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様々な試練

作者: M.F.ギュレン オン . で掲示される こわれた壷

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様々な試練

質問:人に試練として降りかかる数多くの要素がありますが、特に現代を生きる信者にとって最も危険となる要素はどのようなものでしょうか?

答え:アッラーはご自身の規則に従い、人々にその生涯にわたってあらゆる種類の試練を与えます。こうして炭とダイヤモンドを分け、また石や砂から金を分別するように、人間も成熟したものと未熟なもの、また純粋なものをそうでないものから分けられます。同時にどの試練も、我々に自分自身のことを気づかせてくれる経験となります。つまりはるか太古にすでに我々の真の価値をご存知であられるアッラーは、試練を与えられることによって、我々が何をどこまで耐えることができるか、災難や辛苦に対してどのような態度を取るか、どこで忍耐しどこで逃げ出すか、どこで歯を食いしばって踏ん張るか、運命を非難することを意味する不服の態度をどこでとるかといったことを我々が自分自身で見られるようにしてくださいます。この世の試練によって人間は打ちのめされ、様々な圧延装置にかけられ、坩堝の中で溶かされるます。トルコの詩人であり修道士でもあったユヌス・エムレも「この道は長く、山脈も多い。山道はなく、行く手には深海が待っている」との表現によって、この真実を表しています。

試練の困難さは目標に比例する

アッラーは人々を様々な方法で試み、忍耐する者には吉報を伝えておられます。

「われは、恐れや飢え、と共に財産や生命、(あなたがたの労苦の)果実の損失で、必ずあなたがたを試みる。だが耐え忍ぶ者には吉報を伝えなさい」(雌牛章2:155)

これによれば、イバーダ(崇拝行為)によって人の精神的レベルが上がるように、受動的なイバーダとされるこの世での試練も、忍耐を放棄しなければ罪が清められ、崇高な高い地位へと人を上昇させるのです。であればアッラーが試練に次ぐ試練へと引き込み、様々な試練の要素で人を試みることに対して信者がなすべきは、こうした試練に対して歯を食いしばって耐えることです。またこうした状態を、自分自身に向き合い、自らの行いを今一度見直し、行動を評価しなおしてムハーサバ(自己批判、自問)を行う一機会であると知ることです。

結果として得られる報奨の大きさに応じて困難が増すことを考えるなら、当然、到達しようとする目的の大きさ、価値に応じて試練の度合いも強まります。例えば、人類への奉仕において殉教者となり人生の異なるレベルに飛び立つことはこの上ない特権です。しかしこの栄誉を獲得することはアッラーの道で奉仕し相当の痛みを引き受けられるかどうかにかかっています。そこには絶対的な自己犠牲があります。だからこそ、崇高な目的のために献身しその要件を満たそうと努力する人は、自らに降りかかるどのような困難や不幸にも耐えるべきです。そしてそれなりの忍耐を見せ、自分自身の欲求は脇へ押しやって人生を続けていかなければならないのです。

この事柄についてベディウッザマン師の叙述に耳を傾けてみましょう。「80年以上の我が生涯で、この世的な歓びを味わうことは何もなかった。私の生活は絶えず、戦場や刑務所、そして各地への追放と苦しみのうちに過ぎていった。受けたことのない拷問や苦難は残っていない。軍法会議にかけられては殺人犯のような扱いを受けた。放浪者のように一つの流刑地から別の地へと送られた。祖国の刑務所では何ヶ月も人と会うことを禁じられた。何回となく毒を盛られもした。ありとあらゆる侮辱も受けた。生より死をましと思ったことが幾度となくあった。我が宗教が自殺を阻んでいなかったら、このサイードは地面の下でとっくに朽ち果てていただろう」。このお方が被った試練がこれほどまでに厳しいものであったがゆえに、アッラーはこのお方を人間性の完成という頂へと引き上げてくださいました。彼が受けた苦難、そしてそれに対する忍耐が原因となって、アッラーはそのお優しさから彼を後世の人々にとっての導き手にしてくださったのかもしれません。

道の途中で立ち止まってしまう人も

この世での人生は最初から最後まで試練の連続ですが、困難や不幸のみで成り立っているわけではありません。物質的・精神的な成功や恩恵によっても試練に直面する場合があります。そうです、人はその人生において、目をくらませるような段階、局面を迎えることがあります。地位や肩書きといったある種のものは(アッラーがお守りくださることを願いますが)足をすくい、立ち寄った先々で拾ったウイルスや細菌は精神的な生に影響を与えかねません。まとめるなら人は立ち寄った先々で、ある時は容易さや心地よさによって、別の時には栄光、名声、地位、そして拍手喝采によって試練を受けることがあるのです。

イマーム・ガザーリーは人が直面する試練についてこのようなたとえ話で説明しておられます。「ある人が強い決意とともに天国の美しい庭園に向けて出発する。その場所が目もくらむような魅力的な美しさで溢れていることを以前に聞いていたからである。しかし途中で、こんこんとした川の流れや鳥のさえずり声、そして涼しげで心地よい木陰といった非常に魅力的な場所を見つけると、目的地のことを忘れ、そこで留まることに決める。すぐに小屋を建て、そこで済み始めたのであった」。

このたとえ話はこの世での生活を実に印象的かつ簡潔に要約しているといえます。人に真の目的地を忘れさせるような別の要素を取り入れて異なるバージョンの物語を作ることもできそうです。つまり道中においては快適さ以外にも様々な要素に引っかかる可能性があります。しかしこうした地を後にしない限り天国に到達しアッラーのご満悦を得ることは不可能です。

富への執着

この世の人生で被る試練のうち最も重要なものの一例は、金銭欲と物質欲です。人類史上ほとんどの人にとっての最大の弱点であるとも言えるでしょう。預言者様(彼に祝福と平安あれ)は、ある聖なるハディースでこう仰っておられます。「アーダムの子は宝で一杯の谷を一つ持っていたとしても、もう一つ欲しいと思うだろう。その(貪欲な)口を満たすものは土以外あり得ない。しかしアッラーは悔悟する者の悔悟を受け入れられる」[1]

そうです、飽くことを知らない貪欲さからもっと多くを欲しがったり、さらに巨大な会社や複合企業を所有しようとしたりこと、またすべてをコントロールしようとする欲望はほとんどの人にとっての弱点です。実際、この社会で起きている多くの諍いや衝突の背後にはこうした個人的な関心や利益に関する競争が横たわっているのです。

ムフイッディーン・イブン・アラビーがダマスカスで圧力を受けていたとき、彼は地面を足で踏みつけて「あなた方が崇拝している神は我が足の下にいる」といいました。一部の人はこれを聞いて信仰の拒否だと捉えます。しかし師は実際は、相対する人々の心が金銭への愛着に囚われて崇拝するまでに至ってしまったと考えておられました。人々が崇拝するその神が足の下にあると述べたことについては、彼が立っていたまさにその場所の地下に金の財宝が埋蔵されているのを示唆していたということが、数世紀後になって判明しています。

残念ながら今の時代、あまりに多くの人々が死ぬほど欲していると言っても過言ではありません。まず「自分の家を持とう」から始まって「息子にも一軒、娘にも一軒家を与えよう」、さらには「孫にも別荘が必要だ」と続く、こうした考えを持ちながら生きているこの世的な人々をたくさん目にすることができるでしょう。さらにはアッラーのご満悦を求めて人類に奉仕し始めたにも関わらず、あたかも金銭を崇拝しているかのようにこうした欲望の後について走り出してしまう人々にさえ出会うかもしれません。中には受け取る給料だけでは足りず、さらなる稼ぎを求めて人々や信仰への極めて重要な奉仕を放棄してしまい、正しい者の道から外れてこの世的な者の道に入り込んでしまう者もいます。

肉体的な欲望

現代において重要かつ困難な試練として肉体的な欲求もあります。歴史を通じて常に困難な試練であり続けてきましたが、今日、その危険性はさらに増しているということができます。

メヴラーナはその著書「マスナウィー」の中でこの欲望の弱点についてある物語を説いていますが、そこでシャイターン(悪魔)とアッラーの対話、より正しく言えばアッラーに対して横柄な口を聞いていることに言及しています。クルアーンや聖なるハディースでシャイターンの煽るような横柄な言葉遣いについては述べられています。しかしメヴラーナはここで異なる、このような寓話を披露しています。「シャイターンはアッラーに向かって、屈辱を受け失望したと不満を述べた。そして人々を逸脱させ誘惑するために利用できるものをいくつか求めた。そこでアッラーはシャイターンに、富や地位、名声といったものを与えが、シャイターンはどれにも満足しなかった。最後にアッラーが『男のために女を、女のために男を利用する手段をそなたに授けよう』と仰ると、シャイターンはとても気に入り、喜んで踊り始めた」。

この寓話はイスラームの主要な出典としては用いられませんが、ここで我々にとって大切なのは、この物語が伝える真実です。特にあるタイプの性格の人にとっては肉体的欲求はこの世の試練として最も大きな要素となりえます。以下の聖なるハディースとこの真実を関連付けることも可能でしょう。「地獄は性欲に取り囲まれている。楽園は困難や自我にとって不快となる物事に取り囲まれている」[2]。そうです、天国までは長い道のり、途中下車、道を途切れさせる水域、その他の障害が横たわっており、他方で地獄に通じる道には、気ままに飲み食いすること、怠惰に寝転がること、自我の欲望を追求することといった自我を喜ばすものが転がっています。こうしたものに身を任せてしまった人は知らぬうちに下へ下へと沈み続けていくでしょう。

名声欲

尊敬、地位、権威、人から感謝されることといったものを求めることも、多くの人々を失敗させる試練のうちに入ります。ベディウッザマン師はその著書「29番目の手紙」の中で、(シャイターンによる)6つの攻撃方法の一つとして地位への愛着を挙げ、また別の著書「アル=マスナウィー・アル=ヌール」の中では名声について毒のある蜂蜜だと述べています。これらも一部の人々にとっては最大の弱点となり、名誉欲に取り付かれた者はその目的のためなら何でもやるということを決して忘れられてはなりません。

主よ、これらの致命的な落とし穴にはまることから我々をお救いください。そして信仰というビザとイフサーン(完全な善、すなわちアッラーを見ることができるかのように注意深く生きること、もしくは少なくともアッラーから見られているという意識を持って生きること)の感覚を携えて来世に旅立てるようお計らいください。

[1] サヒーフ・ブハーリー、リカーク 10
[2] サヒーフ・ブハーリー、リカーク 8