アッラーはなぜ、人間を同一に、均一に創造されなかったのか

他のどの時代よりも、今日の人々は次のような問いに頭を悩ませる。

「一部の人が金持ちで、一部の人が貧しいのはなぜか? 一部の人には肉体的問題はないのに、一部の人にはなぜ障害があるのか? 一部の人は災いにあい、一部の人は安楽な生活をおくっているのを目にすることができる。これらにおける英知や要因は何か?」

これらの問いに簡潔に答えていきたい。

1.人は知るほどに相手を愛する

人は愛する人を、相手を知る度合いに応じて愛していく。知らない者は常に敵である。そもそも、異議を唱えるあらゆる質問の根底には、この知らなさが潜んでいる。人が自らの創造主を知ろうとする際、その辺の有名人に対して興味を持つのと少なくとも同程度の熱意を持つことができればどれほどよかったか。アッラーについて知識のある師から学ぶ機会を得て、この世界の書をアッラーの書の基準に従って読み解いていくことができれば、そしてアッラーの使徒からもたらされたものによって、生が生であるゆえんとなる真実を一部でも聞き、その心にともる明かりで物事の精神的側面を見ることができるようになれば、頭を悩ます多くの問題に答えを見つけることができたであろう。文明や思想が抹殺された時代には、これらのどれ一つとして実現していないといえるだろう。

2.人を含め、すべての存在、被造物はアッラーのものである

人が、自分の財産だと思い込み、所有していることになっている多くのものがある。少し考えればそれらの真の持ち主、支配者がアッラーであることは理解できる。そして所有権争いを放棄するであろう。

そう、口に入れたひとかけらの食物でさえ、真の持ち主は我々ではない。なぜならその食物が準備され、我々の食卓に上がるまでには広大な宇宙の存在が必要であるからである。つまり、我々にひとかけらの食物を与えられたお方は、全宇宙を創造する力を持たれた存在でしかあり得ないのだ。

すべてのものの持ち主がそのお方であられるのだから、その財産を使用する権利もその方にのみある。財産の持ち主はその財産を自由に利用でき、また、財産を自由に利用できるのはその持ち主のみなのだ。

人間のひどさの程度を見てほしい。仕立て屋が、モデルとして使っている人の体に合わせて布を裁断し、長くしたり小さくしたりすることは当然の権利と見ているのに、神にその権利があるのは行き過ぎと見なしているのである。

3.アッラーには無限の御名がある

すべての御名は、それぞれが顕示しているものの鏡となる存在を要している。たとえば、ラッザーク(糧を与えられるお方)という御名は、糧を必要としているものの存在を要している。シャーフィー(健康を与えられるお方)という御名は、病やその病に苦しむ者の存在を要する。

この顕示のあり方は、我々の側から見た意味を説明する際、「御名が救いに駆け寄られる」と表現する。アッラーは、ムジーブ(祈りに応えるお方)という御名により途方にくれている者の、カーブズ(支えられるお方)という御名で不注意にうつつを抜かしている者の、バースィド(広げられるお方)という御名によって苦しみに締め付けられている者の、援助に駆けつけられる。すべての御名を一つ一つ見ていき、この顕示のあり方が要する鏡的なものの存在とそれに関わる状態といったものを探求していけば、その時には社会生活における相違などと見なされているその様相の神意も見出すことができるであろう。

つまり、アッラーは、ご自身を無数の御名によって我々に知らしめられ、我々に崇高さと美を顕示される。バラのとげで、崇高であるお方という御名を顕示され、我々にその強さを感じさせられるように、バラのしなやかな葉で美という御名を顕示され、我々にその美しさを示される。一人の画家が、春と同じくらい冬にも重きを置き、美の観点から冬の真っ白な覆いにも価値を見出す。また森の風景で、色鮮やかな花の傍らで、一本の樹には蛇を絡ませる。小川や緑の傍らに岩も忘れない。同様に、アッラーも社会という構図を様々な御名の顕示という筆によって描かれ、それにまた異なる深遠さを加えられるのである。そもそも、誰がこのお方以上に見事にそれを成し遂げられるだろうか?

4.相対性が宇宙を支配している

微粒子から銀河まで、すべてにおいてプラスとマイナスの極という相対性を見ることができる。この宇宙における統一性と秩序も、そもそもこの相対性から生まれるものである。この摂理には人も従う必要があり、集団に統一がもたらされるのである。人々は互いに相対する状況を分け合わなければならない。一部は豊かに、一部は貧しい。一部は腹を満たし、一部は空腹を抱える。一部は病んでいて、一部は健康である。このような状態の存在が必要となっているのだ。宇宙を一つの極に集合することが不可能であるように、人々を同じ状態、同じ段階にすることも不可能である。外部から加えられる力は、この支配の均衡と統一性が保つ調和を破壊する。蛇やねずみであれ抹殺することは宇宙という書物に書かれた一文の意味を壊してしまうことなのであるから、その均衡に悪影響を与える。全員を豊かにしようとすること、あるいは全員を貧しくしようとすることは、全員を男にしようとすることや全員を女にしようとすることと、結果的にもたらされる影響において大差はない。

5.望まれる結果に到達する際、異なる過程で与えられる試練や試みの形及びその数は異なるものである

地獄から逃れること、天国へ行くことは容易なものではない。そこへ到達するためには一定の試練と、それぞれの程度に応じた勘定がなされる。この世界で死なない程度に何とか足りる程度に給料を得るために日夜を問わず働き、疲れ果てている人がいるなら、その困窮を天国での生を得るという見返りに対して、少なくともその給料を得るために負っている義務と同じくらいのものは、義務として負うべきであろう。つまり、社会生活で我々が目にするこういった相反する状態は、それぞれが各々異なった形で試練を受けているということの現われである。試練は皆に与えられるものであり、例外はないのだ。

6.この世は困難の場、あの世は報奨の場である

困難はこの世のものであり、報奨はあの世のものである。あの世では奉仕や訓練といったものがなく、だからすべての苦難はこの世で味わわされる。忍耐と共にこの世では試練を乗り越え、保障と幸福をあの世で手に入れるのだ。なぜならこの世はあの世と、あの世はこの世と、それぞれ相反する作用を持つ。霊は肉体と、肉体は霊と、相反する形で展開する。この世で欲求のままに生きる者は、あの世で、とても好ましいとはいえない生と遭遇する。この世で味わった困難、困窮などはすべて、あの世で与えられる褒賞を倍増させる要素を構成する。ある聖なるハディース(ハディース・クドゥスィー)[i]では、次のように言われている。「二つの安心と二つの恐れを同時に与えることはない」アッラーは、愛するしもべたちがあの世の分をこの世で消費してしまうことをよしとされない。だから彼らにそのような結末に至らないような生き方を恵まれるのである。さらには、強制される。この強制とは、恵みとしてのものである。

7.困難や災難は例外的なもので、人間の一生に比べればほんのわずかな一時期を占めているに過ぎない

人が、自分の生について二四時間きっちり分析してみるなら、そしてそれを自らの生涯全体にも当てはめてみるなら、生涯において比較できないほどの大きな部分を、完全な安らぎや恵み、豊かさの中ですごしたことが明らかになるだろう。これらの恵みが一般的であるが故に、今まで注意を向けていなかった部分にも目を向け、次のような問いを考えてみたい。「太陽は我々の財産か? 常に供給される光に対してこれまで光熱費を支払ったことはあったか? その熱に対してはどうか? 雨や、雲や、風や土が、我々のことを知らないままに行なってきた援助や奉仕についてこれまでにどれほどの費用を支払ったか? 年に何度、空気が切れる事態が発生したか? 太陽が昇らなかったことは今までにあったか? それから年に何日を病気のうちに過ごしたか?」

そう、健康のうちに楽しく過ごした日々、恵みを享受した日々と、病や困窮さのうちにすごした日の割合を分析すれば、以下のことに気がつくことができよう。すなわち、人が苦情として訴え続ける貧しさや、病や、障害や、災い、災難のうちにすごす時期というものは人生のうちでほんのわずかを占めているものに過ぎず、すべて一時的なものなのだ。しかもこの時期というのは、あの世に対して多くの報酬を獲得させ、この世から見てもほんのわずかな損失を出すに過ぎない。また、そういった一時的な状況に理由を見つけるのであれば、個人、家族、あるいは民族としての様々な物事の悪用、忘却、悪い習慣などもそこに入っているのだ。さらに、災難にも恵みとしての多くの側面があり、多くのものを得させる存在でもあるのだ。

世界の歴史において、平和のうちに過ぎた時期に比べると、戦争の時代というのは短いものである。同じように、地震の起こった時間をすべてまとめても、何世紀分集めても一時間にも満たないであろう。弓は曲がっていたとしても矢はまっすぐであり、的には的中する。

一つの絵を近くから見ると、その中には目を引く無意味で醜いとも形容できそうな影や暗い色があるが、その絵におけるきれいな部分と一緒に完全体として評価した場合、それらは不足や恥ずべきものではなく、意味深い均衡や美の中において役割を果たしていることがわかる。見る距離さえうまく調整すればいいのである。

8.公正さは、一つの均衡という意味を示す

荷物を運ぶ動物に負わせた荷袋がつりあっている場合、あるいは天秤の両方がつりあっている場合、辞書的な意味では公正であるとされる。

アッラーは公正さの持ち主であられ、均衡もまたその公正さの上に創られた。原子から銀河に至るまで、植物から動物まで、そして人間にも、すべての被造物に必要な程度、それにふさわしい仕組みが与えられている。与えられたものに対しては誰もその対価を払ってはいない。もし公正さが、得たものと同じくらいの対価を与えることであれば、バランスの取れた、お互いが同一の立場になることであれば、アッラーがあなたに与えられたものの対価を払ってみてほしい。

あらゆるものはすべてアッラーのものであり、我々のものであるものが何かあるだろうか? アッラーが無償で下さったものに対して、我々がお返しする事のできるものが何かあるだろうか? もしアッラーが「しもべよ、あなたの上にあり、あなたが人生でその効用を得たすべてのものを、あなたのものと私に帰属するものに分けてみなさい」とおっしゃられたなら、人の側には無しか残らないであろう。さらには無でさえ、所有権をみとめないであろう。だからそもそもの持ち主に、その財産を対価として支払うことはできない。無償で与えられたものに対して人ができる唯一のことは、感謝の義務を果たすことのみであろう。

一つの例が、ここでのテーマをうまく示している。貧しく、頼りになる者もなく、施しに頼るしかない三人を考えてみよう。富の持ち主が彼らの手を取って、三つの異なる入り口からミナレット(モスクにある尖塔)に上らせた。そこに上る際、階段の一段ごとに、彼らに様々なものを恵んだ。上るに従って恵みは増えていった。彼らの一人目への恵みはミナレットの最初のバルコニーで、二人目への恵みは二つ目のバルコニーでおしまいとされた。三人目はミナレットの一番上まで上がり、他の二人よりも多くの恵みを得た。

ここにおいて、この三人のうち一人目が他の二人を見て、二人目が三人目を見て、文句を言う権利があるだろうか? いや、どの人にも、文句をいう資格などすこしもない。彼らにできることは、彼らを一段一段、ミナレットの一定の高さまで上げてくださった人に感謝することである。

アッラーの恵みもこのような基準で価値を判断することができよう。そのお方は人を無から存在という階段に上げられ、人としての段階にまで高められた。これらを、ただ恵み、施しとして行われたのである。人ができることは、恵みのそれぞれの段階においてアッラーに対して感謝すること、恵みに対して感謝の気持ちをあふれさせることのみである。

人がもう少し思慮深くなれば、アッラーに文句を言うことのみならず、アッラーから何かを求めることからさえ、恥じるだろう。なぜなら、それまで与えられた恵みに感謝ができていないのに、新たにアッラーに要求を行なうことになるからである。

もし望むのであればそれは、アッラーの恵み深さへの我々の信仰から求めるべきであり、望むということも我々にアッラーが与えられたものからのものである。

9.物質面で人々を同じ段階にすることは不可能であると同時に、効果のないことである

貧しい者が過ごしている幸福な一日のために、すべての財産を投げ出してもかまわないと思っている多くの金持ちたちがいる。心の安らぎが得られす、自ら命を絶つ富裕層も多い。

ただしこれは、貧しさはいつでも心の安らぎをもたらすと言っているのではない。毎日を、とげを飲み込むような思いで過ごしている貧困層も多い。

ここから理解できることは、つまり、裕福であることは幸福をもたらす要因ではなく、同様に貧困のうちにあることも幸福をもたらすものではないということである。なぜなら人は単に胃腸のみでできているわけではないからである。胃に並んで、魂や、心や、感覚、感情、良心がある。そもそも人間を人間とし、他の創造物から区別しているものもこれらである。これらが満たされない限り、この世すべてが与えられたとしても、人は心の安らぎを得ることはない。これらはすべて、個人も社会も平安を得て、幸福に満たされるであろう地、永遠の住処への準備である。このはかない世界のためには、何を与えたとしてもそれらを幸福にすることはできない。

10.同等であるということ

金持ちから取って、貧しい者に与えることは、根本的な同等さはもたらさない。逆に、能力の喪失、勤労意欲の低下、生産の減少、そして愛情や敬意、従順、慈しみといった美しい感情の喪失をもたらすであろう。何も手にすることができないのであれば、あるいは手にしたものを取り上げられるのであれば、誰が働くであろうか? 共産主義の国々は地域において個人の財産が取り入れられるようになり、制度の礎石を自ら砕くことになったのもまさにこのためである。

富裕層の富を無理やり取り上げることは解決策ではない。人の心を、収益を得て人に与えるべく備えさせること、そうやって彼に人間としての感情を獲得させることが、解決策なのではないか。

商業上の倫理を守り、正しい道において財産の持ち主となった人の手から資産を奪って、コーヒー屋でおしゃべりをして時間をつぶしているだけの怠惰な人間に与えることは、果たして公正であろうか? このような処置は集団の一部に苦痛を与え、別の一部を他人にたよる寄生虫のような状態にしはしないだろうか? そのような公正さを提案する者は、財産が無理やり剥奪されてしまった人々と、寄生虫のようになった貧困層の間に発生するであろう憎しみや敵意をどのように取り除くつもりなのであろうか? 答えのないこれらの問いの影に、人間が作り出したシステムの破綻がある。人は神のシステムによってのみ救われるのである。

イスラームは、アッラーへの畏怖をもとに、資本にも、労働にも必要な価値を置いている。富が、金持ちたちの間を行き来する「国家」のようである状態から、喜捨を橋渡しにして貧困層を養う蛇口、樋のようである状態にし、富の流れを確保しているのだ。同時にイスラームは、一方で利子や、闇市といった宗教上承認されていないものによって貧者が苦しむことを防ぎつつ、他方で「あなたが働かせている人の賃金を、その額の汗が乾く前に与えなさい」とも命じている。そう、イスラームは一方で予防線を張り、もう一方で、わらの寝床で生涯を過ごされた預言者の振る舞いを例として、貧しさというものがあの世という観点ではどのようなものなのかも教えている。これによって、上部には慈しみと憐れみ、下の者にも敬意と従順といったものが存在する集団が構成され、社会は安らぎを手に入れたのである。イスラームの歴史はこのような感情、思考、そして知能と心を魅了する神の規則が実行に移されるという過程の、最高の鏡でもあるのだ。

それをこの観点から見て、生かすことができれば、今日の人々に多くのものを獲得させ、社会の停滞を解消させるという道においても、人の手を取って導く存在になると私は信じる。

豊かさ、あるいは貧しさのうち一つが選択されることは、その人の精神世界に関わりを持つものである。その目を地平線のかなたに向け、偉大な理想を抱き、人を人の段階に高めるべく奮闘している人を、彼にとっては監獄のようである裕福さという牢に押し込むことはできない。個人という規模においてこのようであると同様、社会という規模においても、国家が力強くあるために必要な条件が備えられるということは、欠かすことのできないものである。イスラームはこの均衡によって人々を抱きとめる。当然、それがもたらした原則に従っている限り、その均衡は守られてきた。

心の王である預言者にとって、この世は、あの世と比べて一つの陰、木の下での一休み、一つの楽しみ、遊び、そしてアッラーの観点からはハエの羽ほどの価値もないものである。しかし同時にこの世は、別の面で価値を見るならば、アッラーの御名が掲げられるであろう偉大な地へ到達するための最も重要な手段でもある。この手段を適切に利用し、信者は、この世における国家間において均衡を保つ要素となり、外交上の関わりにおいても重きが置かれるような存在になるだろう。最終的には市場も信者たちが支配できるだろう。この最良の例もまた預言者において見ることができる。マディーナを訪問されてまもなく、マディーナの市場は信者たちのものとなった。強制などがあったわけでもないのにも関わらず、ユダヤ教徒たちは市場を引き払わざるを得なくなったのであった。

第二代カリフのウマルは、戦いに参加する馬以外にも、様々な場所で何千頭もの馬を飼育していた。第三代カリフのオスマンも、何千頭ものらくだを、積荷と共に寄付することができるほど裕福であり、かつ気前のよい人であった。この二人には共通の点があり、それは二人とも質素な生活をしていたということであった。わずかな、乾いたパンを食べ、砂の上に寝ていた。そして民衆と共に暮らしていた。これらは強制されて得られる結果ではない。イスラームが獲得させた精神である。だからこそ彼らのような人物が育てられ、社会に奉仕するようになったのだ。

人間の構成のあり方がもし何よりも重大な問題なのであれば、そしてその問題を掲げて古臭い思想を支えていこうと試みる人々がうそを言っていないのであれば、共にこの問題に解決策を探してみよう。14世紀前に見つけられていた解決策について新たに検討してみよう。人を高めることのできる唯一の手段は、この神聖なる処方を実行に移すことのみである。他の手段を求めようとすることは、病を悪化させるのみである。

11.災いや災難の様々な効果

ここでの問いにおける、災いや災難に関する面を、これまでに述べてきたことに一つ付け加えることによって完成させてみよう。

災い、苦難、病、障害は、そのわずかな一部は害であったとしても、それらのもたらす結果を考えるならば、この上なく有益なものであると言える。なぜなら、我々は時々しつけのために子供の耳を引っ張る。体を助けるために壊疽状態に陥った指を切断する。必要となれば蛇の毒から薬も作る。これらに対して異を唱える人はないだろう。なぜなら、もたらされるであろう大きな益のためには小さな害をこうむることはよしとされているからである。

鷹のような鳥は、すずめの逃げる能力を向上させる。しかし一見、すずめを怖がらせ、おびえさせているようである。時には、雨や、電気や、火によって害を受ける者がいる。しかし全般的な効用があるゆえに、誰も雨や電気や火を呪ったりはしない。断食も、一見体にとって苦痛であることは認められる。しかし断食は、体に強さと活力を与えるものであるのだ。兵士たちにとっての軍事教練も同じようなものといえよう。

ここで我々の魂について考えてみる。それもまた、病や困難によって純粋化され、透明化され、結果として天国にふさわしい存在になるのではないか。この結果というのは、軽視されるべきものではないものである。

わずかなものを得られ、多くのものを与えられることは、アッラーの崇高さによるものである。アッラーは、必要であれば我々の目や足を取られ、その代わりに殉教というものを与えられるのだ。我々の財産を取り去られ、あの世で豊かな恵みによって報償を与えられる。忍耐を強い、その見返りに無限の善行を恵まれるのである。

病や災難、苦難に耐えること、我慢することは、宗教的実践の消極的な範囲だとされる。そう、これらによっても人は、善行を得るのである。これらには、偽善であるという恐れはない。なぜなら誰も、見かけのために病気になろうとはしないからである。

災難や苦難は、人の段階をも高めるものでもある。高い山に登ると酸素が薄くなり、人の胸は苦しくなる。雪や、嵐や、暴風は、どこよりも多く、高山の山頂で見られる。だから、最も厳しい苦難は、預言者たちや聖人たちのような崇高な栄誉をもつ人たちが受けてきた。崇高さに道が開かれていた人たちも、この形で頂点を極めていったのである。

災難や苦難は、人々に恵みの価値を教えるものであり、感謝の道をも開く。空腹はパンを価値あるものとする。断食明けの食事の際は一杯の水がどれほどおいしいことか。病人は健康の価値をよりよく理解して感謝する。同様に、何かの器官が欠損した人は、それ以外の器官の価値を理解する上で、他人よりも近い道をいくことになる。

人は、我欲や悪魔といった敵に対して常に警告を受ける必要がある。そう、災難や苦難は人のためにこの任務を果たす。人を、罪に対して警告し、守るのである。他人の田畑に入ろうとしている羊に対して、慈しみ深い羊飼いが投げる警告の石こそが、信者にとっての災難や苦難なのだ。お金を持ち、健康である人が罪を犯すことはより容易である。しかし貧困や病は彼をそのような堕落から守る。さらには、病を得たり、災難にあった受難者が、自分の無力さを理解し、おごりやうぬぼれといった病状から救われる要因ともなりえる病や災難は、その人にとって特効薬の価値を持つ。中には、苦難のみがその償いとなりえる罪もある。そう、風が木から葉を散らすように、多くの災難や苦難は人から罪を払い落とし、清らかな状態にする。清らかな地である天国には、ただこのような清らかな者のみが入るのである。

問題をもう少し特定して語るならば、一つの集団が成熟する過程で直面する災難や苦難が果たす役割はとても大きいものであり、同様に貴重なものでもある。教えを伝える奉仕を担う、見返りを求めない献身的な魂を、未熟で利己的な者たちから区別するために、アッラーは様々な試練によって伝道を行なう人々を激しく揺すぶられ、ふるいにかけられる。純粋で清らかな者を、それ以外の者から区別するためである。途中でこぼれ落ちてしまう弱い性質であれば、最初からこぼれ落ちるようにと。将来、重要な局面で破滅を迎えることのないようにと。

災難や苦難は、時には全般的なものとなる。このような災難は、罪のない者たちをも道連れにする。なぜなら試練の神秘とは、こういうあり方を必要とするからである。罪のない者はあの世において、その意志にふさわしく復活する。そうでない者も同様である。

あらゆる事項にも関わらず、災難や苦難というものは望まれるものではない。ただ、それが訪れた時に、忍耐され、こらえられるべきものなのである。「あなたの恵みもすばらしい。あなたの罰もすばらしい」といえるということはまた別の段階の話である。

実行される罪や反抗は、災難や苦難へ招待状を送るようなものである。過去、多くの民族の滅亡の原因となったのも、彼らが犯した罪である。この種の災難や苦難に対して防護の役割を果たすのは、自らの罪に対して泣くように他人の罪に対しても涙を流すことのできる、真の魂の細やかさを持つ、心の勇者たちである。

[i] 訳者注 アッラーの言葉そのものであるクルアーンや、預言者ムハンマドの言行録ハディースに対して、聖なるハディース(真正ハディース、ハディース・クドスイー)は、アッラーの意図するところを預言者ムハンマドの口を通して一人称で語ったハディースの一種である。

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