愛は、最も慈悲深いお方が人間に授けてくださった恵みのほんの一部です。愛はどの人間にも種として備わっています。それは条件が整えば発芽し木のごとく成長し、開花しやがて果実を実らせます。こうして終わりの後に始まりを結び付けているのです。

目や耳、心といった入り口から取り入れられ、愛は感情になって内なる存在に浸透していきます。それからダムが水かさを増すように、また雪崩のように膨れ上がり、私たちの存在の核を炎のように飲み込んでしまいます。それは愛の対象との融合に達することによってのみ平静さを取り戻すことができます。炎は消え、ダムの水は引き、雪崩も溶け去ります。

愛は私たちが生きる中に自然に存在し、同時に不可欠なものです。しかしそれが"本物の愛"、すなわち創造主への愛に変わるとき、それは生得の特性と色合いを帯び、融合の出発点に立ったことによる清らかな喜びへと発展していくのです。

人の心は、明かされた神の意志を受容する港のようなものです。あなたが創造主を愛し、彼の許へ回帰することを切望しているのなら、それはすなわちあなたが神に愛されていることの明白な印なのです。

愛は人間が完成に至る最短かつ最も安全な道です。愛を包含しない道を経て人間の完成というレベルに達するのは困難です。真理に至るための道としては、"人間生来の無能さや貧しさ、そして神の威力や富への依拠を認めること、熱心に神の道を歩むこと、そして感謝すること"、という方法以外では愛に匹敵するものはありません。

愛は神から授けられた乗り物であり、私たちをかつて失われた天国に運んでくれるものです。これに乗って道半ばで立ち往生した人はいません。時に、愛の歓喜に酔いしれてうそぶいたことが原因でこの神聖な乗り物に乗っていながら道端をとぼとぼと進んでいる人も見受けられます。もっともこれもその人間と神との間の問題ではあります。

この世の"炎"も地獄の炎も、愛によって"灰となるまで焼き尽くされた"人を"焼く"ことはできません。この世にいる間、地獄を恐れて焼かれる思いをする人は地獄へは行きません。しかし火獄から安全だと思っている人の最後の住処は恐らく地獄でしょう。愛の炎で身を焦がし、この世的な自我やこの世界との闘いのために現世で地獄を味わう人は、おそらく来世において同じ辛酸を舐めることは免れるでしょう。

愛は自己の存在を忘れさせます。そして愛するお方の存在を前にして自己の存在を滅しさせます。それゆえその人は常に愛するお方の存在を必要とし、いかなる見返りも求めずにそのお方が望まれるままに全身全霊を捧げるのです。私はこれが人間の本質ではないかと思います。

愛の道においては人がほんの少しでも愛するお方以外のものや人に気持ちが傾いてしまったら、それは愛の終焉を意味します。そのような傾倒は不義となるのです。人が身の回りにあるすべての中に愛するお方を見出し、あらゆる美や完全さが愛するお方の顕現であると認識する限り、愛は続きます。もしそうでなければ愛は死に絶えます。

愛している人はどんなに些細なことであろうと最愛のお方と対立することなど想像だにできません。そしてそのお方を忘れさせるような何かで愛するお方が覆い隠されることも耐えられません。さらにはそのお方と無関係な言動は無益で恩知らずで不実だとみなします。

愛とは愛するお方に心が強く結び付き意志の力が引き寄せられていることを意味します。また愛によって最愛のお方以外の人、ものは感情からきれいに取り除かれ、すべての感覚、すべての身体機能は愛するお方に向けられ、固定されるのです。人の一挙一動には愛するお方が反映されます。心臓は最愛のお方を希求して鼓動を打ちます。舌は常にそのお方の名を呟きます。また目は開閉するたびにそのお方の像を結ぶのです。

吹き抜ける風や降り注ぐ雨、小川のせせらぎや森のざわめき、夜明けや夕闇といったものの中に愛するお方の跡を見たとき、人は生の息吹を得ます。周囲すべてに愛するお方の美を見出すことによって溢れんばかりの力が湧いてくるのです。そよ風が吹けば愛するお方の息遣いを感じて歓喜に包まれます。時にそのお方からの叱責を感じ取っては悲嘆にくれうめき声をもらすのです。

最愛のお方を示す印に目覚めた人は炎の洪水に飲み込まれたように感じるでしょう。その中で燃やされてもこの心地よい地獄から逃れようとは決して願いません。彼らは噴火直前の火山のようであり、そのうめき声は触れるものすべてを焼き尽くす溶岩のようです。

私たちは真の愛と異性間に生まれる感情を混同してはなりません。そのような愛は時には真の愛へと高められる場合もありますが、不完全であり刹那的で本来備わるべき価値を含まないものなのです。

愛を言葉で言い表すのは不可能です。なぜなら愛は、愛している人のみが理解できる感情の在り方だからです。

愛するお方を想っている人は、その愛、称賛、そして感謝の気持ちに心を奪われています。最後の審判を告げるラッパの音だけが彼らをわれに返らせることでしょう。

命のはかなさがもたらす痛みを癒し、苦痛に満ちた"火傷"を引き起こす"炎"を消すことができるのは本当の愛だけです。愛は、一見不治の痛みや病を治し、現代世界の叫びに応えてくれるものなのです。

私たちが若者の心に愛の種を蒔かなければ、科学や知識、現代文化を通じて彼らの目を開かせようと努力しても、若者は決して完成には至らないでしょうし、この世的な欲求から完全に解放されることもないでしょう。

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