祈りの本も置く場所が決まっており、いつもきちんとしておりました。

食事はあなた方がおつくり下さい、食器洗いは私たちがいたします

私は小さな家で数人の友人達と共に生活していた頃のことですが、生徒達の家を時折訪ね、彼らの客となることがありました。すべての点で整っていなくても整った、一緒に私たちといた友人の中には何度も尋ねたにもかかわらず食事の作り方さえ教えることができませんでした。それどころか時々「先生、あなたが食事を作ってください。私に料理の準備ができないが後かたづけはいたしますので。」という者達もいました。彼らを責めるつもりはありません。なぜならその状態は彼らの育った環境、家庭環境、家庭教育のレベルを物語っているからです。その時まで、彼らには秩序(配列、序列)という感覚を知る機会がなかったのだと考え、できる限り整理整頓や秩序正しさに慣れさせようと努めました。整理整頓と秩序正しさに慣れていない生徒達が住んでいた家々はひどい状態でした。崇拝行為をする人々にふさわしい静けさに程遠い雰囲気でした。そこでは本はよく読まれて、知識を得るのには開かれた状態でした。全ての点で整っていなくても整っていた部分がありました。それに免じて不足な部分は補われますから。

しかし、なんとも素晴らしい家々もありました。全てが「花嫁の部屋」のようでした。それらの家のあらゆる空間で、アッラーを想い、祈りを捧げる声は美しく響き渡りました。信仰深さと甘美さを感じました。その家々には、聖なる静けさが隅々を覆いました。そして新たなる日を迎えました。信仰心とクルアーンに従って行動しようとする幸運な人々は、彼らの心の中の清浄さや秩序正しさが映し出され、家々の隅々まで行き渡ります。客人たちになされるもてなしと共に彼らの眼にも心地よさを与えました。

整理整頓と秩序正しさは特に人々の集うところではしもべの権利という点からも重要です。不注意に生活している人々は他の人々の居心地を悪くします。乱雑さは繊細な心の持ち主に安らぎを与えぬ原因となります。ある時、アッラーの使徒(彼の上に平安あれ)が手にスコップを持っている人々に対して、「ここを二回ほればよろしいのでは、」とおっしゃいました。その方が「このようでは何か不都合がありますか?」と応えると、預言者(彼の上に平安あれ)は、「目に不快を感じます。」と仰られました。このように、目の暗い人々がいます。目がないのかそれとも不快を感じることがないのかわかりませんが、彼らは乱雑さにより不快にならないようです。しかし、この乱雑な状態が他の人々を不快にし、そのことから圧迫されるような、その原因をつくった人はしもべの権利を侵したことになるのです。時折「他の人がきれいにすればいいのに、他の人が片付ければいいのに。」という感じ方や考え方から、その結果、活動的でなくなり仕事の手伝いをするのが億劫になり、さらには、他の人たちを、(失礼とは存じますが)無知で愚か者とみなしますが、これは大変失敬なことです。と同時に、しもべの権利も侵していることになります。

秩序正しさと目の快さ

真の主は篤信のしもべたちに天国を約束なさったとき「そこにはあなた方のために豊富な果実があり、それにあなた方は満足する。(43・73)」と仰いました。ここでは、目の欲望を満たし目から心の中へ喜びが流れ込む光景を説明しています。つまり、恵みとして目から心の中へ流れ心に染み込むこの光景が人の欲望を満たすわけで、これは大変重要な点ですが、同時に異なった形の恵みを表しています。そうです、おいしい食べ物、心地よい香り、耳にやさしい声がそれぞれ恵みであるように、美しい光景もまた恵みのひとつです。このように、舌、鼻、耳が喜びを感じるように、目も喜ぶものです。目の喜びを味わうための重要な要素として、整理整頓秩序正しさがあるわけです。

要するに、サイド.ヌルスィー氏が示されたように、継続的に働き続ける工場のようでもあり、いつも客人でいっぱいになっては去っていく宿屋のようなこの宇宙は、ゴミやくずですばやく汚れ、その中に住めない状態となるはずですが、実際は大変美しくきれいです。そこには不必要なものは一切見当たりません。神聖なる御方(クッドゥース)という御名の栄誉によって、この宇宙をまるで小さな部屋のようにきれいにし、順序良く美しく配列する御方であられる真の主は、自然という本のすべてのページを、眺めるのに飽くことをしらないほどの美しさで飾り給い、地上のあらゆる場所を美しい絵画のように私たちに目の前に並べ給いました。この光景を見た者達、とくに宇宙という本を読み学び、神の御名の秘密を理解しようと望む信仰者達は、心の秩序正しさと共に、整然さと秩序正しさを発見するに違いありません。そして、一人一人が秩序ある人間として生きていくことでしょう。