崇拝行為としもべとしてのあり方という観点からの預言者ムハンマド

このお方の崇拝行為のあり方を見る者は皆、このお方が生涯を通じて他に一切何もせず、ただひたすらそれのみを行なわれたかのように錯覚する。それほど深い形で行なっておられたのである。すべての美点において、このお方はそのようであられた。どの分野なら誰かがそのお方に追いつけたというのであろうか。どの分野であれ、誰であれ、このお方を超えることは不可能だったのである。

預言者ムハンマドはその礼拝において、しもべであるということをそれほど深く具現されておられた。ほとんどの礼拝で、このお方は畏れのために泣かれたと言えるほどである。教友たちは、礼拝中預言者ムハンマドの心臓が粉挽きの石のような音を立てていたことを伝えている[1]。預言者ムハンマドの中の苦しみや、しもべとしての重い責任はこのお方を煮えたぎる釜のようにした。この状態は、預言者ムハンマドが最も高められた段階で、しもべとしての任務を遂行されようとする努力からもたらされたものである。

礼拝は預言者ムハンマドにとって歓喜のうちに求められる存在だった。他のどのようなものでさえ、礼拝ほどの喜びを預言者ムハンマドにもたらすことはなかった。ある時このように言われたのも、それが故である。「私は三つのものを愛するようにされた。女性と、芳香と、礼拝。礼拝は私にとってかけがえのないものである。[2]」

女性という存在は、男性が関心を持つ何よりも重要な要素である。聖アーダムが創造された時に、その感情と共に創造されたのだ。この感情の延長線にあるものが性欲である。性欲とは、子孫の維持のために与えられているものである。そのような感情がなかったとしたら、誰も子孫を残すことを考えはしなかったであろう。重い労働ともいうことのできる責任を負うことになるからである。単に子供への愛情だけでは子孫の持続には不十分であろう。だからこそアッラーは、男性が女性に、女性が男性に関心を持つよう性欲を創造された。人の創造の時から与えられているこの感情を乗り越えることは可能ではない。もしそれが可能であったなら聖アーダムが最初にそうしていたことであろう。

預言者ムハンマドも、この与えられた性質について述べられ「私は女性を愛するようにされた」と言っておられるのである。このお方は、その性質によって自然のあり方と一致していることを熟知しておられる預言者だった。預言者ムハンマドがもたらされたこの教えには、修道士、僧侶といったものはない。自らを完全に崇拝行為に捧げ、全ての時間をアッラーへの奉仕に使おうと努める人たちに、預言者ムハンマドはこのようにおっしゃられた。「アッラーについて最も熟知しているのは私だ。アッラーを最も畏れているのも私だ。私は崇拝行為も行なうが、女性と共に過ごしもする。夜休むこともあるし、夜中崇拝行為をすることもある。断食もすれば、食事もとる。これが私の道である。誰であれ私の道から顔を背ける者がいれば、それは私の仲間ではない」[3]

預言者ムハンマドは完全にバランスのとれた方であった。客観的な原則をももたらされた。このお方のもたらされた教えは、実行が容易なものである。誰もが容易に実践し、適用することのできるシステムである。預言者ムハンマドは、単に一部の集団を招くために使わされたのではないのだ。全ての人々のために遣わされたのであり、そのメッセージも全ての人々のためのものである。

芳香について言うなら、研ぎ澄まされた精神は芳香を好む。預言者ムハンマドはその精神のあり方において実に洗練され、また肉体的な面でも細やかさの持ち主であられた。精神と同等の細やかさだった。霊的、というものと、精神的、というものとは別個の存在である。その二つを手にしている人は、同時に清らかな自我の持ち主でもある。そこには預言者のみが到達することができる。その頂点におられるのも、やはり預言者ムハンマドである。

そのお方の肉体は、昇天(ミーラージュ)においてさえ、その精神と競うことを放棄しなかった。魂が到ることのできた段階まで、肉体も行動を共にしたのだ。

私はここで、昇天に関して今まで行なわれてきた議論を再燃させるつもりはない。多くの学者たちの見方は、昇天において預言者ムハンマドは魂と共に肉体も飛翔したとなっている[4]。このお方の肉体は霊的状態と輝かしさを獲得していたのであり、魂がどこに行こうと、肉体もそこに触れ、そこを見たのである。他の者は、精神や夢において昇天を行なうことができ得る。しかし、魂と肉体が共に昇天を行えるのは預言者ムハンマドのみである。昇天の長、司令官もまた、預言者ムハンマドなのだ。

芳香は天使たちや霊的存在たちの糧でもある。預言者ムハンマドは、精神的にも、肉体的にも彼らと結びつきがあった。だからこそ、芳香を非常に好まれたのだ。芳香はこのお方に安らぎをもたらされるものであったのである。

このように預言者ムハンマドは「私は女性と芳香を好むようにされた」と言われる時、精神と肉体が要するものを、まとめて説明されているのだ。

ただ、この二つに関しては人間としてのあり方によるものであり、他の者も預言者に賛同することができる。つまり、女性や芳香を好むことは預言者ムハンマドのみに特有のことではない。アッラーが人に与えられた感情によって、それらは好まれるものなのだ。この特徴は多かれ少なかれ誰にでもある。

三つめの事項に関しては、少々掘り下げる必要がある。なぜなら預言者ムハンマドは「礼拝は私の目の輝きであり、愛情の対象であり、欲である」と言われておられるのだ。

私たちのうち誰かに、その最も愛する人が来たことを伝えれば、その人は非常に喜び、我を忘れるだろう。預言者ムハンマドも礼拝に向かわれる際に、私たちが感じる喜びの何百倍もの喜びと興奮を感じられておられた。

例えば、預言者ムハンマドが長い期間娘のファーティマに会うことができず、その後「ファーティマが来られました」と知らせがもたらされたとして、その時、預言者ムハンマドの感じる喜び、幸福はどれほどのものだろうか。しかし、礼拝の時間が来たことを告げる声を聞いたとき、預言者ムハンマドはさらにもっと喜ばれ、幸福を感じられたのだ。なぜなら礼拝は預言者ムハンマドが愛されるものであり、かけがえのないものであったのである。

このハディースを支持する別のハディースで、預言者ムハンマドは次のようにおっしゃられている。「アッラーは全ての預言者に、希望や欲望を与えられた。私の欲望とは、夜礼拝することである」[5]

このハディースの意味はこうである。「あなた方は肉体的な各種の快楽を追及する。その快楽からもたらされるシグナルはあなた方を虜にし、魅惑する。あなた方はその快楽にはまる。私は良心からもたらさせる「起きなさい、礼拝の時間です」と言う声を聞いて、それの虜になる。我を忘れるほどとなり、礼拝をせずにはいられなくなるのだ。夜礼拝できなかったり、夜起きられなかったことに気づいた瞬間というのが私にとっては何よりも悲しいものである。私にとって何よりも快適で幸福な時とは、礼拝をしている時である」

預言者ムハンマドの、しもべであること、アッラーとの間に存在する結びつき、同時にアッラーの唯一性に関する公告は非常に深みのあるものである。これまで誰もその深さには到ることができなかった。ここで述べたハディースはその明確な例である。

預言者の奥様アーイシャが語っている。

「ある晩目を覚ますと、預言者の姿が見えなかった。私はもしかして他の奥様のところに行かれたのかもしれないと思いついた。手を伸ばしてあたりを探ってみた。それで、預言者が礼拝をされているのだと理解できたのだ。頭を床につけておられた。耳を澄ますと、泣いておられるのが聞こえ、またこう言われているのも聞き取ることができた。「アッラーよ。あなたの懲罰から、あなたのご満悦へ助けを乞い願います。懲罰より、許しへ助けを乞い求めます。アッラーよ。他の誰でもなく、あなた自身から、あなた自身へ助けを乞い願います。(その偉大さからその美へ、その罰からその恵みへ、その崇高さと威厳から慈悲と慈愛に)あなたが人を賞賛されるのと同じほど、あなたをたたえる力が私にはないことを白状いたします」[6]「あなたへの賞賛、賛辞は偉大なものです。あなたの軍は倒されることはありません。あなたは約束されたことで約束をたがえられない。あなたの他に神はなく、あなた以外に拝まれるべき存在もありません」[7]

そう、預言者ムハンマドの礼拝への向き合い方は、まさに熱望を伴うものである。ここでアブー・ザッルの言葉を参考にしてみよう。

「ある晩、預言者ムハンマドは朝まで礼拝されておられた。読まれているクルアーンの節の中でお祈りの意味をなす節を何度も繰り返されるアッラーの使徒は、礼拝を敬意と畏怖と崇拝行為のモザイクとされた。ナーフィラ(義務ではなく希望による行為)の礼拝において、サジダ(平伏叩頭)でも、ルクーウ(立礼)でも、キヤーム(直立)でも、各種のお祈りを読まれた」[8]

預言者ムハンマドは礼拝で十分だと感じられることはなかった。十分、というような段階には決して到られなかったのだ。

イブン・マスウードの声を聞いてみよう。(イブン・マスウードはクーファ市の誇りであり、幸運な教友であった。ハナーフィ派は、彼によるところが多い。教友たちは彼を預言者ムハンマドのご家族の一員かと思ったりもした。彼は預言者ムハンマドの家に、わざわざ呼ばれなくとも出入りしていたのだ[9]。預言者ムハンマドは彼にクルアーンを読ませられ、それを聞かれ「クルアーンを、啓示されたとおりに聞きたい者がいれば、ウンミ・アブド(イブン・マスウード)に聞くがよい[10]」と言われた。聖ウマルは、彼をクーファに遣わす際、その悲しみをこのように表現している。「クーファの人々よ。もし、あなた方を私の希望より優先させなかったとしたら、アブドッラー・ビン・マスウードを決して遠くに送ったりはしなかったであろう。[11]」彼は背が低く、細い足をしていた[12]。しかし彼は知識の宝庫であり、もっと正確に表現するなら知識の大海であった。

イブン・マスウードは語る。「ある日、預言者と共に夜の礼拝をしようと決心した。夜を預言者と共に過ごし、そのお方が行われる崇拝行為を私も実践するつもりだった。預言者は礼拝を始められ、私も始めた。しかし待てど暮らせどルクーウ(立体)に移られないのだ。預言者はバカラ章を唱え終えられた。これでルクーウだ、と私は思った。しかし預言者ムハンマドは続けられた。イムラーン家章を、それから婦人章を唱えられた(合計で105ページ)。それから、ルクーウをされたのである。礼拝をして私は非常に疲れてしまい、一時的に悪い考えが思い浮かんだ。」

この悪い考えとは何であろうか。預言者スライマーンのように、預言者ムハンマドが礼拝に立たれたまま亡くなられたと錯覚したことが考えられる。この話を聞いていた一人が、何を考えたのか尋ねた。イブン・マスウードは答えた「礼拝を中断して預言者ムハンマドをその場に残そうかと思ったのだ」[13]

アブドゥッラー・ビン・アムルも、次のハディースを伝えている。

「ある晩預言者ムハンマドの後ろで礼拝を始めた。このお方はひっきりなしに次の節を唱え、泣いておられた。『主よ、彼らは人々の多くを迷わせました。私(の道)に従う者は、本当に私の身内であります。私に従わない者(に関しては)あなたは度々御許しなされる方、慈悲深い方であられます』(イブラーヒーム章14/36)」

同じように、悲しみに満ちたある時期のことであった。預言者ムハンマドは泣いておられた。止むことなく泣いておられた。天使ジブリール(ガブリエル)が訪れた。アッラーからの挨拶を預言者ムハンマドに伝えた。そしてアッラーは「ムハンマドはなぜ泣いているのか?」と尋ねられた。

そもそもアッラーは誰も知らないことを全てご存知のお方である。その英知は全てを包括する。誰であれ、アッラーの英知、力、支配に包括されていないということはあり得ない。しかしそれでもなお尋ねておられる。その意味は証言させられることかもしれないし、その例を広く知らしめるためかもしれない。

預言者ムハンマドは、泣いておられたため返事ができずにおられた。ただその口元からは次の言葉がもれた。「私のウンマ(共同体)、私のウンマ」そのお方の苦しみは明らかであった。ウンマである。ジブリールはその様子を報告した。アッラーは再度挨拶を送られ、次の言葉によって励まされた。「わたしの愛する人の元に行き、(挨拶を伝え)、言え。『あなたのウンマに関してあなたに満足し、あなたを決して悲しみのうちに残しはしない』」[14]

預言者ムハンマドは生涯をしもべとして生きることで貫かれた。礼拝はそのお方が愛されるかけがえのない存在だった。昼夜を問わず礼拝を行われ、常にそのように生きられた。人は、どのように生きたのであれ、そのように世を去る[15]ということをも、この方が語られたのではなかっただろうか。全てのはかない存在と同様、預言者ムハンマドも世を去られるはずだった。しかしそのお方は、礼拝をしつつ生きられ、また礼拝と言いつつ世を去られることになっていたのである。

それは預言者ムハンマドの最期の日々であった。その目を開けるだけの力さえ、もはや残されていなかった。頭に冷水をかけられて何とか目を開けられ、言葉を発するだけの力がある時は「モスクに集まった人々は礼拝をしたか?」とお尋ねになった。しかしこれだけのことでさえ、このお方の力は尽き果て、再び意識を失われるのであった。冷水をかけられて再び目を覚まされると、また同じことをお尋ねになった。「モスクに集まった人々は礼拝をしたか?」

人々は何時間も預言者ムハンマドを待っていた。皆の目はその家の扉に釘付けになっていた。いつになったら覆いがあけられ、礼拝所にまた太陽が訪れるのか、それを待っていたのである。多くの人は、もはや太陽が沈みかけていることに気が付いていた。しかしそれを絶対に信じたくなかった。預言者ムハンマドは、もはや礼拝する力もないとわかると「アブー・バクルに告げなさい、彼が礼拝を導くように」と言われた。やや調子がよくなった時、そのお方は礼拝所に行かれた。片側から叔父のアッバースが、もう片側からもいとこで娘婿の聖アリーがお支えし、足を引きずるようにして礼拝所まで来られた。その様子からは礼拝の価値、礼拝の魅力が伝わってきた。こうして礼拝所に来られることができたのは二度だけだった。一度めには預言者ムハンマドが礼拝を導かれ、アブー・バクルが後ろの者たちにそのお声を伝えた[16]。二度めにはアブー・バクルは礼拝を導き、預言者は後ろで、そして座られたまま礼拝をなされた[17]。集団に御自身の後に指導者となる人物を示されているようだった。

もう一度、預言者ムハンマドは礼拝によって集団と一体になられた。最期の瞬間まで、人々のことを放って置かれなかった。足を引きずられながらも礼拝所に来られ、共に礼拝を行われたのである。

ハンバル派の祖イマーム・ハンバルによると、礼拝時の集団は皆にとって絶対的な義務である[18]。なぜならアッラーは「立礼(ルクーウ)に勤しむ者たちと共に立礼しなさい」(雌牛章2/43)とおっしゃられておられる。一部のイスラーム宗派の学者は、集団であることを礼拝の成立条件とする。集団でない礼拝は、彼らの見解では礼拝ではない[19]。シャーフィー派の祖イマーム・シャーフィーによると、集団であることは条件によっては義務である[20]。ハナーフィー派によれば、それは価値の高い預言者の慣行である[21]。一部のイスラーム宗派の学者は、それを義務ではないが推奨されるとしている。[22]

ここではこのテーマを深く掘り下げることはしない。ただ、思い起こしてほしい事項として触れたのみである。本来のテーマは預言者ムハンマドがしもべとしての行為で示された注意深さと礼拝における深さである。

普通の人でさえ、特に意識もせず礼拝したとしても、それは彼を醜悪さから遠ざけるものとなる。しかしここでの礼拝は、預言者ムハンマドが行なわれているのだ。そのお方をなぜ、罪のうちに取り残すことがあり得ようか。決してあり得ないことである。

預言者ムハンマドの礼拝を妻アーイシャは「キヤーマがどのようなものだったか...。ルクーウがどのようなものだったか...。サジダがどのようなものだったか...」と語り[23]、その礼拝の素晴らしさを説明しようと努めた。

アッラーの存在を証明するものが他になかったとしても、預言者ムハンマドが行われた礼拝がその証拠として十分である。なぜなら預言者ムハンマドは、全ての礼拝においてまさにアッラーを具現しているかのようであられたのだ。このような礼拝をされたお方が罪に傾斜することがあり得ようか。

預言者ムハンマドの崇拝行為は、一つの完全体を示していた。礼拝をこのような完全な形でされると同時に、他の崇拝行為も、例えば断食なども忘れられることはなかった。週に一、二日を必ず断食に当てられ、しかも時によっては非常に長い間断食を続けられた。全くイフタール(断食明けの食事)を採られることないようだと人々が思うほどだった[24]。時には、他の人と同様に留められ、イフタールをされた。ただ、断食をしている期間は他の誰よりも長かった[25]。

預言者ムハンマドは時折、断食明けの食事をとられることなく、数日連続して断食を行われたのだ。教友も同じようにしようと試みるがそれは非常に困難なことだった。一度、ラマダーン月の終盤に、預言者ムハンマドはイフタールなしの断食を決意された。教友たちも同じように決意した。しかし断食が数日も続くと、皆体力を失ってしまった。ラマダーン月明けの大祭の日が来て、皆は喜んだ。もしあと一日断食が延びていたら皆ダウンしていただろう。預言者ムハンマドは彼らのそんな様子を見て、微笑まれつつ言われた。「もし大祭の来るのが一日遅れていたとしたら、私は断食を続けていただろう」それから、ご本人の力がなし得る崇拝行為に、彼らの力は及ばないことを語られた。「なぜならアッラーは、あなた方の理解できない形で私に飲食をさせられているのだ。[26]」

特に、ラマダーン月の終盤には、預言者ムハンマドは全ての時を崇拝行為のために費やされた[27]。この時期には、横になられることすらないかのようであった。

真夏の苛烈な暑さの中でも預言者ムハンマドは断食をされた。戦いの最中でも、多くの場合断食をされた。時には戦いは熾烈なものとなり、アブドッラー・ビン・ラバーハの他にはこのお方と共に断食をする者がないという状態になった[28]。

預言者ムハンマドは「断食は人を罪から守るよろいである[29]」と言われている。最も堅固なよろいを身に付け着られ、自らを守っておられたのもまた、このお方御自身であられた。

 


[1] Nasa'i, Sahw 17; Ibn Maja, Muqaddimah
[2] Nasa'i, Ishrah an-Nisa 1; Musnad 3/129, 199,285
[3] Bukhari, Niqah 1; Muslim Siyam 73
[4] Ibn Kathir, al-Bidayah 3/140と他
[5] Majma' al-Zawa'id 2/271
[6] Muslim, Salah 222; Abu Dawud, Salah 148, Vitr 5
[7] Tirmidhi, Daawah 91
[8] Musnad 5/149
[9] Buhari, Fada'il al-Sahabah 27; Muslim, Fada'il al-Sahabah 110-111
[10] Buhari, Fada'il al-Sahabah 27; Muslim, Fada'il al-Sahabah 116-117; Musnad 1/26
[11] Ib'n Sa'd, Tabaqah 3/157
[12] Musnad 1/320-321
[13] Buhari, Tahajjud 9; Muslim, Musafirun 204; Musnad 1/385-396
[14] Muslim, Iman 346
[15] Muslim, Janna 83
[16] Buhari, Azan 51; Muslim, Salah 90-97
[17] Ibn Kathir, al-Bidayah 5/254-255
[18] Al-Jaziri, Mazahib 1/405
[19] Al-Jaziri, Umda 5/161-162
[20] Al-Jaziri Mazahib 1/407
[21] Marginani, al-Hidayah 1/55
[22] Ibn Humam, Fath'ul-Kadir 1/300
[23] Buhari, Tahaccud 16; Muslim, Musafirin 125
[24] Abu Dawud, Sawm 53; Tirmidhi, Sawm 43, Musnad 2/91
[25] Buhari, Sawm 53; Muslim, Siyam 178
[26] Buhari, Sawm 49; Muslim, Sawm 59
[27] Buhari, Laylatu'l Kadr 5; Muslim I'tikaf 7
[28] Muslim, Siyam 108-109
[29] Buhari,Sawm 2; Tawhid 35; Muslim, Siyam 162-163

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