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過ちに引き付けるような言葉を使うことなくその警告を行うこと

作者: M.F.ギュレン オン . で掲示される こわれた壷

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過ちに引き付けるような言葉を使うことなくその警告を行うこと

質問:過ちの内容について詳細な説明を受けると、人々は誘惑で精神が汚されてしまうことがあると言われています。一方で人々が過ちを回避するために警告しなければならないことがあります。ここでどのようにバランスを築くことができるでしょうか?

答え:まず、何か良くないことについて警告することと、それについて人を引き付けるような詳細な説明を行うことは異なるということを知る必要があります。個人や社会を害する態度や振る舞いを回避させ、人々がそうしたものを嫌悪するよう仕向けるためには、それに関して警告を行うことが当然必要となります。しかしながらそうした警告は、人々の頭の中でその過ちが明瞭な像を結ぶようなやり方で詳しく説明しすぎてはなりません。ある種の行為について鮮明な像があることによって一部の人はそれに対する誘惑に駆られる可能性があるのです。ですから、意図した効果と反対のことが起こらないよう、過ちについては簡潔に述べるに留め、その害やこの世と来世で引き起こされる悪い結末について話すのが良いでしょう。例えば、罪に耽っている人に警告を与える際には、精神的な恵みに対する感受性を失ってしまうこと、崇拝行為に歓びを感じられなくなってしまうこと、洞察力が鈍ること、心に備わる潜在的かつ繊細な機能を働かせられなくなってしまうこと、もしくはそういう機能に全く気付かなくなってしまうこと、宗教の形骸化から救われないこと、アッラーをただ理論のみで捉えてしまうこと、アッラーの御前にいるという畏敬を感じられなくなってしまうこと、などを思い起こさせてあげることができます。つまり、罪について詳しく描写するより、その罪がもたらす悪い結果に注意を引き付けるほうが賢明だといえるでしょう。

良くない含蓄がもつ破壊的効果

ご存知のように、シャイターンは人間性に備わるある種のマイナスの感情に抜け目なくつけこみ悪用します。ですからそうした感情を呼び覚まさないこと、作動させないことが非常に重要となります。過ちをこと細かく説明すると潜在的なマイナス感情を活性化させる誘発要因として働き、シャイターンに人々を堕落させる好機を与えてしまうことになりかねません。

この問題となっている事柄を我々は性欲と結び付けてしまいがちですが、それに限定することは誤りです。ここで述べたポイントは、.人々気持ちをそそられてしまうあらゆる過ちに当てはまります。例えばあなたは偽善がいかに醜いかを説明しようとしているとしましょう。もしあなたがそれを芸術的才能と捉えられるような話し方をするなら、図らずもこの不道徳を気に入るような気持ちを引き起こしてしまうかもしれません。したがって、過ちの範疇に入るあらゆる態度や振る舞いについては、抑止効果を期待できるようなやり方を用いながら、道を踏み外した人々が審判の日に直面する懲罰がいかに恐ろしいかを話すべきです。

この点においてアッラーに同位者をおくことについても非常な繊細さをもって扱われる必要があります。例えば、アッラーではない何か神と見なされているものの名前を繰り返し挙げることに意味はありません。必要であればその名称に全く言及しなくても良いのです。そのこと自体には簡単に触れて、それよりも、永遠の至福の人生を失い永遠の地獄の人生に直面するかもしれないという事実を強調するべきです。

同じことが親不孝や偽証、窃盗、中傷や陰口といった事柄にも当てはまります。我々は人々に、こうした事柄に対する抵抗感を抱かせるようにしないとなりません。

実際、この手段は預言者様(彼に祝福と平安あれ)が取られた方法です。舌がもたらす災禍や不倫関係を回避することがいかに大きな利益を獲得することになるのかを説明するために、彼はこうおっしゃいました。「私のために、顎の間にあるものと、両足の間にあるものを制しなさい。その者のために私は天国を保証します」[1]。お分かりになるように、問題の中身は控えめかつ簡潔に表現され、きちんと振舞えた場合に得られる報奨へと関心を引いています。

また、過ちについて詳細すぎる説明を聞いた人の頭の中は、数日間さらには数週間にも渡って不純物が混ざった状態となる場合があることを知らなければなりません。ある種のマイナスの事柄は、崇拝行為を行っているときでさえ頭の中をざわつかせることがあります。ですから人は最初から、こうした良くないものに対して確固たる強い姿勢をとるようにしなければなりません。そうしないと、頭に美しい良いものを満たすために骨を折り続けることとなります。大脳皮質にあるファイルを開けたとしたら、どこからでも良い言葉、良い思考、良い光景が飛び出してくるような状態にしなければならないということです。もし何かによって目や耳、頭の中が汚されたり、不本意にもマイナスな何かが心に思い浮かんできたら、罪が永らえる隙を与えることなく、すぐに近くの礼拝用絨毯に駆け寄り、浄化を願って礼拝し庇護を求めるべきです。

清純な精神と良い結末

特に我々の時代、精神の汚染は深刻な問題であり、それは買い物や所用で外出するときのみならず、我々信者にとって最も安全な場所であるはずの家で座っているときでさえあり得ます。時間とともに、このようなマイナスの描写や光景は蓄積され、人の記憶や大脳皮質を汚すこととなります。それは頭の中を占領し、人間性においてある種の否定的な感情を呼び覚まします。そうしたイメージは人々の感情や思考の世界を追い込みながら、己の欲望を主張し始めます。機を見計らっては意思の力を麻痺させ、永遠の来世を崩壊させるような罪へと人々を導くのです。

実に、こうした良くない心象は潜在意識の中に蓄積して、夢までをも汚染し始めます。信者は常に、夢の中でさえも純粋さを志向すべきです。ムスリムは預言者様(彼に祝福と平安あれ)のドゥアーを見習って夜寝る前に「信頼の厚いお方アッラーよ、あなたに私の感情と思考をお預けします。どうかそれらを汚させないでください。眠りから覚めたときに一部不純な気持ちが混ざったまま起きないように」と言ってアッラーの庇護を求め、我々の夜の地平線をもかれのご加護に委ねるのです。これほどまでに注意深く行動することは、来世という点で大きな重要性を持っています。この点に関するニーヤ(意図)、ドゥアー、そして努力はすべて、善行として記録されることを知るべきです。心象を汚染から守り、潜在意識における不純が感情を押しやらないようにする努力が、時には100ラカートの礼拝を捧げるよりも重要となることがあり得ます。ですが夢の中でさえも、清純の領域を、自信に満ち溢れ優雅な様子で歩き回ることができるかどうかは、本気で決意し意志の力を正当に行使できるかどうか次第となります。

罪につながりかねない要因や間違ったことを考えることから離れていればいるほど、人は罪に対して安全であるということになります。預言者様(彼に祝福と平安あれ)は聖なるハディースで伝えられているように、

اَللّهُمَّ بَـاعِـدْ بَيْنِي وَبَيْنَ خَطَايَايَ كَمَا بَاعَدْتَ بَيْنَ الْمَشْـرِقِ وَالْمَغْرِبِ

「アッラーよ、東西の間を遠ざけられたように私と私の過ちの間を遠ざけてください」[2]と祈り、過ちから遠ざかることの重要性を示されました。風の近くを航行する者は岸辺に戻る術をなくしてしまうかもしれません。ですから信者は常に、自らの精神、思考、そして感情を純粋に保つよう努力すべきです。そして自我やシャイターンの罠に警戒を怠るべきではありません。

[1] サヒーフ・ブハーリー「Riqaq」23
[2] サヒーフ・ブハーリー「Dawat」44