年表
1941年 | 出生地 住民登録によるとフェトゥフッラー・ギュレン氏は1941年4月27日、エルズルムのハサンカレ(パシンレル)にあるコルジュク村に生まれる。; |
1946年 | 小学校入学 |
1949年 | 小学校での日々と中断された教育 父親が1949年にアルワル村でイマームになり家族でそこへ移住したため小学校を中断、のちに別の場所で卒業にいたる。 |
1951年 | ハーフィズの勉強 父親ラミズ氏よりアラビア語のレッスンをうけハーフィズとなる。 |
1959年 | エルズルムからエディルネへ エルズルムを離れてエディルネへ行く。エディルネではフセイン・トプ先生の助けにより環境になじんでゆく。イマーム試験には合格したが、兵役を済ませていなかったため1959年8月6日に正式にウチシェレフェリモスクの二代目イマームに任命される。2年半の間そのモスクで過ごす。 |
1961年 | 11月10日 兵役 アンカラのママックで兵役に参加する。 |
1964年 | 再びエディルネへ 兵役の後、約1年をエルズルムで過ごすが再びエディルネへ戻る。1964年7月4日ダリュルハディスモスクでクルアーンクラスの先生とイマームの代わりとして働き始める。今は教授となったスアット・ユルドゥルムもその時エディルネ宗教長となる。一つ家を借り一緒に住み、ダリュルハディスモスクのイマームの部屋で勉強会を始める。 |
1965年 | 7月31日 エディルネからクルクラレリへの召喚 エディルネで1年を過ごしたあとクルクラレリへと移る。1965年7月31日にクルクラレリの説教者長に召喚される。 |
1966年 | 3月11日 クルクラレリからイズミルへの召喚 イズミルの説教者となる。これとは別にケスターネパザル協会のクルアーンコースを自発的に教え始める。 |
1968年 | 2月18日 初めてのハッジ イズミルのケスターネパザルのクルアーンコースで先生を務めるなか、宗教大臣のウェキィリ・ルテュフからの政府の仕事としてハッジに行くよう要請され初めてハッジにいく。1968年の犠牲祭とハッジの時期にあたる3月10日であった。このことについて1968年の2月19日付のイッティハド新聞に記載される。 |
1969年 | コーヒー勉強会と説教 |
コーヒー勉強会を始める。エーゲ地域のあらゆる県や郡などで説教をする。 | |
1971年 | 3月12日のクーデター(いわゆる、「書翰によるクーデター」)の直前にケスターネパザルより移住。 |
3月12日の、いわゆる「書翰によるクーデター」の直前に、ケスターネパザルのクルアーン学校から離職。 | |
1974年 | 6月29日 マニサへ召喚される |
2年4ヶ月エドレミットで仕事をしたあと、マニサの説教者長となる。 | |
9月20日 父ラミズ氏永眠 ラマダン月の三日目に父ラミズ氏が永眠。 | |
1975年 | 講演会を開き始める |
クルアーンと科学、ダーウィニズム、黄金時代、社会秩序、預言者性などの題名の講演をつづけて行い、 | |
1976年 | にも講演を行うためにイズミル以外ではアンカラ、チョルム、マラトヤ、ディヤルバクル、コンヤ、アンタルヤ、アイドゥンといった場所を訪問した。 |
9月28日 マニサからイズミルのボルノワに召喚される | |
2年3ヶ月マニサにいた後、ボルノワに召喚される。ここで1980年の9月12日の反乱まで仕事を続けた。 | |
1977年 | 国外講演 |
仕事でドイツに行き、さまざまな場所でお話しや、講演会を開く。 | |
8月26日 イスタンブールで初めての説教 イスタンブールのエミンオヌにあるイェニ・モスクで初めて説教をする。説教の内容はムスリムの自我と自身の向上についてであった。 | |
9月9日 イスタンブールでの2回目の説教 スルタンアフメット モスクでイスタンブールでの2回目の説教をする。当時の大統領スレイマン・デミレル、外務大臣のイフサン・チャーラヤンギルなども参加していた。 | |
1979年 | 月刊誌スズントゥで記事を書き始める |
初刊の1979年2月に発行されたスズントゥで社説や他の記事を書き始める。人々にそして新しい世代に向けて最初の記事は「この涙を止めるため、子供たちよ!」であった。 | |
1980年 | 9月5日 ボルノワでの最後の説教とオザルとの会見 |
9月12日の軍隊のクーデターより1週間前、9月5日の金曜日に最後の説教をする。説教の後、モスクのイマームの部屋でトゥルグト・オゼル氏と会見する。 | |
11月25日 チャナッカレへ召喚 チャナッカレへ説教者として召喚されるが、体調不良により仕事を中断。 | |
1981年 | 3月20日 説教職から退く 1980年9月12日の軍のクーデターにより戒厳令が実行される。悪化する状況の中、説教者としての仕事から退く。 |
1985年 | アナトリアをまわる 1983年に自由選挙が行われるが、軍の影響がまだ強かったため公に説教をすることができなかった。アナトリアのさまざまな町を渡り歩き、昔の親友や友達を訪ねた。アフラットも訪れた。 |
1986年 | 1月12日 ブルドゥルで捕まり、解放される。 彼を探す命令が下され、ブルドゥルで捕まる。長期の取調べの後イズミルに連れてこられる。捕まった理由がイズミルと関係ないとわかり解放される。 |
4月6日 ビュークチャムルジャモスクで6年ぶりに説教をする ミーラージュとビュークチャムルジャモスクのオープニングの関係で6年の歳月を経てモスクの演壇にのぼる。 | |
6月6日 ハッジに行く ハッジの途中、ディアルバクルでのメフメット・オズユルト事件に関係していたとして行動を制限される。メディーナに残りなさいという友人たちの勧めを押し切って、無実を証明するためシリアに渡り、その後苦労してキリスに着いた。そこからイズミルに行き戒厳令本部に自ら赴く。無実が証明され解放される。 | |
1988年 | 月1日 雑誌イェニウミットで社説を書き始める 1988年7月1日初版の雑誌で社説を書き始める。最初の記事は「イェニウミット(新しい希望)の謙虚な雰囲気のなかで」 |
1992年 | 月5日 アメリカ合衆国でトゥルグット・オゼル大統領を訪問 5月5日、5月2日にダラスのメソジスト病院で前立腺の手術をおこなった トゥルグット・オゼル大統領のお見舞いに訪れる。 |
1993年 | 6月28日 母レフィア・ギュレンさん永眠 レフィア・ギュレンさんが1993年6月28日月曜日12時20分にイズミルで亡くなる。 |
1994年 | 6月29日 ジャーナリストと作家の財団のオープニングに参加 デデマンホテルで行われたジャーナリストと作家の財団オープニングの式に参加する。 |
1994年 | 11月30日 首相タンス・チルレルを訪問 この訪問は、当時の首相チルレルの、様々な分野の人々と面会したいという希望から実現した。 |
1995年 | 1月23日 サバーとヒュリエット新聞とのインタビュー サバー新聞社からはヌリエ・アクマン、ヒュリエット新聞社からはエルトゥールル・オズキョクをむかえインタビューを行う。インタビューの内容は、トルコ国内の状況、首相との会見、イスラム、政治、女性、教育などであった。 |
2月11日 ポラトルネサンスホテルでジャーナリストと作家の新聞記者とジャーナリストの財団のイフタールに参加する ギュレン氏のスピーチではこのイフタール食事会が社会の統一になることを望んだ。 | |
2月23日 アンカラ ヒルトンで行われたジャーナリストと作家の財団のイフタール食事会にメッセージを送る ジャーナリストと作家の財団主催のイフタール食事会には政治界の官僚や大学関係者らが多く訪れた。ギュレン氏は断食に加え糖尿と血圧の症状が思わしくないため参加できず、参加していたメンバーにメッセージを送った。 | |
3月20日 ビュレント・エジェウィットとの会見 ギュレン氏は3月にビュレント・エジェウィットを訪問した。エジェウィット氏は政治よりも宗教、科学、哲学などについて話し合い、とても有益であったと答えた。 | |
月10日 ヒクメット・チェティンを訪問 犠牲祭の2日目にヒクメット・チェティンの家を訪問する。犠牲祭により訪問が現実となった。 | |
5月26日 右翼のトルコオジャクラル財団から賞を受賞 「ニハル・アトスズ貢献賞」トルコや中央アジアの国々で数多くの学校を開校するきっかけとなったとして賞を受賞。 | |
6月9日 タンス・チッレル首相と2度目の会見 タンス・チッレル首相とギュレン氏は1994年に行われた会見のあとイズミルで2度目の会見を行った。私立ヤマンラル高校の開校式に首相が参加し、式が終わった後45分もの間ギュレン氏と話しをした。 | |
6月15日 メスット・ユルマズ氏を訪問、会見 以前チッレル首相やエジェウィットと会見したギュレン氏はメスット・ユルマズ氏を訪ね、会見した。アンカラで行われた会見では、ギュレン氏がユルマズ氏にトルコの当時の状況に関しての考えを述べた。 | |
7月3日 TRT(トルコラジオテレビ協会)のアテシュハットゥ番組でレハ・ムフタルと会談 アテシュハットゥという番組のイスタンブールのスタジオでレハ・ムフタルと長い時間会談を行う。 | |
8月2日 トルコ国会議長ヒュサメッティン・ジンドルク氏を訪問 国会議長ヒュサメッティン・ジンドルク氏の仕事先を訪問する。 | |
8月13日ザマン新聞に、後にエユップ・ジャンによって「地平線への旅」として出版される文章を寄稿 11日間のシリーズとして発表されたこの作品は、ギュレン先生の生き方とその目的、宗教、神秘主義、教義、哲学、政治、さらには中央アジアへの展開など、多くのテーマについて触れている。 | |
8月20日 ジュムフリエット新聞オラル・チャルシュラル氏とのインタビュー 7日間にわたって放送されたこのインタビューでは、共和国、宗教分離、イスラム法、教育、民主主義、女性に関する事などの質問にギュレン氏が答えた。 | |
9月14日 心臓手術を受ける。 ギュレン氏を長年に渡って困らせていた心臓病の原因を調べるためにアメリカの病院でアンジヨを行った。 | |
9月19日 ボスニアの子供達のために行われたサッカーの試合を観戦 ジャーナリストと作家の財団主催のサッカーの試合が、「全てはボスニアの子供達のために」というスローガンのもとイスタンブールで行われた。この試合やそれ以外で集められた寄付によってボスニアのサライボスニアというところの子供達のために学校が建てられた。マラドーナ氏とギュレン氏が寄り添うように試合を観戦した。 | |
10月18日 ミリエット新聞社を訪問 1995年10月18日水曜日にミリエット新聞社を訪れた際、新聞記者やマネージャーと会談する。 | |
10月19日 オランダのテレビ局でのインタビュー このインタビューでは、ギュレン氏の自身の人生、意見、行っている活動、イスラムと政教分離などについて質問に答えた。 | |
1996年 | 4月1日 1995年ホシュギョル(寛大)賞パーティーに参加 ジャーナリストと作家の財団のホシュギョル賞受賞者のパーティーがチラーンサライで行われた。 |
4月4日 バルソロメオス主教と会談 共存共栄、寛容精神を強く望むギュレン先生はギリシャ系のバルソロメオス主教と、和やかなムードの中会談を行い、トルコにおけるムスリムと非ムスリム間における対話をスタート。 | |
4月18日 トルコ実業家財団より表彰 トルコ実業家財団より、この年初めて設けられた「その年に活躍した人々」の表彰を受ける。アンカラ・デデマンホテルで表彰式が行われた。 | |
7月1日 アメリカのアイドゥン・メンデレス氏を訪問 アメリカで治療中のアイドゥン・メンデレス氏を訪問した。 | |
9月19日 アクテュエルパラ雑誌と教育に関するインタビューを受ける ギュレン氏が教育に関してアクテュエルパラ雑誌とインタビューをした。 | |
9月30日 ジャーナリストと作家の財団3周年記念、「明るい未来のために手を取り合って」の会合に参加 ジャーナリストと作家の財団主催の会合にたくさんの方が参加するなか、ギュレン氏がスピーチをした。 | |
10月15日 ブルガリアのトゥルド新聞との会談 ブルガリアのトゥルド新聞とバルカン半島とトルコについて会見する。 | |
11月3日 ブルガリア・ヴァルナテレビからインタビューを受ける ブルガリアから、出版業界に続いてテレビ各局もギュレン先生の取材の為トルコを訪れるようになった。ブルガリア最大手の「24時間」及び「トルド」紙が「何百もの橋を架けた知識人」と賞賛したギュレン先生は、ヴァルナテレビにおいても、教育と文化の方面で活躍しているとして、ブルガリア人たちに紹介された。 | |
月8日 新聞記者に対し意見を述べる 1996年11月8日の金曜の夜、新聞記者達を食事に招き多様な質問に答えた。 | |
11月8日 ファーティヒ大学の開校式に参加 イスタンブールのベイリクドゥズにあるキャンパスで大統領のスレイマン・デミレルらを迎え開校した。開校式にはアルパルスラン・トゥルケズ、リザ・アクチャルら知識人やビジネス関係者なども参加した。ギュレン氏は大統領を含め参加者全員をもてなした。 | |
1997年 | 1月27日 ジャーナリストと作家の財団のイフタール食事会に参加 ヒルトンの展覧会場で行われたイフタール食事会には、政治家、芸術家、ビジネスマン、世界の宗教団体の代表など著名人が一同に会した。 |
3月29日 サマンヨルテレビでニュース評論番組に参加 サマンヨルテレビのニュース評論番組にゲストとして呼ばれる。生放送で放送された番組ではオスマン・オズソイ博士やミム・ケマル・オケ教授の質問に答えた。 | |
4月16日 チャンネルDのヤルチュン・ドアン氏の質問に答える チャンネルDの「ヤルチュン・ドアンとギュンジェル」という番組でゲストとなる。「トルコにおける政治緊張」について話しあう。 | |
5月30日 トルコの政治成長についてタイム誌の質問に答える トルコにおける政治的、社会的現象についてタイム誌の質問に答える。 | |
6月11日 健康問題の理由でアメリカへ渡る 長期にわたり心臓の状態が思わしくなくアメリカへ渡る。オハイオ州でアンジヨを行う。 | |
8月10日 ロシアの文筆家たちから招待 ロシア文筆家協会は、アメリカで治療中のギュレン先生をロシアに招待した。協会長ティムール・ポラトフは、「ギュレン師を招待することは有益だと考えている。現在トルコやロシアに存在する現代的な様々な問題について私たちも気がついている。」と述べた。 | |
8月11日 ミリエット新聞でハカン・ヤウズさんとの政治とイスラムに関する問答が掲載される アメリカのウィスコンシン大学、イスラムと社会科学博士課程の学生ハカン・ヤウズさんとギュレン氏が談話を行う。 | |
8月31日 ミリエット新聞でヤセミン・チョンガルさんの政治成長に関する質問に答える トルコにおける政治評論家、アタトゥルク、政教分離共和国、イスラム法などについて質問に答える。 | |
月1日 2月28日の経済危機、政治的、社会的危機について 健康状態によりアメリカに滞在中のギュレン先生は、トルコの2月28日の経済危機、政権交代、八年制教育やイマーム養成校などに関する政治的、社会的出来事について、アメリカのトルコ記者たちに語った。 | |
9月3日 南東部問題に関する質疑に返答 東部・南東部問題に関して、ギュレン先生は地域の和平に注目し、「ヤヴズ・セリムが現地の部族長たちと合意を行い、何世紀も続く和平の礎を築いて以来、4世紀の間、問題を起こしていない。」と語った。 | |
9月4日 ザマン新聞でアリ・アスラン氏の西洋とナショナリズムの質問に答える アメリカでのインタビューはムスタファ・ケマル・アタトゥルクと西洋化について行われた。 | |
9月19日 アメリカの枢機卿オコナーと会談 ギュレン先生は、ニューヨークで、カトリックの指導者のうちの一人、ジョン・オコナーと会談。教皇ヨハネ・パウロ2世の右腕として知られ、アメリカの政局や国連においても大きな影響力を持つ同氏と、ギュレン先生との間で実現した会談は、和やかな雰囲気のうちに行なわれた。 | |
9月30日 治療のため訪れていたアメリカからトルコに戻る 治療の為に一時期アメリカを訪れていたギュレン氏が9月30日火曜日の10時にトルコに帰国。6月にアメリカオハイオ州でアンジヨした。アメリカ滞在中にカトリック世界でも有名なカーディナル・オーコナーと会見した際に他の宗教的人物ともコンタクトを取った。 | |
11月21日 トルコ教員組合から教育賞受賞 トルコ教員組合はギュレン先生に教育特別賞を贈った ゲオルグ・マロヴィッチとその一行がギュレン先生を訪問 ヴァチカンのイスタンブール領事ゲオルグ・マロヴィッチ、古シリア教会僧正ユスフ・チェチン、古シリア教会総主教ユスフ・サー、古シリア教会司教サミュエル・アクデミルの各氏がギュレン先生を訪問した。 | |
12月25日 ジャーナリストと作家の財団が企画した国民的調和の夕べに参加 ギュレン氏はジャーナリストと作家の財団の企画した国民的調和の受賞式に参加した。 | |
1998年 | 1月13日 ショウテレビの番組「32日目」で人生、考え、学校などが放映される 1998年1月13日の夜の番組でギュレン氏の人生や考え、奉仕活動などがメフメット・アリ・ビランドやルドゥワン・アカル氏らによって伝えられた。 |
1月22日 アラルコ主催のイフタール食事会に参加 ヒルトンホテルでアラルコホールディングがイフタールの食事会を行った。多くのビジネス関係者が訪れたなかでギュレン氏も参加した。 | |
1月23日 法王ヨハネパウロII世がラマダンのお祝いにメッセージを贈る カトリック世界のリーダー法王ヨハネパウロII世が、ラマダンが終わりに近づいた頃、宗教間の対話のため教皇庁長のカーディナル・フランシス・アリンゼ氏を通してギュレン氏にメッセージを贈った。 | |
2月3日 ジャーナリストと作家の財団のラマダン祭のプログラムに参加 ジャーナリストと作家の財団によるラマダンのプログラムがプラザジェワヒルホテルで行われた。政治家、第一線で活躍中の芸術家達、宗教界の代表達、科学者や知識人が顔を合わせた。 | |
2月9日 バチカンで法王ヨハネパウロII世と会う バチカンで宗教間の対話と題して、法王ヨハネパウロII世と約30分の間会見した。 | |
2月19日 教会連合がギュレン先生を訪問 湾岸戦争の勃発において、ギュレン先生はアメリカからの訪問を受けられた。「中東和平を目指す教会連合」からの三名の来賓が、ギュレン先生と意義深い訪問を行なった。 | |
2月25日 イスラエルラビ、エリヤフ・バクシ・ドロンとの会見 ジャーナリストと作家の財団でイスラエル大使館のラビ、エリヤフ・バクシ・ドロン氏と会見する。 | |
2月27日 NTVでジェンギズ・チャンダルとタハ・アクヨルの質問に答える ギュレン氏は、政教分離、イスラム政治、法王ヨハネパウロII世との会談、共和制やアタトゥルクなどについてたくさんの質問に答えた。 | |
3月7日 世界宗教会議に参加 世界宗教各派の代表者が、ハルビエ・ジェマル・レシットコンサートホールにおいて一堂に会した。 | |
3月9日 ギュレン先生の始められた、対話への試みは続いている。ギュレン先生は1998年3月9日、イスタンブールにおいて、アメリカ・ユダヤ人機構代表者会議の訪問を受けられた。3日間のこの訪問で、ユダヤ人の各指導者たちはアンカラで最高のもてなしを受けた。首相メスット・ユルマズ、参謀本部次官・陸軍大将チェビック・ビル、トルコ国会代表ヒクメット・チェチン、外務大臣イスマイル・ジェム各氏を訪問した。 | |
3月19日 世界に貢献したトルコ人としてトルコ2000年財団から賞を受賞 トルコ2000年財団より、世界に貢献した人物として20人に賞が与えられた。 受賞者のなかにはギュレン氏もいた。 | |
4月5日 トルコ財団から表彰 トルコ財団は、トルコ財団教育賞をギュレン先生に贈った。 | |
4月18日 トゥルクオジャクラルから賞受賞 | |
4月26日 ehli beyt総会へメッセージ ギュレン先生は、1988年4月26日に行なわれたehli beyt総会へ、祝福のメッセージを送られた。 | |
5月6日 ロシアORTテレビとのインタビュー このインタビューではトルコ‐ロシア関係やギュレン氏の人生、考えなどが話された。 | |
5月18日 イタリアの新聞記者たちと法王との会見についてインタビューする インタビューでは宗教間の対話の重要性と法王との会見について明らかにされた。 | |
6月21日 ラディカル紙のアヴニ・オズギュレルのインタビュー ギュレン先生は、亡命、イスラーム法学、女性の頭を覆うスカーフといった、アヴニ・オズギュレル氏からの質問に答えられた。 | |
7月5日 宗教財団シルクロードから賞を受ける シルクロード宗教財団の主催する「第一回国際トルコ独立運動シンポジウム」が、アンタルヤのトゥレムホテルで開催された。受賞者には、大統領シュレイマン・デミレル、副首相ビュレント・エジェビット、北キプロストルコ共和国大統領ラウフ・デンクタシュ、そしてギュレン先生など著名な人々が含まれた。 | |
1999年 | 1月14日 アクテュエル誌のネジデット・アチャンと教育や過激派の政権剥奪についてインタビューする このインタビューでは長期間触れていなかった事柄、学校、政権剥奪や彼に対する中傷などについて答えた。 |
3月21日 体調不良により治療のためアメリカへ渡る ギュレン氏はその日病院側の勧めによりアメリカへ渡った。 | |
6月18日 ATVテレビ局で悪意的に編集されたギュレン氏のビデオが放映される ビデオが放映された後、ギュレン氏についての取調べが行われた。 | |
6月19日 盗聴スキャンダルについてアクション誌の質問に答える | |
6月22日 18日のビデオ事件でレハ・ムフタルの質問に答える | |
12月1日 世界宗教者会議にメッセージを送る ケープタウンで行われた世界宗教者会議にメッセージを送った。 | |
2000年 | 4月13日 ハランで行われたイブラヒミ系宗教シンポジウムにメッセージを送る ジャーナリストと作家の財団主催のハランで行われたシンポジウムは3日に渡って行われる |
2001年 | 月26日 アメリカのジョージタウン大学で学会を開催 ジョージタウン大学でギュレン氏と彼の活動について数多くの人々を招いて学会が開催された。2日間に渡って行われた学会では世界中の大学から科学者たちが参加した。 |
4月27日 ウストゥンヒズメット(名誉貢献)賞受賞 TYBのその年のウストゥンヒズメット賞は教育と文化貢献を称えてギュレン氏に贈られた。海外で治療を受けていたギュレン氏は授賞式に参加できなかったため代わりにジャーナリストと作家の財団会長ハルン・トカクが参加した。 | |
9月12日 アメリカの9・11テロ事件に対する意見を述べる | |
11月28日 ジャーナリストと作家の財団のイフタール食事会に寛容と対話に関するメッセージを送る | |
2002年 | 3月31日 心臓病が悪化し治療を受ける 3年間心臓病と糖尿病でアメリカにいたギュレン氏が緊急で病院に運ばれた。 |
4月2日 治療を受けていた病院を退院 主治医のフセイン・チョプル先生より説明があり、その後退院する。 | |
9月16日 2002年ワールドカップで準決勝に進んだトルコチームにお祝いのメッセージを公表する | |
2003年 | 11月16日 シシュリとクレディビにあるユダヤ教の教会での爆発事件にたいして お悔やみのメッセージを公表する |
12年13日 12月12日に亡くなったアゼルバイジャンの元大統領ハイダル・アリイェウ氏にお悔やみのメッセージを公表する | |
12月31日 10月19日に亡くなったボスニアの元大統領アリア・イッゼトベゴウィッチ氏にお悔やみのメッセージを公表する | |
2004年 | 1月21日 ギュレン氏の心臓の血管にステントがつけられる |
1月22日 退院する |
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