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一時的に静かな場所に引きこもることと読書プログラム

作者: M.F.ギュレン オン . で掲示される こわれた壷

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一時的に静かな場所に引きこもることと読書プログラム

質問:慌ただしい日常生活に息が詰まりそうな現代の人々は、逃避することのできる静かな片隅、安らかな安息の地の必要性を感じています。信仰する魂は心と精神のリフレッシュを得るために時折穏やかな場所に引きこもるのを好みます。こうした引きこもりを最大限活用するためのアドバイスをお願いします。

答え:誰であれ、社会の中で果たすべきある種の責任を負っています。信者の願いがもし、社会の役に立ち、話しかける相手をある種の崇高な地平に導き、人々に己に備わっている価値を心から感じてほしいという気持ちあれば、人々の中に交じって生活すべきです。アッラーと最後の審判を堅固に信じる人はその社会の人々の中で生き、真実と公正さのコンパスとなるべきです。人類の誉れであられる預言者ムハンマドは、社会の中で生活し、他人からもたらされる問題に耐えるムスリムは、そうしない者よりも優れていると述べています[1]。すなわち、恒久的な引きこもりは社会で果たすべき責任から逃避していることを意味するのです。このことから、個人的な精神的発展のためとは言えこうした責任から逃げ出してしまう人は罪を犯すことになると言えます。イスラームで大切なのは他の人に囲まれながらも全能のアッラーとの関係を保ち、努力して人類に奉仕することにあるからです。

しかしながら、崇高な理想のためにとはいうものの他の人々に交じっての生活では時に望ましくない状況に直面することも事実です。あたかも知らぬ間に泥の上を歩いていて裾に泥が跳ねかかってしまうかのように、です。無意識のうちに目や耳は社会の生活の中で汚染されているかもしれません。不適切な状況によって我々の精神世界は純粋さを侵されているかもしれないのです。

それゆえ、高い理想のために多くのマイナスの影響を耐え忍んでいる人々は、社会生活で被った汚染からの浄化が必要となります。(一定期間を静かな場所で過ごして心と精神性のリフレッシュを図る必要性があり、)澄んだ大気の中に退き、肺を新鮮な空気で満たして再充電する必要があるのです。私の考えでは、この目的のためになされる議論や読書の集いはすべて、一種の崇拝行為といえると思います。

しかし注意すべき点が一点あります。こうした静かな待避所に退くことはある種の問題や一定の出費を伴うものですが、これを行う人は一瞬も無駄にすることなく、この引きこもりを最大限活用すべきです。規律正しい読書プログラムを組織し、アッラーへのズィクルや賛美で活気づくべきなのです。集団の意識が合わさって、心からのズィクルや賛美が織り成すコーラス、シンフォニーは天地をも振動させ、天国の住人たちさえもこの集まりに参加したいと願うでしょう。

精神性に開かれた空気

何年も前に夏のプログラムが開催された際、友人たちが夜な夜な隅に下がっては朗唱したクルアーンやドゥアーに私は非常に感動させられました。同時に彼らは昼間には信仰の真実に関する本を毎日平均200~300ページも読み、様々な事柄に関して議論を重ねていました。加えてとても質素な環境で、例えばわらで編んだマットの上で睡眠をとっていました。食事は卑しいしもべであるこの私が作り、私が給仕しました。あるとき、ある大切なお客様がその雰囲気を目撃し、こうおっしゃりました。「ここは真の精神性を感じるには世界で最良の地である」と。彼は翌年も同じようにそのプログラムに参加してくれました。

同時にこの純粋な環境下で我々は、自らに向かい合い、アッラーのために奉仕するという意図のもとにそれまで行ってきた事柄について批判的に見ることがさらによく出来ていました。我々は自らの犯した過ちを見て、我々の立ち位置、そしてどこに立つべきかについて自己批判する必要があります。そして物性や動物的な側面に背を向け、心と精神の軌道に乗って旅する決意をし、霊性の方向へと向かって進むべく努力すべきです。この点について分かりやすくするために私の意見を述べさせてください。先に述べた夏に行われたプログラムの際、友人たちに、毎晩100ラカートの義務以上の礼拝を行うよう伝えようかと思いました。しかし非常に困難であるかもしれないと思い、それをためらっていました。しかしながら、偉大な聖人たちの生涯を見てみると、100ラカートの礼拝を毎晩、それも非常に若い頃から行っていたのです。これを鑑みるなら、それをできる人は可能なら毎晩100ラカートの礼拝を行うべきです。夜の神秘的かつ厳粛な静寂の時間を、アッラーの許しを懇願したり祈りやズィクルをしながら最善の方法で過ごすことで、その恩恵を得ることができるのは間違いないでしょう。

無関心の犠牲となる偉大な作品と、比較による読解の効果

こうした一時的な退避を活用するために、可能なら宗教的な本を一日300ページ読むことに取り組むべきです。この目標が達成されれば、15日間のプログラムに参加した人は合計4,500ページ読んだことになります。こうしたプログラムが1年に2回実施されるなら、イスラーム関連書籍により育まれるという観点から少なからぬ量の読書を行ったことになります。

付け加えるなら、宗教や霊性に関連する主要な本を、他の作品と比較しながら読むのは非常に有益であり、単調さを打破する大きな助けとなります。これを実現するには集団が受け入れることが必要となります。それゆえ、こうした比較しながらの読解に着手しようとする場合、最初、従来の慣れたやり方から脱するまでは多少難しく感じるかもしれません。しかし心に留めておくべき点が一つあります。参加する人たちは、指導役の人に合わせなければなりません。先に立って行く者が重要な事柄だと見なし、その実践に努力し続けていくのであれば、他の人々も従って同じように行わなければなりません。残念ながら我が友人たちは、こうした貴重な作品を、その本当の深い意味を見抜く努力を怠ったまま、さらっと読んで過ぎていくという了見の狭い考えに陥ってしまっています。考察し、考え込み、比較しながらの読解方法は未だ確立されていないため、その宝石を読み解くことは軽く見られ、今でも普通の事柄として見られています。この作品の著者たちは我々に対して胸が張り裂けるような思いを持っているのではないでしょうか。

最後に一つ述べさせてください。一時的ではあっても、そうした静かな場所で純粋さを保つことは、参加者のその後の社会生活において防護用の盾となります。歴史を通じて、ムスリム社会がこれほどに汚染されたことはありません。街角は汚れ、町の中心部は汚れ、モスクの中庭は汚れ、教育施設も汚れ・・・故に、人が残りの人生を純粋で高潔な線の上で過ごす上で、あらゆる汚れから浄化され、純粋志向となり、純粋さを感じながら、再び活気を得ることは非常に重要なことだと考えます。

さらには、祈りやズィクルによってアッラーの意志に庇護を求めるのは、かれの加護を引き寄せる力の神秘的な源となります。アッラーは「だからわれを念じなさい。そうすればわれもあなたがたに就いて考慮するであろう」(クルアーン2:152)と命じておられます。つまり、もし我々がアッラーを賛美や称賛でかれを念じ、その偉大さを宣言すれば、かれも我々のことを考慮し、困難な時にも見守っていてくださるということです。またこの節はこのように解釈することもできます。「そなたは己の無力さや貧しさを認めてわれに向き返った。ゆえにわれはわが力でそなたを支えよう」この取り決めは実質的に、アッラーの恵みの顕現です。すなわち、全能のアッラーは我々があたかも協定の当事者の一方であるかのように呼びかけ、「あなたがこれをするなら、私はこれをします」と言っているのです。

結論として、我々は皆、己の目や耳、舌を罪から清め、心を浄化して精神を再充電するために、一時的に隔離される必要性を持っています。しかしながらそうした集まりにおいて、頭は読書に集中し、心はアッラーへのズィクルに浸っているべきです。そして崇高な事柄を差し置いてこの世的な夢想が口に出されるべきではありません。

[1] Sunan at-Tirmidhi, Qiyamah, 55