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有意義な批判となるための要素

作者: M.F.ギュレン オン . で掲示される こわれた壷

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有意義な批判となるための要素

質問:あらゆる事柄に関してより良いものを追求するための重要な手段となる、発展的な批判を行うにあたって、それがより効果的かつ有意義なものとなるために注意すべき点はなんですか?批判する者、される者の双方が守るべき重要な点はなんでしょうか?

答え:ある発言や振る舞いを批評し、その長所・短所を明らかにし、実際の状態と望ましい形の比較を行うことを意味する批判は、理想に向かっての向上を促進する上で欠かせない学問的要素の一つです。このことから批評はイスラーム初期の世代から用いられてきました。例えばハディースの方法論として、ある伝承について、その本文と伝承者の鎖の信頼性に関しては批判的なアプローチによって見極めがなされたものでした。実に批評は、アッラーの命令に由来する正しい意味を探し当てたりそれを正確に解釈するといった事柄にあたって真実を明るみに出す目的で、当初からイスラームにおける学問の方法論としてしかるべき地位を占めていました。こうした学問の領域があったおかげで非常に信頼のおけるフィルターが形成され、イスラームと相容れない外からの思想の前に立ちはだかることとなったのです。「ムナーザラ」(考えを比較し議論すること)とよばれる領域も発達したおかげで、有益な議論の結果生み出された新しい解釈についても、批判にさらされ、既存の確立された基準と照らし合わせた上で、最終的に真実のきらめきが得られるものでした。

特に、ハディースの分野で伝承者の鎖の信頼性を問うことに関して相当量の文献の蓄積がなされました。莫大な量の書物が著され、ハディースと称される発言が本当に預言者様(彼に祝福と平安あれ)に帰属するかどうかを判断する材料とされたのです。しかし学者たちは、こうした重要な事柄を判断し評価する際にも、行き過ぎた見解を出さないよう細心の注意を払っていたものでした。例えば、批評(ナクド)の題目を初めて体系化した古典期の重要な学者であるシュウバ・イブン・ハッジャージュの、伝承者を厳しく批評することに関してある興味深い発言があります。仲間の学者に向かって彼は「さあ、アッラーの道でちょっと中傷しようじゃないか」と言ったそうです。かくして彼は、この重要な任務を行う必要性と、その作業がただアッラーのためだけになされなければならないことの両方に注意を引き付けているのです。

批評・批判の手法は特にイスラーム暦における最初の5世紀の間、最も適切なものに到達するという目的で、宗教・実証的科学の両分野においてよく用いられていました。ですから我々の時代でも、公正さ、尊敬の念、配慮というものが保たれるのであれば、この学問的手法を同様に採用することできるでしょう。この点に関して、批判の礼節とやり方について手短に見てみましょう。

公正な態度と柔らかな方法を用いる

批判の対象となる事柄は理に適ったやり方で提示され、それについて述べるときは最大限の配慮を払い丁重なやり方で行うべきです。つまり、批判は否定的な反応を引き起こさせるのではなく、気楽に喜んで迎えられるようにすべきです。ある種の事柄を解決するために自らの代替案や妥当なアプローチを示す際、感じよく丁寧な物腰でそれを行えば、敬意を示されるでしょう。例えば、あるテーマについてあなたが自分の意見を述べていて、話しかけている相手は反対の考えを持っているとしましょう。「このことについて私はこのように理解していました。ですがあなたの仰ったことを見てみると違った側面もあるようですね」という風にあなたが言えば相手の方もしばらくしてあなたに歩み寄り、あなたの意見のほうがより適当だと言ってくるかもしれません。そこであなたは相手の方に、公明正大であってくれたことに感謝の意で返すことができるでしょう。この点に関して、正しさを維持するためには(ある程度)自分のエゴや経験、知識といったものを退ける方法を知らなければなりません。別の言い方をするなら、妥当なものが妥当に受け入れられることを期待するのなら、他者のそれほど妥当的でない考えでさえも彼らの考える妥当性の中で評価してあげるべきであり、好意的な態度を示すべきであり、人々が真実に対して友好的となれるような誠実な雰囲気を醸し出すようにしなければなりません。

当事者を標的とすることなく一般的に述べる

分野のいかんに関わらず、他者の考えに敬意を示さず価値がないと却下してしまう人々は、気づかぬうちに多くの価値ある物事を台無しにしてしまうのだということを歴史が証言しています。ゆえに、我々の目の前にある要素がどういった性質のものであれ、すべてに対してある一定の敬意を持って接するという原則に従うべきです。対面する人々が我々の提示する真実を受け入れるようになるにはこの方法が非常に適しています。提案した企画がどれほど優れていようと、頭ごなしに投げつけられた発言が受け入れられるはずがありません。批判は丁重な伝え方でなされなければ、たとえ批判の対象となる事柄が明白かつ確立された宗教の教えに矛盾し明らかに間違いであったとしても、否定的に取られることに疑いはありません。例えばあなたは友人が何か見てはいけないものを注視しているところを目撃したとしましょう。突然、面と向かって直接的にその恥ずべき過ちのことに言及しとがめようものなら、その友人は言い訳して悪い考えを正当化しようとするかもしれません。アッラーがそうさせないよう祈りますが・・・。特に相手方に態度や振る舞いに関する批判を受け入れる用意がないのであれば、あなたがどんな指摘をしようとそれは反動的振る舞い、真実に対する無礼を引き起こすでしょうし、さらにはその方に自分自身の価値観に対して敵意を抱かせてしまうことすらあるかもしれません。そうした方々は言われていることが正しいと分かっていても、頭上にくらった強烈な一撃のごとき批判にさらされたトラウマのせいで、なんとかして別の議論を作り出して目の前にいる人物を打ち負かそうとするものです。そして自らに向けられた批判に対する最高の返答を考え続けるでしょう、夜ベッドに入ってからでさえも。

ですから物事は個々人を標的とするのではなく、間接的に言及する必要があります。実際、預言者様(彼に祝福と平安あれ)が誰かの間違いを目撃された際、その者を直接的に批判することはされませんでした。そうではなく、人々を集められ、その行いについて一般的に話すことによって、それを行った人物が教訓を得られるようにしたのでした。例えばある時、徴税の任務のためある地域に派遣した者が民衆から集めてきた税金を引き渡す際、「これはあなたのもので、こちらは私に贈られたものです」と言ったことがありました。これを聞いて預言者様はミンバル(説教壇)に上って人々に話しかけ、ある者をアッラーから委ねられた一つの任務に就けたこと、するとその者がやってきて、一部は国家のもので残りは自分に与えられた贈り物だと述べたことを話しました。預言者様はこの考えがとんでもない間違いであることを示すため、もし彼が両親の家で座っていたらその贈り物はあっただろうか、と問いかけたのでした[1]

批判を誰が行うかも非常に重要です。誰かに何かが告げられる必要があるとき、「ぜひ自分が」と意気込んですべきではなく、その批判を受けることになる人が好きな誰かに任せたほうがよいのです。こうした状況では、好きな友人からであれば批判さえも褒め言葉として受け入れられるでしょう。あなたの批判が反発を招きそうであるなら誰か別の人に委ねるべきです。なぜなら大切なのは真実を伝えるのが誰かではなく、その真実が心の底から受け入れられることだからです。

この点に関しては、預言者様(彼に祝福と平安あれ)の二人のお孫さんにまつわるある寓話を説明するのが役立つかもしれません。ハサン様とフセイン様に関するこの寓話は信頼できるハディースが出典となっているわけではありませんが、重要な教訓が含まれています。それによると、ある時二人の少年はウドゥー(小浄)をしに訪れた場所で、バシャバシャとあちこちに水を跳ね上げているにも関わらずウドゥーが有効となるのに必要なやり方できちんと手足を洗っていない人を見かけます。この深い洞察力を持つ二人の才能溢れる若者は、その人に恥をかかせることなくやり方を示すことのできる方法を考えます。この意図を持った上で、二人はその人に、どちらが正しくウドゥーを行っているか見て欲しいと頼みます。そして父親のアリー様(彼にアッラーのご満悦あれ)から習ったとおりにウドゥーを行います。やり終えると、二人はどちらがより優れていたかと尋ねます。するとその人は恥をかかされることなく楽な気持ちで静かに、二人ともとても素晴らしく行っていた、そして自分は間違っていたと答えます。ですから、過ちを正し正しいことを示すのに我々が用いるべきやり方が、受け入れられるという点において非常に重要であることを繰り返し申し上げたいと思います。

批判を受け入れられるよう個人を教育する

加えて、人々が批判を受け入れられるようにすること、そしてそれに敬意を示す高潔な感情を引き起こさせることは、このテーマのまた別の側面を成しています。高潔さの点で理想の域に達していた教友たちは、どんな過ちでも否定的な反応を全く起こすことなく互いに気軽に警告しあうことができていました。例えばカリフのウマル様(彼にアッラーのご満悦あれ)はある時フトバ(説教)を行う際、結婚をたやすくするためにできる方策の一部に言及し、マハル(婚資金)は支払い可能な額に抑える必要があること、そして高額を要求しないようにとくぎを刺しました。この忠告はマハルが乱用される可能性を防ぐための合理的な解決法でした。今日でも、この問題に見られる思いやりある態度は社会的問題の解決において重要な機能を果たすことは間違いありません。ウマル様がこのことに注意を引いたとき、ある老婆が声をあげ、彼に尋ねました。「ウマル様よ、この件について私たちが知らなくてあなたがご存知のクルアーンの節かハディースはありますか?クルアーンでは『あなたがたが一人の妻の代りに、他と替えようとする時は、仮令かの女に(如何に)巨額を与えていても、その中から何も取り戻してはならない』(婦人章 4:20)と書かれ、マハルの額に制限を設けてはいませんが」。当時の超大国2カ国を従わせた偉大な国家を統治するカリフであったにも関わらず、ウマル様は「ウマルよ!お前は老婆ほども己の宗教を知らないのか」と自分自身に向かって大声で仰いました[2]。ここまでの正義感を備えていたことでウマル様は「アル=ワッカーフ インダ=ル=ハック」(真実に直面して立ち止まる者)と呼ばれました。つまり、道理に適った議論に直面すると、下り坂を移動中に突然停止する車のように立ち止まることを知っている人物でした。この感情を人々に生じさせることが必要です。このことから我々はある特定の友人と取り決めをして、自分自身の態度や振る舞いの中に何か過ちが生じていたらそれを気楽に批判する権限を与える、ということをするべきです。

結論ですが、批判をしようと思う人、というよりはある事柄を正そうと思う人は、まず最初にその問題をよく理解して正しいやり方で意見を伝えるために真剣に努力しなければなりません。次に、相手の感情を考慮し、その人がこれから伝えられる事柄を受け入れる準備ができているかを推測しなければなりません。もし否定的な反応が予測されるのであれば、「この真実を伝えるのは私でなければ」という考えは捨て、その発言がより影響を与えることのできる他の誰かに批判を委ねましょう。傲慢さがあまりにも蔓延し人々がちょっとした批判でさえも容認することができない我々の時代の状況を考慮に入れると、この原則はさらに重要性を帯びてくると思われます。批判を受ける側の人々について言えば、正義感を最優先させ、批判に対しては否定的に反応するよりは感謝の気持ちで応じるようにすべきです。ベディウッザマン師はこうアドバイスされています:背中にサソリがいることを教えてくれる人(つまり、我々の過ちを警告してくれる人)がいたら、ただ感謝の気持ちで応えるべきである、これも成熟さの現れの一つなのだ、と。

[1] サヒーフ・ブハーリー、誓約、3
[2] アル=バイハキー、スナン・アル=クブラー、7/233