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光り輝くムスリム兄弟間の精神的絆

作者: M.F.ギュレン オン . で掲示される こわれた壷

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光り輝くムスリム兄弟間の精神的絆

質問:ベディウッザマン師は有名な「ダマスカスの説教」の中でムスリムの向上に対する障害を挙げ、一つの重要な原因として「信者たちを互いに結びつける精神的な絆を知らないこと」に言及しておられます。「信者間の精神的絆」について説明してくださいますか?

答え:ベディウッザマン師がダマスカスの説教を行ったとき、ムスリムたちは歴史上、最も悲惨な時代の只中にありました。長い年月に渡って人々は無能となり錆付いてしまったようでした。顔を歪めどこもかしこも萎縮したようになり、ベディウッザマン師は人々を精神的・物質的、もしくは外側に現れた、あるいは内側に隠れている能力すべてとともに生き返らせる道を探りました。人々が未来に何の希望を持てなかった時代に、彼は悲しげな哀歌で気力をくじくのではなく、生気を失った意志の力にとっての希望の源となるよう奮闘し、「希望を持ちなさい、将来の世界を変える最高かつ最強の声はイスラームの声となるだろう」といった言葉を声を大にして叫んだのでした。私の考えでは、新しい夜明けが始まるときに希望について何かしら述べるのは愚かとまではいいませんが、大きな価値があるとも言いがたくあります。真の価値は、夜明けの兆候がまったくないような時代に人々に生気を与えるためこうした言葉を発せられることにあります。

アッラーの美名の数ほどもある兄弟間の絆

ベディウッザマン師は1世紀近く前にダマスカスのウマイヤド・モスクで説教を行いました。師はそこでまず最初にムスリムの発展を妨げている「病気」について診断を下し、イスラーム世界の再興に必要な処方箋を披露しました。彼が診断した最も深刻な病の一つが、信仰を持つ者たちを結びつける光り輝く精神的絆について知られていないことでした。それに対して師が提示した解決策は、協議の精神を通じた結束と一致でした。実はこの事柄について、ダマスカスの説教の中では手短に言及しているだけで、後にいくつかの手紙[1]や、イフラース(誠実さ)や兄弟愛についてのリサーレの中で詳しく説明しておられます。例えば兄弟愛についてのリサーレの中で、ムスリム同士の結束、一致、そして兄弟愛といった絆の数はアッラーの美名ほどもあると述べた後で、こうした共通の絆の例として、アッラーや預言者への信仰、キブラ(礼拝の方向)、そして住んでいる土地などを挙げています。そうした絆の数は10も、100も、そして1000もあることを述べることによって、師はこの事柄における重要性へと注意をひきつけておられるのです。

あるハディースで、高貴であられる預言者様(彼に祝福と平安あれ)は、信仰は6、70以上の枝があると仰っておられます[2]。この数字は、多数であることを示す切りの良い数字であると見なすこともできます。この枝の一つ一つはムスリム同士をつなぎ合わせる壊れることのない絆です。同様に、クルアーンに述べられている真実の一つ一つがムスリム同士をつなげる非常に強力な絆であります。

一方、信者たちが共同体として捉えられるとき、非常に多くの共通点を持っていることが分かります。彼らは同じ運命、同じ土地、同じ文化、そして同じ道徳によるしつけを受けた子どもたちです。こうした共通点の中には、同じ抑圧、同じ苦しみ、同じ糾弾を被ったことも含まれます。それゆえベディウッザマン師は、結束や一致、愛情そして兄弟愛が生まれて当然となる非常に多くの共通点を持っているにも関わらず、信者たちが不一致や偽善、わだかまりや敵意を生み出すような態度、振る舞いを見せていることは、どんなにひどい不正行為であるかを強調しておられるのです。

個人的な「権利」を放棄することのできる高潔さ

こうした信者間の精神的紐帯を何の害もなく保持することは、個々人が、必要とあれば個人的な考え、好み、そして判断を放棄できるかどうかにかかってきます。一致点を見つけるために自分のことは考慮に入れないで生きることが左右するのです。再びベディウッザマン師の見方を借りて表すなら、「良い」ことで一致できるのであれば「さらに良い」ことのために論争を引き起こすことは意味がないのです。言い換えれば、より良い選択肢を追求することがムスリム同士の間で不協和音を生み出すのであれば、そこで立ち止まって良いもので十分とすべきで、論争の原因が生み出されないようにしなければなりません。アッラーからの導きや援助を得られるのは結束や一致次第であることを我々は知っています。よって、ムスリムたちが明らかに「良い」として合意したものは実際に最高であるものよりも優れているということになります。このことから、些細な事柄を不一致の原因としないようにすることは、兄弟愛の精神を持続させるという点で何よりも重要となります。人は、他人の感情を考慮に入れて自分の優先事項を放棄することができるべきであり、二次的な事柄によって論争が起きないようにしなければなりません。

例えば礼拝を、その真実に従って執り行うことは非常に重要です。アルヴァル(地名)のイマーム・ムハンメド・ルトゥフィー師は「礼拝は宗教の主要な柱であり、輝く光である。その船を進ませるのは礼拝である。礼拝はあらゆる崇拝行為の長である・・」と仰っています。礼拝の真実は、己の自我を無視し、主の元に上昇していく旅路(ミーラージュ)にあるかのようにアッラーの御前に立っているのを感じることです。精神的な知識(イルファーン)の地平線の広さに応じて、人は礼拝の意図を持つ際にもアッラー以外のすべての考えを心から排除しなければなりません。その他すべてのことを忘れ、あたかも異次元において異なる顕現を目撃するかのように歓喜の状態で礼拝を確立しなければなりません。しかしながら我々の多くは無学です。それゆえ、そうしたごく普通の人々の礼拝はたいてい形式主義的で表面的なものとなってしまいます。しかし人がその条件と要件に合致して礼拝するなら、外側の次元という点において、たとえそれが形式主義的なやり方だったとしても義務を果たしたと見なされます。この点に関して、誰かが真の意義と本質を伴った礼拝をしていなかったとしても、非難がましい言葉や態度を示すことは明らかに間違っています。ここでなされるべきは、たとえそれが形式主義的で表面的だったとしても物事をそのまま受け入れることであり、最高の理想を目標としているからといって異議を唱えるべきではありません。そうでなければ、人はより良いもの、最高のものを求めるうちに無意識のうちに違った種類の醜い行為を犯すこともあり得るからです。そしてこのことはアッラーからの恵み、援助を途切れさせてしまうことになります。

同じ考えがザカートにも当てはまります。例えばアッラーのご満悦のために差し出すことを人々に奨励するために、財産の40分の1であるザカートを「けちな施し」のように見なし、20分の1、10分の1、または5分の1を出すよう求めることもできます。これはさらに上を目指すという点で許されることですが、この態度が論争へとつながるのであれば宗教の客観的判断で満足すべきです。実際、宗教を学びたいという人が外から預言者様の元にに現れたとき、彼は礼拝と断食を行い、規定のザカートを払うようにと話されました。その男が、それ以上もそれ以下も行いませんと言うと、預言者様は、彼が真実を述べているのなら救われるだろうと仰いました。[3]この出来事は我々が強調した点の例として当てはまるでしょう。このことから、最高を目指すために主観的な尺度を用い、それが皆にとっての救いの出発点であると見なすなら、自分より劣った基準にのっとっている人々を遠ざけ、彼らがするはずだったかもしれない善行を奪うことになりかねません。そしておそらく、あなたに対する嫉妬や妬みの感情を掻き立てることにもなるでしょう。その他の崇拝行為や義務についても、ここまで述べてきたことと同じように考えることができます。

まとめるなら、人々を励まして高い地平を目指させることと、物事をただ一定の水準のみに限定してしまうことは、全く別の事柄です。あなたの心、そして魂の面で保ち続けようとしている一定の地平があるのであれば、他の人をそこに招くのがよいでしょう。しかし原則として一致できる点を採用し、どこで踏みとどまるかを知ることはさらに重要です。このことから、我々は常に結束と合意の方法を探り、この精神を保持するためにあらゆる犠牲を払わなくてはならないのです。

[1] 著書「手紙」集以外にも、ベディウッザマン師と弟子との手紙のやり取りは、迫害、追放、投獄の目に遭い長年を過ごしたカスタモヌ、エミルダー、そしてバルラといった地名から名づけられた別個の書簡集に編纂されている。
[2] サヒーフ・ムスリム、イーマーン、57
[3] サヒーフ・ブハーリー、イルム、6