ムハーサバ(自己批判・自問)

アル=フトゥハッタ・ル=マッキーヤ(メッカ征服)の著者ムフヤ・ル=ディン・イブン・アル=アラビは次のように記録しています。イスラームの初期において信仰の深い人々は毎日自分の行ったこと、考えたこと、言ったことを書き留めるか覚えておき、自分自身の犯してしまった罪や悪いことを分析し自己批判をしていました。彼らは自惚れの嵐やプライドの渦から自分自身を守るためにそれを行っていました。自己分析をした後にはアッラーに許しを請い深く悔悟して、それから先の誤りや逸脱から身を守ろうとしたのです。そして、彼らはアッラーが彼らを通して造り出された良い行いや言葉についてアッラーに感謝しひれ伏したのです。

また自己批判は自分の内面や精神の深さを探し求め見つけるということや、本当の人間としての価値観を得るため、またその価値観を強め育てる心情を得るために必要な精神的知性的努力をするということだとも説明されます。このようにして良いことと悪いことや有益なものと有害なものを区別したり正しい心を維持します。その上、そうすることによってその人は現在を評価し未来に備えることができるようになるのです。繰り返しになりますが、自分自身の内面世界が定期的に刷新されることになるので、自己批判することによって人は過去に犯してしまった過ちを修正し、アッラーに許されるのです。このように人はアッラーとの関係を強いものとしていくのですが、それはアッラーとの関係がその人が精神世界を生きる力と自分自身の内面世界に起こることを自覚し続ける力に依るものだからです。それに成功すると、内面の感覚や感情の絶え間ない再生産と同様に、本当の人間としての神聖な性質の維持ができるようになります。

信仰する者は、精神世界においても日常生活においても、自己批判に無関心でいることはできません。彼らは自分たちの荒れ果てた過去をアッラーから吹いて来る希望と慈悲というそよ風によって甦らせようとします。それはアッラーからの呼びかけで、世界の彼方からやって来て彼らの良心の中でこだまするのです。『悔悟してアッラーに返れ(聖クルアーン 24 章 31 節)』『主に悔悟して帰りなさい(聖クルアーン 39 章 54 節)』その一方で、落雷のように恐ろしく、慈悲と同じように興奮させられるような警告が次のような節には含まれています。『あなたがた信仰する者よ、アッラーを畏れなさい。明日のために何をしたか、それぞれ考えなさい(聖クルアーン 59 章 18 節)』これによって彼らは(新たに罪を犯してしまうことに対して)警戒するようになるのです。このような状況においては人は、あらゆる種類の悪からまるで鍵を閉めたドアの後ろに囲まれているかのように守られるのです。人生の一瞬一瞬を春の発芽の時のように過ごすことで、人は信仰から生まれる洞察や意識をもって自分の精神や心をより一層深めようとします。たとえ時に自分自身の世俗的な一面に引っ張られよろめくことがあったとしても、彼らは次の節で述べられているように常に用心深くあるのです。『本当に主を畏れる者は、悪魔がかれらを悩ますとき、(アッラーを)念ずればたちどころに(真理に)眼が開くだろう(聖クルアーン 7 章 201 節)』

自己批判は自分の良心の中でランプや警告者、またよきアドバイザーのようなものです。すべての信仰する者はこれによって、良いことと悪いこと、美しいものと醜いもの、そしてアッラーがお喜びになることとお怒りになることを区別します。このよきアドバイザーに導かれて、人は一見不可能にも見える障害を克服し、目的地に到達するのです。

自己批判によってアッラーに慈悲と好意を与えられ、人は信仰とアッラーの僕であることを深めることや、イスラームを実践すること、そしてアッラーに近付き永遠の幸福を得ることなどができるようになります。また、自己批判をすることによって絶望の淵に落ちてしまうこともなくなり、個人の崇拝行為によってあの世でアッラーの罰から救われるということに対する信頼へと最終的に導かれるのです。

自己批判は精神的平安と平穏へのドアを開けると同時に、アッラーとアッラーの罰に対する恐れももたらします。常に自分自身を批判し自分の行為の責任を問うている人々の心の中では、預言者の警告が常に響いています。「もしあなた方が私の知っていることを知ったら、あなた方はほとんど笑うことはなく非常に嘆き悲しんでいるだろう」(ブハーリ 集、ムスリム 集)自己批判は心に平安と恐怖の両方をもたらし、自分の責任の重さを十分に気付いている人たちの心を常に不安にかき立てます。彼らの不安は次のように述べられているようなものです。「もし私が細かく砕かれた1本の木であったなら」(ティルミディー 集、イブヌ マージャー 集)自己批判は信仰する者を常に悩ませ緊張させますが、それは次のように表現されています。『大地はこのように広いものだがかれらには狭く感じられ、またその魂も自分を(内面から)狭めるようになった(聖クルアーン 9 章 118 節)』また、『あなたがた自身の中にあるものを、現してもまた隠しても、アッラーはそれとあなたがたを清算しておられる(聖クルアーン 2 章 284 節)』という節は彼らの頭の細胞一つ一つの中で鳴り響き、彼らは次のような言葉に表されるように苦しみます。「母が私を産まなければよかったのに」

このようなレベルの自己批判を達成することは誰にとっても難しいことですが、今日は昨日よりも良い生き方を、明日は今日よりも良い生き方をすることを確実にすることも、自己批判をしない人にとっては難しいことです。時間という車輪に潰されてしまった人は、今日を昨日よりも良い日にすることができず、あの世のために自分がすべきことを実践できないのです。

常に自己批判や自己叱責をすることはその人の信仰の完璧さを示しています。自分の人生を完璧で万能な人間という地平線に到達するために過ごそうと決めている人は皆、この人生を自覚しすべての瞬間を自分自身と闘うのです。このような人々は自分の心や頭に浮かんだことすべてにパスワードやビザといった許可を求めます。シャイターンの誘惑や一時的な興奮に対するセルフコントロールが実践されていて、言葉も行いも注意深く監視されているのです。自己批判は不断のもので、それは最も分別があり欠点のないように見える人々にとっても同様です。夜に一日の言葉や行いを振り返ることと、朝に罪を犯さない決意をすることが基本です。信仰する者は自己批判や自己叱責という「糸」で「人生というレース」を編むのです。

信仰する者がアッラーに対する誠意と忠誠を示しこのような謙虚な態度で生き続ける限り、天国へのドアは開け放たれ招待は広げられるでしょう。『来なさい、誠実な者よ。あなたはわれら(アッラー)と親しい。これは深い関係だ。われら(アッラー)はあなたを誠実な者だと認める』彼らは毎日新しいアッラーへの精神の旅の栄誉を授けられます。このような純粋な魂について誓っておられるのはアッラーご自身なのです。『また、自責する魂において誓う(聖クルアーン 75 章 2 節)』

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