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バランスと中庸

作者: M.F.ギュレン オン . で掲示される こわれた壷

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バランスと中庸

質問:今日、生活のあらゆる側面で考え方に深刻な偏向が見られ、過度であることが評価されています。過度を避けようと思う人が注意すべき点はなんですか?

答え: 全能のアッラーが意図されたやり方で宗教を実践し、それを我々の人生の活力とするには、バランスがとれ中庸を保つことが非常に重要となります。なぜならバランスが欠けると人は両極端、すなわち過度か無関心(不足)のどちらかに逸れてしまうからです。この二つの極端さは互いに反応しあう形で引き起こされるため、悪循環に陥ってしまいます。基本的にこの二つの極端さから解放される方法は、常日頃ウンマに中庸を勧められていた人類の誉れであるお方のスンナを順守することです。

中庸

クルアーンに出てくる「スィラート・アル=ムスタキーム」(真っ直ぐな道)という概念は通常、「真ん中の道」すなわち中庸に従うことを準拠としながら、欲望、敵意、理性という人間に備わる3つの主な働きについて定義づけされてきました[1]。しかしながら、党派心、妬み、意図、見方といった他の要素も同様の視点から評価することもできます。実際、人間の本質に元来見られる感情や思考のすべてについて、中庸に従うという点から言及することができるでしょう。

たとえば、現象を見抜き評価することに関しての「見方」(ナザル)を取り上げると、楽観主義は過度、悲観主義は不足となり、真実を見る者は中庸ということになります。楽観主義・悲観主義はあらゆる事柄について良い点もしくは悪い点のみを見がちであるのに対して、真実を見る者はすべてについて現実的に判断しようとしています。しかしながら(物事や身の回りで起こる現象を英知ある視覚で見ることによって人は前向きに考え、さらに行動するので)ベディウッザマン師はその著書「真実の種」の中で、「前向きに見る者は前向きに考える。前向きに考える者は人生で喜びを得る」と述べています。さらには、あまり良く思えない事柄についても、できる範囲で前向きな考えを持つことがより優れています。しかしこれは現実を見過ごして空想の世界に生きることを意味するわけではありません。必要なのは、現実から逃れたり絶望に陥ったりせず物事のありのままを見ることであり、それが「中庸」もしくは「バランスの取れた見方」をするということです。

実は、中庸が採用され適度さが保たれるなら、邪悪と思えるような人間の自我も精神的発展におけるプラスの要因として働くこともあり得ます。さらには誘惑や策略によって人を迷わすシャイターンでさえ、人をアッラーに向かわせる要因として精神的発展の手段となりえるのです(その創造の英知と立場が正しく理解されればですが)。反対に、アッラーが妨げてくれることを祈りますが、シャイターンのことが力を及ばすことができる独立した存在と見なされるなら、人々の逸脱へとつながり、光と闇それ自体に力や強さが宿っていると考える人の状況のようになってしまうのです。これを信じる人々は、光と闇が独立した力であり、光は何の害ももたらさず、闇の場合それを支配する者を喜ばせなければいけない、というように考えています。そしてこの逸脱した考え方から思いも寄らないような悪を働きます。この哲学にのっとって行動する悪魔崇拝者は、悪魔の害から救われるためにそれを喜ばせようとしているのです。偽りと欺きのほか何の武器も携えていない無力な被造物が創造主に属する力や強さの一部を持つ存在であると考えること(アッラーがこれを禁じてくださいますように)は、狂気まで達した行き過ぎです。反対にその偽りや欺きを退け、その扇動や囁きに目をつぶるなら、そしてこうしてクルアーンやスンナで述べられている警告を無視するなら、それは不足となります。シャイターンは明らかに人類の敵です。意志を正当に用いず無頓着となるなら、無慈悲で不誠実な敵の手によって永遠の至福を失う危険を冒すこととなってしまうのです。

成功の犠牲者

人を破滅へと導きかねないマイナスの要因についてバランスを取ることが非常に重要であるように、恵みとして与えられた成果に対する感情という点においてもバランスを取ることは非常に大切となります。すなわち、信仰、崇拝、そして道徳の名においてなされた心と体の行いについても、中庸から外れないよう、足元を注意深く見ることが必要となります。たとえば、礼拝やザカート、ハッジ、断食、ドゥアー、アッラーの御業に関する熟考といった崇拝行為において最善を尽くし、完成を目指すことは必要です。クルアーンで「(善い事を)行え。アッラーはあなたがたの行いを御存知であられる。かれの使徒と信者たちもまた(見ている)」(悔悟章9:105)と命じられているように、すべての正しい行いは、アッラーや使徒、他の信者たちに見せているという意識を持ちながら最善のやり方で行われなければなりません。手短に言えば、信者は自らの行いに満足せず、崇拝行為のすべてで完成を求めなければならないということです。しかしながら、実践がほぼ完成に近づいたとしても、成功を手に入れることを横柄に求めるべきではありません。成功を作り出されるのは全能のアッラーです。崇拝行為が見せかけのものであったり、怠慢や不注意であったりすることが不足であるならば、己の崇拝行為に対して横柄なプライドを持ち、信者が細心の努力を行ったことに対しアッラーが授けてくださる恩恵を受け取る資格があると主張することは行き過ぎとなります。なぜなら崇拝行為を行う者は奮励努力し完全性を目指しますが、それに伴う結果を要求するなら、傲慢にも聖人ぶることによる破滅につながってしまうからです。

したがって、成功を手に入れるために必要なのは、中庸、謙虚、そして謙遜です。人は常に「私のような僕はこうしたことに値しないのに、どうしてこのような恩恵が私に授けられたのだろう?」と言うべきです。信者は全力を尽くすべきであるのと同時に、皮なめし職人が皮を地面にたたきつけるように自分自身をたたきつけることも知らなければなりません。さらには、授けられた業績や成功はもしかしたら試練であるかもしれず、そこに個人的な誇りを感じるなら破滅につながるかもしれないということも忘れるべきではありません。

アスワド・アル=アンスィーや嘘つきのムサイリマといった偽預言者たちが、あらゆる場所が真実の光で照らされていた時代でさえ出現したことを想像してみて下さい。これらの哀れな人々は、己の中に見出したある種の才能の犠牲になり、プライドとうぬぼれの爪に引っかかって自滅したのです。

傲慢の時代におけるマフディーの増大

きっとそうした逸脱や見当違いといったケースは歴史上の特定の時代に限られたことではないでしょう。あらゆる時代がそうした出来事を目撃してきました。現代でも、巧みな話術や文章力を持ち精神的な道においてもある程度進んでおり、しかしながらバランスに欠き崇拝の対象となることを望んだり傲慢さを見せている人々を見ることができます。彼らは何かしら見せびらかすものがあり、だまされやすい人々が周りに群れを成し始めると、とたんに自分自身が輝く星であるかのように思い始めてしまいます。こうしたことから今日、いわゆる「神に導かれた」人々であるマフディーの増大が起こっているといえます。私でさえ、ムスリム社会に出現したこのようなマフディーを5,6人知っています。うち3人は私と連絡を取ろうとしさえしたことがあり、そのうち1人は最近ここに訪ねてきました。彼は自分が22歳だと言っていました。それからさらには「私は自分が預言者様の孫であられるフセイン様の系譜だと思っていたが、その後さらに調べてみると、もう1人の孫であられるハサン様の系譜でもあることも分かった」と言うのです。そこで私は彼に、謙遜さや中庸といったものについて思い出させようとしました。そしてこうしたことを話そうとしました。価値のない人間に見られるくだらなさの印は、偉大そうに見せることや実際以上に素晴らしく見せかけるためにつま先立ち同然になることであること、真に偉大な者における偉大さの印は、実際よりも卑しく見せるようにと頭を垂れていることだということなど。話をしたあと、私は彼が納得してくれたと思っていました。ところが驚いたことに去る間際にこう言ったのです。「分かりました、でも私が(神に選ばれ任命されているがゆえに)この件で選ぶ権利を持っていないのにどうすればいいのでしょうか?」しかしイスラームにおいて、預言者性を除き、ある人物が自分はこれこれであると他の人々に対して主張できるような精神的位階や肩書きは存在しません[2]。ここにはスンニー諸学派(ハナフィー、シャーフィイー、マーリキー、ハンバリー)の祖やマフディーも含まれます。しかしこうした考えに取り付かれた人々に何かものを言うのは非常に難しいと言わざるを得ません。マフディーであるとの主張に取り付かれたすべてのエゴイスト、そして傲慢な者たちを、アッラーが真っ直ぐな道に導いてくださいますように。

ここで最後に一つ加えさせてください。謙虚さや中庸、誠実さといった理解のもとに成り立ち、どんな要求も行わない幸運なグループの中からも、こうした同様の主張をなす人々が出現する可能性があることは見過ごされてはなりません。このタイプの人々は自分があるグループに所属している事実に乗っかって尊大さを表すので、正気に戻らせるのはさらに難しくなる場合があります。たとえばこう述べる人がいるかもしれません。「最近まで私は何某先生の弟子であった。先生は千の天使もしくは霊的存在によって守られていたが、今となってはそのうち900が彼のもとを去って私を守護してくれている」。どの時代にも様々な事例があることを見ると、人々が様々な妄想のもと現世的な魂やシャイターンの奴隷となりえることがうかがわれます。

それゆえ、種がまかれ、花が咲き始め、庭園がバラの花で満たされている時でさえ、とげによる攻撃はいつでもあり得ることを忘れるべきではありません。信仰者は自らの歩く道について常に慎重であるべきです。だまされやすい人々を間違った方向に導こうとする人々は常に現れます。とげはバラの花近くに存在するものですから、ナイチンゲールのすぐ近くでもカラスが鳴き声を立て始めるかもしれません。このように、ナイチンゲールの鳴き声を聞いたことがなく、その美しい鳴き声に親しんでいない人が、カラスの鳴き声に魅了されてしまうこともあり得ます。よって、信仰者はそうした欺きに注意深くあろうとし、アブー・バクルとウマルの両カリフ(アッラーのご満悦あれ)のように洞察力をもって常に警戒に当たるべきで、敏感に行動しなくてはなりません。

[1] スィラート・アル=ムスタキームは極端さと無関係の「真ん中の道」です。人間の心理や人生と創造の実際を考慮にいれた、中庸の道です。人々の教育において、「理性」に規律を与え高尚にする働きかけによって、民衆扇動や狡猾さ、愚行といったものから解放され、健全な知識と知恵を持てるようにします。「敵意」の働きや防御の欲求を自制させをれを高尚にすることによっては、誤った行い、抑圧、卑怯さといったものを免れ、公正さや勇敢さに向かうようにします。「欲求」については、放縦、快楽主義から離れ、高潔さを持つようになります。
[2] アッラーによって選ばれ預言者性を伴う任務を命じられた預言者たちは、自らの預言者性を公言し、自らに下された啓示を人々に伝える必要がありました。