天使、悪魔と幽精の特質

1.天使の特質

天使は、光から創造され、そのあり方において光が基盤となっていると見られる。アラビア語で「天使」という言葉は「マラーク」であり(複数形、マラーイカ、で使用されることが多い)、使い、監視、代理、誉め称え、高いところから降下、といった意味を持つ。

確定的な意味で天使とは、大きな世界と小さな世界の間につながりを持たせ、使いとなり、知らせをもたらし、私たちの心を撫でて整え、そこからくるメッセージを、溶かすようにしながら認められる形に再形成する、非常に神聖な使者の一団である。あの世と向き合っていて、あの世からの義務を負う存在である天使たちは、アッラーが、この世とあの世双方において所有される事物を管理し、それらを支援する。

天使たちは魂のように単に命令世界からのものではなく、光からなる、それ自体に特有の物体を持つ。この物体は優美で光を帯びたものである。その故に、どこかに入り込むという状況においてとても迅速で、完全である。人の瞳の中に位置を占め、ものを見させ、美しいものを示す。預言者や聖人たちの心に、植物や動物たちの世界に、それぞれ異なる意義を込めて入る。心で生まれる神聖な感情は、大部分が直接アッラーからもたらされるものであるが、時には天使が媒介となることもあるのだ。

天使たちは「かれらはアッラーの命じられたことに違犯せず、言い付けられたことを実行する」(禁止章66/6)。これは天使たち固有の性質である。[i]人間は決して天使のようにはなれない。常に上がったり下がったり、ジグザグの線を描く。人は、天使以上の特質を獲得することができるのと同様に、知能や意志を持たない被造物以下の位置を占めることもある。それに対し、天使たちの階位は固定されたものである。光から創造された為、人間や幽精で見られるような抵抗や反抗は彼らにおいては絶対に見られない。天使には男女というものはない。怒りや憎しみ、敵意、嫉妬、妬みといった悪い感情からも遠ざかっているのと同時に、人間や幽精にあるような不具合などもない。

天使たちは飲み食いせず、空腹を感じたり渇きを覚えたりすることもない。疲れも知らない。報償や手当てなどはないが、アッラーの名において彼らが行なう全ての命令において、優美な喜びや味わいがある。発展や階級といったものはないが、アッラーに対する崇拝行為(イバーダ)の段階に応じて、善行の恵みを受ける。光からなるものであるため、彼らの糧は光で事足りる。人々が水や空気や光、そして様々な食料を糧とし、それらを好むように、天使たちはズィクルや祈念、感謝や崇拝行為、そしてアッラーの御業や愛情の光を糧とし、味わう。さらには、芳香さえも彼らにとって一種の糧である。芳香を好み、喜ぶのである。

ここで、不足のない天分の性質の最上の段階を象徴されておられるアッラーの使徒が、芳香を気に入られ、身に付けておられた事を思い起こしていただきたい...。

天使たちは、アッラーの、その存在の神聖さを把握するという点では人間よりも優れている。アッラーの美名と特質を知るという点でも同様である。しかし、その神聖さ、美名や特質をそこに集める鏡となるという点では、感覚や感情、精神世界や熟考といったものにより、アッラーは人間を天使よりも優れた存在として創造されたのである。

私たちは、一部の天使たちの名前とその務めを知っている。なぜなら彼らについて、聖クルアーンにおいても、預言者ムハンマドの神聖なる言葉においても、様々な形で言及が見られるからである。一部の天使については、ただ彼らが行なう任務の種類と、まとめて与えられている名称によってのみ知っている。しかしこのテーマに関しては、伝承などがないために、私たちは彼らの名前や数については知識を持ってはいない。

四大天使であるジブリール(ガブリエル、預言者たちにアッラーの啓示を伝えた)、ミカイール(ミカエル)、イスラーフィール(終末に至ると大審判を告げるラッパを吹き鳴らす)、イズラーイール(死を司る)について私たちは知っているが、天空を支える八人の天使、偉大な天使たちが集う地、最も偉大な友(ラフィキ・アラー)などについては知ることができずにいる。

さらに、母の胎内にいる胎児の状態に関わる天使たち、全ての人々の言葉や行動を記録する天使たち(キラーマン・カーティビーン)、地獄の責め苦を司る天使(マーリク)、地獄の番人の天使(ザバーニーヤ)、天国の番人の天使(ロドワン)も、私たちが知っている天使たちの範疇に入る。他方で、複数のハディースで明らかにされているように、各々の信者を守る三百六十人の天使がいる。これらは特に、年老いた者や子供たちを守る。人々に善を示し、信者のために祈りや悔悟を行ない、不信心者に対しては彼らに恐れを与える天使たちがいる一方で、崇拝行為、神の御名を繰り返し唱え、そして学問の集成を追求する天使、午後や早朝の礼拝において任務を変える天使、金曜日にもたらされる祈祷を鑑賞する天使、クルアーンを聞き、そういった地に安らぎを下す天使たちもいる。

そして、礼拝し、礼拝の列の区切れをつなぎ、礼拝中の座った姿勢で行なう信仰告白を共に行なったり、ムスリムたちと握手する天使たちもいる。

死の瞬間、そして死後やってくる、墓地で質問を行なうムンカルとナキールという名の天使たち...。

預言者ムハンマドの天への上昇(ミーラージュ)の際、創造された日以来アッラーの偉大さの前にあり、礼拝中に体を折った状態、平伏した状態、立ち上がった状態でそれぞれ目にされた天使たち...。

それから、微粒な分子の動きから雨がしずくとなって天から降ってくることに至るまで、隕石の落下から地球や星、星の体系、銀河の動きに至るまで、そして木々から花々に至るまで、創造物の活動を監視し、それらを管理する、おそらくは宇宙の分子の数ほどの天使たちがいるのだ。

「誰でも皆死を味わうのである」(イムラーン家3/185)「地上にある万物は消滅する。だが(永遠に)変わらないものは、尊厳と栄誉に満ちたあなたの主の慈顔である」(慈悲あまねく御方章55/26~27)

これらは全ての被造物に適用される命令であり、天使たちもこの命令の例外ではない。さらには、イズラーイールにも、最後に「自らの魂を取り上げよ」と命じられるであろう。それにも関わらず、アッラーとの結びつきにおいてその生を継続させる天使があったとしても、私たちは彼らについて知ってはいない。

天使たち、特に慈悲の天使たちは、偶像や、絵画や、犬や、鐘のある家には入らない。生理中の女性や、グスル(大浄)の清めを必要とする状態の者にも近しい結びつきは持たない。玉ねぎやにんにく、洋ねぎといったような悪いにおいを持つ食べ物を口にし、信者たちに不快を与える者たちのそばにも寄らない。タバコのように悪臭を放ち、人々を不快にするものもこの一種と見なし、こういった悪臭からも天使たちが逃げるということもできよう。天使たちが、母親や父親、親戚たちと結びつきを絶った者たちのそばにも来ないということも伝承のうちにある。もし、天使たちが我々と共にあることを望むのであれば、まず最初に彼らが好む基礎を整えなければならないということを忘れないようにするべきである。

2.天使たちはどのような時に守るのか、現れるのか

アッラーは、人を直接守られるように、天使たちを介して守られることもある。しかしそのためには、人がその意志や心によってつながりを持つこと、その状態が適したものであること、天使たちと関わりがあること、アッラーとの関わりや結びつきが継続していること、そしてある種の精神的到達の実現が必須となる。天使たちの世界につながりを持つ人と、天使たちもまたつながりを持つ。バドルやハイバルの戦いで彼らが現れ、教友たちの死体の洗浄や葬儀に加わったように...。天使たちの庇護は、子供たちや無垢な乳飲み子、そして腰が曲がった老人たちにおいても見ることができる。なぜならアッラーの、こういった人々に対する特別なお慈悲があるからである。天使たちが人を助け、現れることは、人がアッラーの扉から離れずにいること、絶え間なく何度も、身を焦がすほどに乞い、願い、懇願すること、魂がそこから離れアッラーと結びつきを持ち、天使たちの世界と関係を築くことができることによって可能となる。あくびをしながらとか、何を言っているかわかっていない心によってではないのだ。形だけの、間に合わせの崇拝行為によってこの関係は生まれない。苦難や苦痛を味わったのでなければ、天使たちの神聖な手が差し伸べられることはないのだ。

3.天使を信じることの効果

アッラーや、審判の日に皆が復活し一箇所に集合させられることを信じることのように、天使たちを信じることも、人間に与える大きな影響力を持つ。この信仰は人に安らぎを与え、その恐怖を親しみに変える。天使は人の同行の友となる。神聖な感覚、インスピレーションは人の心に天使によってもたらされる。深い意味を持つ感情が、天使によって訪れる。そのおかげで人の心は安らぎで満たされ、この輝かしい存在と共に、彼の命も光を帯びる。さらに、いつでも天使たちの管理や勘定のもとにいるのだということを考え、罪から遠ざかることになる。そして、人の欲求にブレーキをかける要素となり、人生をコントロールすることを容易にするのである。

預言者ムハンマドは、天使たちのうち特に優れた者、最も徳のある者よりもなお、徳のあるお方であられる。預言者たちに神意をもたらした天使たちも、他の天使たちより徳のある存在である。人間たちの中でも、バドルやウフド、あるいはそれに相当する戦いに加わっていた者は、加わっていなかった者に対してある優位さ、徳を持っているのと同様に、天使たちの中でもそれらの戦いに加わった者は、加わらなかった者に対するある種の優位さを持っている。

預言者ムハンマドは、次のようにおっしゃられておられる。「天に私の二人の将軍がいる。ジブリールとミカイールである。地における二人の将軍は、アブー・バクルとウマルである」

4.幽精の特質

「幽精(ジン)」とは、覆われた、覆いのあるという意味である。「また火の炎から幽精を創られた」(慈悲あまねく御方章55/15)。幽精の本質やあり方についてクルアーンの与えている知識はこれだけである。ただ、他のもう一箇所でも「またわれは先に燃え盛る炎から幽精を創った」(アル・ヒジュル章15/27)という表現が使われている。その本質やあり方は我々にとってやはり明らかではない。その本質について「炎からできているあかり、あかあかと燃え、周囲に火花を散らす炎、まきや炭ではない」という表現が彼らを説明するのに十分なものかどうか、私たちにはわからない。人間の形態学的本質が、たんぱく質の混成物として地上から集められたものであるように、幽精も、炎の真髄からなるものである以上、炎の特質を備えているかもしれない。これは空気か炎か、あるいは空気と炎の合わさったようなものなのか、あるいは放射性のものなのか、微細粒子状のものなのか、知ることはできない。おそらくは、私たちがその混合を知ることのできない何らかの物質がその例えとなるだろう。もしかしたら原子の微粒子、波状のもの、あるいは原子以下の世界から構成されるイオンの混合物、非物質的な存在かもしれない。振動速度が毎秒三十万キロを超えると、目にも見えず、器具を使って証明することもできない。そのためそれらを見た者は誰もいない。目に見える物質的な存在を形成する基本組織は、量子と呼ばれるエネルギー粒子である。しかしこれらは摂氏五千度以上になると溶解し、別々の原子に姿を変える。しかし、この宇宙には何千度、何百万度という天体が存在する。つまり、そこには高温に耐えられるエネルギーのような被造物が存在する。その差はただ、幽精に意志と知恵があるということである。

そう、幽精たちはエシル状の存在かもしれない。エシルといわれる物質(宇宙を満たしている細かい物質、電気や光や熱が広がっていく際の媒介となる物質)について、学者たちは様々な見解を示しており、またそれが存在するかしないかという点でも論争がある。この件についてはクルアーンの章句において明確にされているものがないが、あるハディースで、「アッラーの上天は最初に『アーマー』の上にあった」と、また別のハディースでは「水の上であった」とされている。ここから、「アーマー」という言葉で他の何らかの意味が示されていることが明らかとなる。つまり、原子、微粒子の形成よりも先に、アッラーの御技は、その支配を「アーマー」のような、つまりエシルと言われる物質のようなものの上に置かれておられたのだ。信仰に関わるテーマではないので、過度にこだわり、存在した、しなかった、こうであった、ああであったと議論する必要はない。存在しないと言うことが解明されていないのと同様、いまだその存在も解明されてはいないのである。存在はありえることである。最も小さい物質をも凌ぐ、光をとおし、感じることのできないほど細かい何かでありえる。もしかしたら、物質が尽きたところからエシルの存在が始まっているのかもしれない。

そう、幽精は、おそらくは、空間という次元においてすら事象を私たちに示す光の波の中の、目には見えない存在なのだ。言葉や学術用語で何かと表現してみたとしても、そのあり方がどのようであるか、物質的にはどのようなものか、というテーマで確定的な判断を示すことは、誤った解明、解釈を行なったことになる。これは、神意を自分の都合のいいように解釈したということを意味する。なぜなら、クルアーンで用いられている「煙のない炎」「炎(ナール)」「毒の炎(ナール・サムーム)」と言った表現が何を意味するか、私たちは知りえないのである。見てほしい、その基が土である人間が結果としてどのような形を得ているか。幽精も炎から創造されたものであるが、いったいどのようなものか、誰にもわかりはしない。

5.幽精は人間と同様、信仰や崇拝行為の責任を負う

現象界の、細かな存在である幽精たちは、意志のある魂を持つ。物質的構造の違いにより人や天使たちと異なり、また意識をもつということから植物や動物たちとも異なる。人間のように、信仰、崇拝行為、しもべとなることということにおいて責任を負っており、信仰者にも不信仰者にもなりえる。彼らは人間を見ることができるのでムスリムたちの勝利や敗北は、幽精の世界にも同じ影響を及ぼす。つまり、ムスリムたちの勝利は幽精の信仰者にとっても勝利であり、敗北は幽精の信仰者にとっても敗北となる。男女があり、結婚し、数を増やす。寿命については千年に至るまでの数字が示されている。

6.天使や幽精の行動は、時間や空間の拘束を受けない

私たちは、非常に多くの面で結びつきの多い世界に生きている。この世界においては、能力、力、話し方、重さ、時、速さといったものも関わり合いのうちにある。例えば、物体として同じ大きさである卵と薪、同じ大きさである石や鉄の間には重さという観点から大きな違いがある。同じように、物体にはそれぞれに固有の落下速度、動く速度がある。例えば音も一定の速度を持つ。光は「私は物質の速さの限界である」と語っているだろう。物質が引力の法則に従って落下する時、その速度は常に増していく。つまり、最初の1秒で5メートル落下したのであれば、2秒目には、落ちた距離と、その秒数を2乗したものをかけた数に相当する距離に至る。2秒目に到達している距離は、4×5、3秒目には9×5、4秒目には16×5、5秒目には25×5で125メートルとなる。そして、速度が増し、一定の頂点に達した時には、速度が落ち始める。結果、光の速度に到達した物質は、その物質性を失い、物質を超越した状態を得る。

物質においてさえこのような状況がある以上、速度において物質をはるかに凌ぎ、光の速度をも超越している魂や天使や幽精を私たちが見ることができないのは当然のことである。アインシュタインやロレンツは物質の速度の限界を、厳格な物理の法則として秒速三十万キロとしている。物質主義者たちが「宇宙には境界がある。だからその先にもやはり物質がある」という結論に達することを望んでいるとしても、多くの研究が、物質に特有であるこの限界が超越されえることを示してきた。学者たちは、質量という概念の向こうに放射線が存在しえることを数学の公式という形で証明し、これらに「タキオン」と「セイリンコフ」光線と名づけた。速度の限界が超えられると、そこには物質としての特性は残らない。速度が落ちると再度物質化し、質量や可視性が出現する。

物質について行われるこれらの確証の背後で、魂や幽精の速度、距離を把握するという項目はよりよく理解されるだろう。つまり、この結びつきの世界において、ある部分では時間や空間の拘束は語られないのである。

魂が幽精より活発的で速い。だから魂と同様なレベルの人は時間や空間の限界を超え、幽精より速く移動できる。クルアーンで次の出来事が語られている。「彼が(預言者スライマーンは自分の民に)言った。「長老たちよ。あなたがたの中、かれらが服従してわたしの許に来る前に、彼女の王座をわたしに持って来ることが出来るのは誰ですか」。すると幽精の大物が言った。「私はそれを、あなたが席から御立ちになる前に、持って参りましょう。本当に私は、それに就いては能力があり信頼出来る者です」。啓典の知識を持つ者は言った。「私は一つの瞬きの間に、あなたにそれを持って参りましょう」(蟻章27/38~40)

7.天使や幽精は、人間に比べてより大きく、重い仕事をこなす

まず何よりも、どのような仕事であれ、状況であれ、アッラーのお力には重いということはないということは明らかである。一つのりんごであれ千のりんごであれ、一つの庭園であれ一つの地球であれ、原子も銀河も、魚も海も、同じように容易に創造されるアッラーは、人間にも天使にも幽精にも、望まれるだけの力と能力を与えられる。そもそも人間の行なうことは、天使たち、幽精たちの行なうことと比べて決して劣るわけではない。地球や天空の物質の動きを監視するのが天使なら、物質に形を与え、文明を発達させ、テクノロジーを生み出すのは人間である。人間の手に、五本の指ではなく一本だけの指、腕ではなく鳥のような翼があったとしたら、このような足ではなく象のような足だったとしたら、これら人間が行なってきたことは行われたであろうか? そして、これらの全てを手や腕や足や指に帰することはできるだろうか? 目に見えない天使たちや幽精たちが行なう素晴らしい技、脳の中の目には見えない反応や電流が行なうこと! 私たちの手や腕や筋肉は、その重量を何によって持ち上げているのだろうか? こうやって進んでいくことによって、物質的力がない骨髄や、脳からもたらされる細かい流れに至るのではないだろうか?

空気の流れや風は目には見えないが、木を引き抜き、家を壊す。植物の絹糸のような根や葉脈は、石や岩に、いかに奇跡的な機織機を設置し、そしてどれほどのものを織り上げることだろう! 学者たちが注目している多くのエネルギー源がある。原子力発電所はダムの性能をも超えて生み出したエネルギーで、物質を動かす。さらには、レーザー光線、確証が待たれているまだまだ多くの事象、これらは生活の全ての場面で物質を動かしている。つまり、目には見えない力は、物質に対して対抗されえないような一種の支配力を持つのである。

エネルギーや光線が物質にこれほどの影響を及ぼすのであるから、それらを超えた、目に見えない存在として天使たちや幽精たちもまた、アッラーがそれらに与えられた司令装置で物質を動かし、我々には及びもつかない驚異的な業をなしえる。人間でさえ、魂に関する問題で触れたように、非常に驚くようなことをなしえるのである。霊能者がものを、道具を使わず、手も触れずに動かし、火と戯れるように...。

8.天使や幽精の数はどれほどなのか

天使や幽精の数はただアッラーのみがご存知である。一滴の水の中に何百万もの生物を創造され、一立方ミリメートルの血液の中に四、五百万の白血球を生かされ、数滴の精液に、人間になりえる精子を何百万も含有させられ、海においては魚たちに、地の底においてもこれほどに多くの生物に命を与えられるアッラーは、お望みになられれば雨粒の数ほど天使を創造されるだろう。なぜならその力の御手には、多いも少ないも同じであるからである。

9.天使や幽精が形を持つこと、形や特性をもって現れること

前にも触れたように、水が蒸発すること、固体が気体や液体に変化すること、原子がばらばらになりエネルギー波や量子となること、星たちがブラックホールとなって現れることというような現象界から見えない世界への活動、流れ、動きが私たちの日常やこの世界には存在している。この神聖な御業を逆から考えるなら、目に見えないものから見えるものへ、知られざる存在から、物質として目に見える状態へという動きの存在を予想することが可能となる。気体が液体となり、結晶化し、物体となる。蒸発した水の分子は「私たちが存在しないとは考えないでください。目には見えないけれど、私たちは消失したわけではありません」と言うかのように、しずくとなって我々の頭をぬらす。天空の畑のたくさんの綿は、地上の鏡に雪の覆いとして現れる。さらには、蒸気の状態を脱した水は、もっと密度を増そう、形を持って、目に見えるようになろう、と、氷になり、鉄の容器でさえ割ってしまう。我々の脳で考えだした多くの目には見えない事象が、外の世界へと移行し、目に見える、物質としての存在を獲得する。

そう、目に見えない存在である天使や幽精、霊的存在たちも、それ自体の構造としてはこの世界では見えなかったとしても、この世界固有の媒介を通して覆いや衣装を身に着け、見える存在となりえるのだ。天使や幽精がこの形で目に見えるようになることを「形となって現れる(タマッスル)」と表現する。クルアーンはこれを説く際に、「ジブリールは一人の立派な人間の姿で彼女(マルヤム)の前に現れた」(マルヤム章19/17)としている。預言者ムハンマドに神意をもたらした天使は、時にはそれ自体の状態で、特には兵士の形で、時にはまた別の様相で現れた。たとえば、バニー・クレイザ族と戦うために追い掛けた際には、ジブリールは砂まみれの兵士の様相で現れた。そして「アッラーの使徒よ、あなた方はよろいを脱いだが、私たち天使はまだ脱いではいない」と言った。

またジブリールは、時には教友ドゥフヤの姿で現れ、また時にはイスラームを教える目的で、旅の様子を微塵も感じさせない訪問着で現れ「イスラームとは、イーマーン(信仰)とは、イフサーン(善行)とは何か」と尋ね、その答えを「正しい」と評価して去っていったのである。[ii]

幽精や悪魔も天使のように形を持って現れることがある。イスラーム学者フセイン・ジスリー(一八四五~一九〇九)によると、アッラーがそれらに与えられた特性のおかげで、それらは空気やエシル(宇宙を満たしている細かい物質)、あるいはそれに似たような何らかの物質から好きなだけとって、濃度をあげることによりそれに好きな形を与える。それをちょうど服のようにして、その服に入って人々の前に姿を表す。イマーム・シブリー(一八五七~一九一四)は、アブー・ヤーラー(死一一三一年)の通告を元にしつつ、幽精や悪魔は自ら形を変えることはできず、そのような力や可能性を持っていないこと、ただアッラーが彼らに教えられた言葉や御名を、ちょうど暗号係のようである存在に言った場合に、アッラーが彼らの姿や状態を変化させられるのだということを述べている。これは、自らの世界から他の世界へ、その世界固有の媒介を利用して移るための、あたかも国境で唱えなければならない言葉、示さなければならないビザ、あるいは兵士が通過するために問う暗号のようである。幽精や悪魔は自らの能力や意志ではこの変化を生じさせることはできない。やろうとするとその構造が破壊され、その生命を失うのである。

幽精の一種である悪魔も、人の形をとることができる。事実、悪魔がバドルの戦いの前に、ナジド人の老人の姿でクライシュ族の前に現れ、彼らが用意していたわなについて挑発的な案を示唆し、方策を与えたことが伝承されている。同様に、別の件として、戦利品の見張りに立っていた教友が、悪魔が戦利品に害を及ぼそうとしているところを捕らえ、それが懇願した為解放したことが伝えられている。三度同じ事が起こったので、悪魔はアッラーの使徒のところに連れていかれることになった。悪魔は教友に「放しなさい、そうすれば我々からあなたたちが身を守ることのできるものを教えよう」と言った。教友が「それは何か?」と尋ねると、悪魔は「アーヤトル・クルスィ(御牛章の255節目)」と答えた。この出来事が伝えられると、預言者は「悪魔は嘘つきだが、今度は真実を語った」と言われた。

クルアーンにおいては、幽精たちもクルアーンを聞いたこと、その件に関する活動が示されている。「幽精(ジン)たちは『私の人々よ』と言った。『わたしたちはムーサーの後に下された啓典を確かに聞きました。(それは)それ以前に下されたものを確証し、真理と正しい道に導くものです』」(砂丘章46/30)

ハディースにおいても預言者が幽精たちにクルアーンを読まれたこと、布教を行われたことが様々な伝承によって明らかにされている。これらのハディースの一つにおいてはイブン・マスードが、別の一件ではズバイルが、ある地点まで預言者ムハンマドに同行している。

幽精たちは、人の形をとることができるのと同様に、動物の形で現れることもできる。蛇やサソリ、牛、ロバ、そして鳥の形で現れたことが語られている。実際、ナフラ渓谷で、預言者ムハンマドは、彼らの服従と保護を承認した際、サソリや犬のような動物の姿で現れないように、本来の姿か、何らかの好まれる姿をとって現れるようにと提言しておられる。そして共同体(ウンマ)に対しても「あなた方の家でそういう動物を見たら、まず、三回、アッラーのお喜びのために去りなさい、と言いなさい。もしかしたらそれは幽精であるあなた方の友人かもしれない。もし去らなければそれは幽精ではない。もし害を与えるようであれば殺してもよい」とおっしゃられた。これは、一つの観点から、二つの異なる族、異なる種、異なる階層の間の相互の保証のようなものであった。だからこそ、幽精たちもこの提言に対して「もしあなたのウンマが、何事においても神の名を唱え、全てを守るなら、私たちは彼らの食べ物、飲み物から食べたり飲んだりしないでしょう」と約束した。

もちろん、幽精たちが私たちの食べ物をどのように利用するのか、知ることはできない。おそらくは空気から、おそらくは臭いから、もしかしたら腐ってしまった状態から益を得ているのかもしれない。事実、あるハディースでは「牛糞や骨で清めを行なってはいけない。それらはあなた方の兄弟である幽精の食べ物である」と仰せられているのである。

10.幽精たちと接触を持つことはできるのか

一部の人々の魂は、幽精との接触に都合がよくできている。容易にトランス状態になることができ、私たちの世界の外へと抜け出すことができる。そして彼らの世界、彼らの境界、彼らの言葉、彼らの伝達方法によって通信することができる。これは一つの天性の問題である。ただ、この点から人間としての優位性は見出されるべきではない。そう、目に見えないこの力が従っている、一定の原則がある。そのため人は、いつでも望むままに幽精たちに何かをさせることができるわけではない。なぜならそれらは、アッラーが命じられた範囲外で何かをすることができないからである。人は、自身が到達した一部の美名や言葉を、秘密の鍵を開けるかのように用い、幽精たちと接触を持つことができる。しかし、幽精たちは自分たちに与えられてはいない可能性を用いることはできないのである。だから、全ての人が幽精たちから受益できるわけではない。利益を得る人たちも、幽精たちを全ての望みのために利用することはできない。ただし、いくつかの言葉を一定の形で、一定の繰り返し数で読んで、幽精が持つそれぞれのコードを電話番号か何かのように利用し、幽精たちと交流を持つ人も少なくはない。

いくつかの方法、手順があるが、幽精と接触するためには導き手やガイド役が必要となる。そしてその業の達人とならなければならない。方法や原則、導き手がいなければ、間違ってしまったり誤ったことをしてしまったりして、危険に陥る場合もある。こういったことに関わる人の目は、内面の意義の世界には開かれておらず、自分たちの行くべき道がわからないままでいると、悪い魂たちの攻撃を受けてしまう。悪い魂の支配下に入り、それらのおもちゃとなってしまう。結果、幽精たちはこういう人たちのうぬぼれや誇りをあおり、つけあがらせる。しかるべき場合、時が来ると、その人々を怖がらせ、脅し、影響下に置く。そして思うままに話させ、行動させる。20世紀においてインドのミルザ・グラム・アフマド(一八三五~一九〇八)はこのようにして悪い魂たちの犠牲になったとされている[iii]。彼はインドのヨガに対立する托鉢・乞食修行において、イスラームの名においた闘争をしようとしていた。しかし悪い魂たちの攻撃を受け、彼らのおもちゃとなっていたのだった...。悪い魂たちは、まず彼に、自分が宗教に新たな様式を獲得させる存在なのだと思い込ませた。それから、人々に正しい道を示す者なのだと、次にはメシアなのだと彼に思い込ませた。ついには、―絶対にないことであるが―「アッラーは私に入ってこられた、私において見出される」と言うまでに至ったのであった。

11.幽精たちは人間にどのような状態で害を及ぼすのか

幽精たちは、信仰を持つ人々に対しては、グスル(大浄)の清めを必要としている状態、あるいは生理中において、礼拝やウドゥー(小浄)のない生活をしている人々に対してはまたそういった状態においてつきまとい、彼らを様々な形で、様々な段階においてそそのかす。罪が一つ犯されたなら、それぞれが悪魔や悪い幽精たちに向かって開かれた扉や窓となるのである。特に、繊細な人たち、異常のある魂の持ち主たち、お祈り(ドゥアー)や祈りを捧げる人々の雰囲気から遠い、高慢な生活を送る人たちは、容易に幽精の影響下に入ってしまいえる。もちろん、幽精の生活圏や権利を侵犯すること、アッラーの名を唱えずに家や住処を占領することも、幽精から害を被る重要な要素となる。だから預言者ムハンマドは、我々がけがれた場所に入る際には祈りを捧げることを教えられ、彼らがいる屠殺場、ごみ捨て場、浴場、干草置き場、トイレ、さらには墓場で礼拝することを禁じられておられるのだ。こうした場所は、悪魔や悪い魂の溜まり場であるからだ。そう、預言者ムハンマドは、トイレに入る際に「アッラーフンマ インニー アウズ ビカ ミナル フブスィー ワル ハバーイス」と唱えることを教えられておられる。そして生活の全てのシーンで祈りと共にあること、この種の害を持つ矢の標的にならないよう保証する砦や盾といえる、清潔な環境にいること、清らかな人々と行動を共にすること、祈りによってふさわしい環境を作り出すこと、そして崇拝行為によって身を守ることを命じられておられる。

だから、幽精のもたらすあらゆる害から身を守りたい人は、何よりもまず罪からしっかりと遠ざかり、幽精が入ってくる穴をふさがなくてはならないのだ。

12.まじないは真実か

「まじないなど存在しない、私は信じない」と言う人は、このテーマを宗教から派生するものと見なし、その憎悪が要するところとして否定する教えの否定者か、あるいは何かを学んだり聞き及んだりすることなく、この世で生きているのかどうかもはっきりしないのんきな人たちである。私自身がモスクで会った、五十歳を超えた老人がある時私に次のように語ってくれた。

「私は去年までまじないなどというものは信じませんでした。そういう時、親戚の一人が神経に異常をきたしてしまったのです。発作が起こると硬直したようになり、目が一点に据えつけられたようになるのです。私たちはあらゆる医者と、あらゆる幽精使いを訪ねました。最後に行ったところで、こういったことを扱う人が、章句を読んだり、その他いろいろなことをしてくれました。帰り道私たちは車に乗りましたが、この親戚は全く聞きなれない声で『ここはどこだ? 私はどうしたのだ?』と言ったのです。私たちは驚くばかりでした。それから私は理解したのです。まじないと言うのは本当にあるものなのだと」

まず、クルアーンは、妻と夫の間を引き離す術について触れている。(雌牛章2/102)そしてスライマーンとムーサーという預言者たちの時代のまじないに関する出来事を詳細に語っている。

二番目として、あるユダヤ教徒が預言者ムハンマドご自身にまじないをかけた。預言者がその影響に苦痛を感じ始められると、まじないに使われた材料が、天使の示唆によって、それが投げ込まれていた井戸から取り出され、クルアーンの最後の二つの章が読まれ、アッラーはその災いを遠ざけられたのであった。[iv]

三番目として、人生において非常に多くの出来事や例えがあるもので、私自身が見たものだけをお伝えするとしても、二十ページ、三十ページは費やしてしまうだろう。しかし右で述べた例は、その同種の事象をも紹介する存在であることから、思い起こしてもらうべく言及することを望んだのである。

そう、ハディースの述べるところによっても、邪視が真実、つまりその影響が起こりえるものであるように、まじないの影響もありえるものであり、また実際にあったものである。ただ、他人にまじないをしかけ悪行をなすこと、妻と夫を引き離すこと、この方法によって人々をお互いに貶めること、効力があろうとなかろうとそういうことに努力を払うこと、まじないを行なうこと及び行わせること、まじないを行なう者や行わせる者を助けること、これらは絶対的なハラーム(宗教上禁止)であり、罪である。ハラールであると信じて行なうこと、行わせることは教えへの憎悪となる。しかし、誰かが本当に幽精やまじないの影響を受け、苦痛を感じているのであれば、章句を唱えることによってその人を苦しみから救うことは、おそらくは善行である。ただし、これは一つの技術、職業、仕事とされるべきではない。なぜなら私たちは、クルアーンやスンナ(預言者の慣行や言葉)において、このテーマに関することを何一つ知ることができないからである。預言者ムハンマドは幽精たちとお会いになったが、それはその預言者としての務めの一環として行われたことであり、このお方は幽精たちにとっても預言者であられることから、彼らに布教をなされ、彼らから誓いの言葉を得られ、そして彼らが負うべき責任を教えられたのである。これ以外に、幽精たちといかに接触すべきか、彼らにどのように使うか、まじないはどのように行われるか、どのように取り除かれるかというようなことについては一切関わられなかった。同様に、その輝かしい布告においても、このテーマに関することは一切見つけ出すことはできない。しかし、幽精が接近するポイントや、その害、悪い幽精たちから逃れる方法は示されておられる。ただ、一般的な意味において、ウンマがこの問題に関わることは賛成されていないにしても、一定の能力、魂の力の持ち主、そして内なる意義というものに目が開かれている人たちが、幽精を有意義な方向で利用することには、おそらくは何も差し支えはないはずである。なぜならクルアーンには、この方向における、一部の預言者たちの手によって示されている、一つの到達点が存在するからである。

13.将来、幽精を活用することはできるか

クルアーンでは、預言者スライマーンに、鳥たちや幽精たちからなる軍隊があったこと、幽精が砦や貯水池やなべなどを作ったこと、彼らの中には建築の名人や海に潜る潜水夫がいたこと、さらには数キロ離れた地点からサバア国の王女ブルキスの玉座が一瞬で持ってこられたことなどが記されている。(預言者章21/82、蟻章27/39、サバア章34/12、サード章38/37)

これらの章句は我々を、物理を超越した世界に導き、形而学的な出来事を紹介し、幽精や悪魔や霊的存在と心や感性の言葉で会話できるある世界を案内している。人間は、まだこの件において初歩の初歩、よちよち歩きをしている状態である。テレパシーや、魂との会話、幽精や悪魔と最大の範囲における交信といったことを行ない、彼らを命令下に置き、何かをさせるということという上での覆いに、ようやく隙間が開き始めたばかりなのだ。物質に関わる研究では解決されないテーマとして、目に見えない世界や生命体に取り組むことの必要性が感じられるだろう。そして、異なる世界からもたらされる暗号を解くために、清いもしくは悪い幽精たちへの必要性が生じてくるだろう。交信が増えるに従って、彼らを活用する傾向も増えるだろう。

先に述べたクルアーンの部分で表現されているように、幽精たちは預言者スライマーンに奉仕していた。全ての預言者は、アッラーの御名のうち一つに到達する。同時に預言者たちは、自らの名にも到達している。スライマーンという名におけるしるしと意味は、現象界及び幽玄界の上に支配を及ぼすということである。このような名前の要するところとして、その預言者の一方の手は現象界を、もう一方の手は目に見えない世界を治めることができ、戦いにも加わることができる。これは、他の預言者たちにおいても時に、そして奇跡的に実現していたが、預言者スライマーンはより高い段階にあった。さらに、ここには、信心やクルアーンのために奉仕する集団が身に付けなければならない手段や方法へのサインも存在する。

預言者たちは道具や物質的な媒介を用いずに、幽精たちを服従させ命令下に置き、彼らを媒介として交信を行ない、彼らに仕事を行わせ、この場面における最高の神秘を示した。クルアーンの表現によるなら、命令を受けた幽精たちは聖スライマーンが彼らに望む全てを実行している。完成された優れた芸術性を持つ作品を示し、芸術の進歩や発展にあたっては、幽精たちは人間たちへの大きな支えとなった。将来、幽精たちは同様の場面でもっと広い範囲で活用され、彼らを活用する者は最後の石を置くべきところに収めることになろう。

さらにクルアーンでは、先にも触れたように、預言者スライマーンが幽精たちを海底に潜らせるという形でも活用していたことを明らかにしている(預言者章21/82)。テレパシーはこのことに関係があるかもしれないし、ないかもしれない。しかしいつか、どのような形であろうと、食料を保証しつつ、幽精たちと三ヶ月、五ヶ月、海底にとどまることができるだろう。なぜならアッラーの一人の預言者は、私たちに、このテーマにおける最高の到達地点を示しているからである。

戦いにおいても、幽精たちを広い範囲で活用できるであろうということを、クルアーンの言葉は示している。大国が技術やテクノロジーの分野でこれまで行なってきた競争において幽精を活用し、通信に際しては傍受の心配もなくなり、幽精の非常に高速な移動能力を利用することによって、無線や電報、コードや暗号や鍵の入手といった点で、幽精を役立てることができるだろう。奇妙なことではあるが、この件で今日最も努力しているのは、精神に対して最も閉鎖されている国家である、ロシアと中国である。

幽精との会話を可能とすることも、治安に関わる機構の役に立つだろう。発生した、あるいは発生しつつある何らかの動きや、団体による事件等も瞬時に中央に知らせ、制圧することが可能となる。もしかしたらその時には、幽精たちの中から刑事や治安管理者などが現れるかもしれない。

そしていつか、人々には秘密というものがなくなるだろう。幽精や悪魔は、すべての秘め事、隠された面を明らかにするだろう。皆、最も秘められたことを知ることができるようになるだろう。

しかし人間は、全てにおいて霊的存在や幽精のやることを信じるようになり、この面における発展の結果として、幽精をこの形で利用することはある意味、アッラーやクルアーンへの否定への道を開くだろう。結果として人々は、魂の満足のために、これらを利用することもありえよう。

預言者章第82節は、幽精たちがもっと他の作業をも行なっていたことを明らかにすることによって、おそらく、幽精たちが将来私たちが知ることもできないような、予想もできないような多くの仕事で活用されるようになるであろうことを示している。あなた方はこれを、千年分の出来事を本にすることと考えることもできるし、あるいは地面の下への到達、地下の鉱物への到達、あるいは海底で何世紀も見つからずにいた沈没船の発見、新たな豊かさへの源の発見、あるいは幽精の宇宙飛行士、幽精の衛星としての活用によって様々な知識を得ること、などと考えることもできる。ただし、いつでもそうであるように、この場合においても、私たちが示唆したこれらの知識の後に「全ての真実はアッラーがご存知である」ということを忘れてはならないのだ。

14.幽精は病気の原因になりえるか

幽精は、物質に影響を及ぼすことのできる特性をもつ存在である。「幽精はこういうものである」ということはできなかったとしても、幽精が細やかで、目には見えず、影響力をもつ存在であることは明らかである。簡単な例をあげるなら、レントゲン光線は人間の脳に容易に入り込むことができるし、一定の光線は物質を溶かして構造を変化させることができる。これらの光線よりさらに細かい存在である幽精が、なぜ人間の脳に影響を及ぼせないということがあろうか。そう、幽精は人間の生理学的な構造に影響を及ぼし、各種の害を及ぼしえる。血管や脳の中枢部分に干渉を加えることがありえる。

レーザー光線は、一九六〇年代まではSF小説に登場する想像上の武器であった。しかし、T.Warmanが最初の赤色レーザー光線を確証してから発達を遂げ、今日、コンピューターから通信まで、核を用いた武器の工場から警察の捜査まで、さらには医学に至るまで、多くの分野で使用されている。例えば、四十年前に行われたある犯罪における、どんな器具を使っても確定できなかった指紋を、レーザー光線を用いて明らかにすることができる。多くの機械を使っても見ることができなかったものが見られるようになったのだ。もっと重要な例として、血管の中を血液と共に流れていき、詰まった血管を広げるためにも使われる。目の手術での使用はそのうちの一例である。

一方で、私たちが肺に吸収した空気の中の酸素は、血液をきれいにし、血管に入る。ここでは、言葉の王に言葉を譲ろう。「悪魔は、人間の血液が巡るところを動き回る」。あたかも白血球か赤血球のように...。

こういう状態において、悪魔を初めとして、幽精たちが人間に害を及ぼす形で接近し、肉体的、精神的な苦痛の原因となることは可能と思われる。悪魔の接近、それによる傷、そしてそれから身を守る手段については次の項目で触れよう。

悪魔と幽精たちは、直接、生理学的な病気の原因にもなりえる。白血球に乗って血管の中を動き回ることができるのであるから、これはいつでも可能となる。これを誇張することもないが、医者たちもこれを否定するべきではない。つまり、誰かが「ガンの細胞の異常の原因になるのもこの悪い魂かもしれない」と言った場合、あなた方がこれに反対して「ありえない」と言ったとしたら、その場合先入観にとらわれたことになる。もしかしたら状況は本当にこの通りなのかもしれない。少なくとも、考えは閉鎖的であってはならない。ガンについてこれまでに言われてきたこと、行われてきた定義づけなどのうち最も論理的なものは、それが細胞の異常であるということである。私たちの体の最も小さな一部分の異常...。つまり、体の通常の均衡と秩序が壊れること、正常な細胞の発達が失われること...。これは内部器官にも、外部器官にも起こりえる。同様にガン細胞には、ゆっくりした増殖も急ピッチの増殖もある。幽精たちがガン化した部位に定着し、組織活動のように細胞に異常を発生させることはいつでもありえる。幽精が目に見えない存在であるように、ガンも最初は明らかにはならず、後になってその存在に気づかせるのだ。そして気づかせた頃にはもはや、薬が効かなくなっているのである。

ガンと同様、神経の病気も悪い魂の影響によるものと見なすことも、論理的であるはずである。もしかしたら幽精たちが、脳の一部の細胞や腺の正常な働きと機能を妨げているのかもしれない。

また、悪い魂は、人の知能を破壊し、神経システムに影響を与え、精神の異常へのきっかけにもなりえる。とはいっても、医者たちは、統合失調症の全ての種類を物質に帰し、またその一部を遺伝的なものとする。しかし、幽精たちが血管に入り、人のバランスを崩すこと、神経システムを荒廃させ、時には正常であったとしても時として異常をきたすことは、ありえることである。誤解しないでほしいのだが、癲癇(てんかん)や統合失調症が絶対に幽精のしわざであると言っているのではない。ただ「そうであることはありえる」と言っているのだ。なぜならこの種の病気は、多くの場合、祈りを捧げている人が真剣に章句を唱えることによって回復してきているからである。

私たちの友人の一人が、ある年老いた女性からの祈りの願いを知らせてきた。この年老いた女性について医者たちは「ガンが転移して、あちこちが侵されている。あと一週間持つかどうかです。連れて帰って最後の日々を自宅で過ごさせてあげてください」と言っていた。この女性は私に対していい感情を持っていたようで、友人を仲介にし「祈っていただきたい。そうすれば健康になれる」と言ってきていた。この罪なき女性のためにどういうお祈りをしたのか、今は思い出せない。六ヵ月後、その友人に「あの女性はどうなりましたか」と尋ねた。「生きています」という返事だった。それから二年程が過ぎて、再度どうしているか尋ねた。「巡礼に行ってきました。今は孫の面倒を見ています」という返事を得たのであった。

また、やはり癲癇の患者が連れてこられた。常に具合が悪く、発作を起こしていた。ある師がクルアーンを開き、数章を読んだ。病人は健康を取り戻した。こういった出来事を物質の機能によって解明することは不可能である。薬を患者に与えることによって、その脳に一定の干渉を行なうということを成し遂げることができるように、章句を読むことも回復の原因となり得るのである。

もう一つの例を示そう。私のおばは、精神に異常をきたしてしまった。そして何でもかんでも燃やしたり壊したりし始めた。鎖によってのみ、抑えることができた。病院の四階から身を投げ、しかし何ともなかった。その夫はある師を訪ね、何かを書いてもらい、それを持って戻った。「私をどうしてこんな鎖でつないだの?」と彼女は言って、泣き始めた。驚いたことに、おばは回復したのであった。

医学や医者たちが克服できない、非常に多くの出来事がある。ほとんど毎日、一回は耳にしたり、体験したりしている。最後に、何年も前にワルシャワの交番で警備員をしている人が体験し、説明してくれたある出来事をお伝えしたい。この男性の最初の七人の子供は、皆生まれて十七日目に窒息して亡くなっていた。ついに、ある先生に、いくつかのことを書いてもらった。その後、八人目以降の子供は生きることができるようになったのだった。

現在、ヨーロッパやロシアにおいて目に見えない力を、通信のような一部の仕事に活用し始めたとしたら、おそらく将来は、幽精による病気に対抗するための祈りや、それに類似する治療方法を利用するようになるだろう。さらには、もしかしたら幽精たちによる治療が一般化し、大学でもそのための講義が行われるようになるかもしれない。今日においてさえ、潰瘍の治療で暗示を用いた手段をとる医者たちがいる。音楽を聴かせ、病人の気分を高揚させる治療方法も試されている。これら全ては、魂の存在と、治療においてさえ精神がどれほど重要かということを示す。こういう状態において、意思を持った悪い魂たちや、病気の原因となる幽精たちの存在を否定することに何の意味があるだろうか?

15.悪質な魂や幽精たちの災いから身を守るために何をすべきか

まず、イスラームの原則に従わなければならない

第一の、そして最も確実な手段が、アッラーとその使徒と、十分にいい関係を築くこと、イスラームの教えの原則を私たちの生活で実践すること、精神において深みを増し、清らかな状態で自分たちの世界を生きることである。一方でこれらを実践し、また一方では、悪い魂たちがしのび込むような隙間や罪の窓がないようにしなければならない。魂に開けられた割れ目は、彼らがしのび込むもととなりえる。

行動や言葉によるお祈りによって、アッラーに庇護を求めなければならない

幽精たちや悪い魂たちの災いから身を守るために二番目に重要な要素は、祈りを、しもべとしての務めの一部分、我々の武器として、常に欠かさずにいることである。そう、身を守る際には、態度も言葉も、内面も外面も、動作も言っていることも皆完全で一致していなければならない。

祈りは、行動と言葉の二種類からなる。農民が畑を耕し、管理し、種を蒔き、水をやることは行動による祈りである。それから手を差し伸べ「主よ、お恵みをお与えください。恵みの雨を豊かに下してください」と懇願することは、言葉による祈りである。一つ目の祈りがなされずして二つ目の祈りがされることは、人に何も獲得させない。逆に、ただ行動による祈りだけでよしとすることは、幸運や恵み、さらにはしもべとしての務めを半端なものにしてしまい、これら全ての行動が、頭に1という数字のない0の行列のようなものになってしまうだろう。

例えば、一人の信者が「アッラーよ、信者たちに勝利をお与えください」と祈りを捧げたとする。これは素晴らしいことである。しかし、それで十分というわけではない。なぜなら、片方の翼だけで鳥は飛べないからである。預言者ムハンマドが、バドルの戦いの前に不足なく準備をされたこと、それからその存在の全てをかけてアッラーに向かわれ、お祈りしたことは次のことを示す。行動による祈り、すなわち要因の範囲においてやるべきことを行ない、可能な限り要因に配慮し、それから言葉による祈りのために手を広げるのだ、ということである。

このように、体に悪いところや病を見つけた時に医者にかかること、薬を服用することはそれぞれが行動による祈りである。それに続けて、健康を与える存在であられるアッラーに手を広げ、回復を祈ることは言葉による祈りである。時にはただアッラーに向かい、言葉によるお祈りするだけで頭痛や歯痛が治ることもある。しかし時には、アッラーのお望みが他にあり、医者にかかることが求められる。預言者ムハンマドは「アッラーは全ての苦しみに方策を与えられる。治療を受けなさい」とおっしゃられ、行動による祈りを我々に奨励されておられる。ただ、先にも述べたように、私たちは健康はアッラーからのものだと認識し、しもべとしての務めとして言葉による祈りを常に行なうのである。ただ、時には、言葉による祈りだけでは不十分なように、行動による祈りも十分とはならないことがある。アッラーは、健康を、時には二つの祈りに、また時には一つだけの祈りに関係付けられる。全てがその御手のうちにあるのである。

言葉による祈りが何であるかを知りもしないにも関わらず、健康のうちに、楽しさに満ちた人生を送る人はたくさんいる。逆に、薬を服用し、常に祈りをしているのにも関わらず、かつアッラーに心から結びついている人であるのに、その人生が困難さに満ちていることもある。こういう状態に対し、私たちは祈りが認められなかったと考える。しかし、認めることとそれに応えることは別なのだ。全ての祈りは聞き届けられ、応えられる。しかしこの応答は、望まれたものがそのまま与えられるという形でもありえるのと同様、遅らされ、後になって与えられることも、この世ではなくあの世で与えられることもあるのだ。これは完全に、アッラーの英知によるものとなる。あなた方が医者を呼んだなら、医者もそれに応じてやってくる。しかし「私にこれこれの薬をください」と言った場合、医者はその薬をそのまま与えないことがある。適当と見なす薬が何であれ、それを与えるのである。適当と思えなければ与えない。もっとふさわしいもの、もっと効果があるものを与えるのである。―比喩が誤りでないことを願うが―アッラーも、しもべの祈りを常に聞かれておられ、聞かれているということを知らされ、しもべの心に安らぎをもたらされる。なぜならアッラーは、人にとって、大動脈よりもなお近い存在であられるからである。

しかし、その英知が要するところとして、しもべの求めるもの全てはお与えになられないかもしれない。これは、しもべにとって効果のありものであるだから、あるいは後でもっと適した形でお与えになるであろうから、である。富の持ち主はアッラーであられ、その富を望まれるままに処理されるのだ。恵みも、制圧も、どちらもよいものである。アッラーは無意味なことはなされない。何かをなされたとしたら、そこには千の英知が存在するのである。

さらに、絶対に知っておくべきことは、祈りも、礼拝のように一つのしもべとしての務めだということである。純粋に、偽りなく、別の意図など持たず、見返りを待たず、この世で前もって与えられる結果を待つこともなく行われるべきである。人は純粋で透き通った心でアッラーに向き合い、そのご満悦を求めなければならない。アッラーは時に、そのやさしさと気前よさによって恵みを授けられ、しもべを喜ばせられるのだ。だから、すぐに結果が現れるように、すぐに目的に到達できるようにと行われる祈りは承認されないかもしれない。純粋でアッラーのご承認を求めるものでない祈りは、承認という地点まで至ることが可能とならないかもしれない。

この世での前もっての結果のために何度もしつこくお祈りするべきではない。しかし、アッラーの扉においては絶え間なく、忍耐強く求めなければならない。アッラーにお助けを乞い願うことから一瞬でも遠ざからず、常に適したものを求めること、罪が枯葉のように舞い落ち、美徳や人間としての価値を高めるその扉に信服すること、忍耐すること、そして我々が試練の場にいることを忘れず、結果をあの世において求めることが、誠実なしもべとなるために必要なのである。

アッラーのご視点で承認されている人の祈りを求めなければならない

アッラーのお側においてその価値が意味を持つ、またその祈りが承認される人たちに頼み、祈りしてもらうよう求めることも、重要で効果の高いものである。実際、預言者ムハンマドにも、この形での申し込みが多くされていた。アフマド・イブン・ハンバル、アブー・ダウード、そしてタバラーニーの伝承において、ウンム・ハニが伝えている。「アッラーの使徒に、気が違ってしまった子供が連れられてきた。預言者はその子に触れられ、『アッラーの敵よ、去れ』と言われた。それからその子の顔を洗い、お祈りした。子供は完全に治ってしまった」

私たちも、信頼できる人に願い出て、祈りを求める。アッラーが望まれるなら治癒をお恵み下さる。

幽精の影響を受けた場合、すぐに幽精を操る人に頼るのであれば、これは我々において迷いの原因になりえる。そして精神的な力を破壊しうる。この人を頼っては二つのお守りをもらい、別の人を訪ねては二つの護符をもらい、哀れな病人をお守りの運搬人のような有様にしてしまう。これらのお守りの一つがなくなったりすれば、病人はおびえ、恐れ始める。そして失望に陥る。つまり、回復を求めているつもりでもっと悪化してしまう。

それから、こういったものにはあまり熱中しないことも必要である。なぜなら、信頼できるハディースの出典によれば、預言者ムハンマドは、七万人の人々が問答を受けずに天国にいけるであろうという吉報を伝えておられる。この人々とは、腕にかける祈りの紙を用いない人、運勢占いやお守りなどに重きを置いたりせず、アッラーを信頼する人々とされているからである。だから、祈りを放棄せず、アッラーを信頼することが最善なのである。アブドゥラー・イブン・アムルは、子供たちに祈りを教え、まだわからない子には書いてやって守った。

信仰を持つ医者、精神医にかかるべきである

この件における更なる薦めは、物質主義者や宗教を否定する人ではなく、魂や、幽精や、それらの影響を信じる医者、精神医にかかるということである。信仰を持たず、心や魂の栄養失調や安らぎの不足のため、良心と感情の間の均衡を保てず、不均衡な生き方をしている医者たちは、悪質な魂の攻撃を受けた人々をさらなる泥沼に追いやり、苦しい状況にありストレスを溜めている患者に「外に出て女性と交流を持ちなさい。食って飲んで楽しんで、いやな考えを忘れるようにしなさい」と言う。このような進言は、渇きに苦しんでいる人に海水を与えるようなものである。そもそも、病人を病人たらしめるものは、良心の敗北や思考の衰え、悪質なものと共にいること、などである。そう、こういった見方をとる医学も医師も、一方の目だけを持っていると見なせる。なくしてしまったもう一方の目を見つければ、将来、正しく見ることができるようになるだろう。

アーヤトル・クルスィ、黎明章及び人々章、その他の祈り

まず、アッラーに助けを求め、庇護を求め、その御加護を求めることが、このテーマにおける最も重要なところとなる特質である。アッラーがクルアーンにおいて、命じられておられることもまたこれである。「それからもし、悪魔の扇動が、あなたを唆したならば(どんな場合でも)アッラーの御加護を祈れ。本当にかれは全聴にして全知であられる」(フッスィラ章41/36)つまり「アウーズ ビッラーヒ ミナッシャイターニッラジーム」と言いなさい! 

また、信者たち章の97と98節を暗唱して読むことも、ここで推奨しておきたい。

アーヤトル・クルスィ(御牛章2/255)は、預言者ムハンマドによって推奨されている。ある教友が、ザカートである財産に手を出そうとしている人間の様相をしていた悪質な魂を捕らえた。この悪質な魂は「放せ、あなたに我々から身を守る祈りを教えよう。それはアーヤトル・クルスィだ」と言った。この教友は、その悪質な魂が悪魔であることを知らずに開放した。預言者ムハンマドも「悪魔(シャイターン)は嘘つきだが、今度は真実を語った」と明らかにされたのだった。

預言者がユダヤ教徒たちによってのろいをかけられた時、黎明章と人々章を読むことによってのろいが解かれた。さらに、預言者ムハンマドは、アーイシャの言葉によると、朝晩「三回ずつ、黎明章と人々章を読まれ、手を合わせて両手の平に息を吹きかけられ、その両手を体の届く限りのところにこすられておられた」と言う。また、朝晩三回ずつ「ビスミッラーヒッラズィー ラー ヤドゥッル マアスミヒシャッユン フィラルディ ワラー フィッサマーウィー ワ フワス セミーウル アリーム」(アッラーの御名において、地または天にある何もかれに害を与えることができない。かれはすべてを聴き、すべてを知っているお方でおられる)と言われた。これは、―アッラーのお許しによって―麻痺にかからないための保証でもある。また「アウズ ビケリマティッラーヒッ タンマーティ ミン キュッリ シャイターニン ワ ハンメーティン ワ ミン キュッリ アイニン ワ ランマーティン」(すべての悪魔(シャイターン)と有毒のもの、そして悪意を持つ人の目からアッラーの欠陥のない御言葉に加護する)も、推奨され実践された祈りの一つである。

イマーム・ガザリーのこの件における推奨は、1回「ビスミッラーヒラフマーニラヒーム」、十回「アッラーフアクバル」、十九回「ラーユフリフッサーヒル ハイス アター」(魔術師は何処から来ても、何事も成功しない)ターハー章20/69と「ミン シャッリン ナッファーサーティ フィル ウカド」(結び目に息を吹きかける(妖術使いの)女たちの悪から)黎明章113/4を、を繰り返すことである。

また別の人の推奨によると、毎回、まず一口の水かチャイ、スープを飲んでから、先にあげた二つの章句が読まれ、それが十九回繰り返されるべきという。

このテーマではまだまだ多くの祈りがあり、ハディースの本を参照するか、よく知る人に尋ねるべきである。さらに、バドルの戦いに参加した教友の名や、ジャウシャン(参照脚注11)、カスィーデイ・ブルデ(教友の一人が預言者について書いた詩)も推薦される。

16.お祈りによって幽精や悪質な魂から救われた例

私の近親者の一人が麻痺にかかった際、彼のために一週間カスィーデイ・ブルダ(教友の一人が預言者について書いた詩)が読まれた。アッラーのお許しにより、一週間後彼は回復した。

私がとても愛するある友人の妻は、結婚してまもなく、幽精による兆候を示し始めた。硬直し、何もわからなくなり「やつらが来た!」と言っていた。彼らはあらゆる医者を訪ねた。トルコの有名な精神病医アイハン・ソンガル教授もかなり彼女と関わった。それから、アッラーは別の扉を開かれた。こういう状態にある人のために章句を唱えるある師が、一ヶ月間彼女を訪ね、章句を唱え、そしてアッラーのお許しによって、彼女は一定の回復を見た。一度私も、バドルの戦いに加わった教友たちの名を手に、彼女の夫であるこの友人を訪ねた。また階段を上っている時、女性が「先生が来る。彼らは彼を回復不能にするらしい」と叫び始めた。私は家の中へは入らなかった。教友たちの名が記された紙を友人に渡し、彼もそれを妻の上に置いた。その女性の声は下まで届いた。「あなたたちはなぜ逃げるのですか? 聖ハムザが来たからですか?」

これをどう解明し、また何の物質的原因に結びつけることができるだろう、私にはわからない。この神聖なる姉妹は、現在完全に回復している。

ここでは、ある友人が体験したことを彼の言葉でもって紹介しよう。

「イズミルのバルチョヴァで任務についていた頃、十八歳くらいの、上流階級に属する若者が二人、私を訪ねてきた。私たちはモスクを出たところだった。彼らは外で待っていた。彼らの表情には、恐怖やあせりを読み取ることができた。びくびくした様子で私のそばに来て、『私たちはどこそこの地区で、魂や幽精を招くショーをやっていました。それはやってきて、私たちのコップを動かし、文字を使って会話していました。私たちも楽しんでいたのです。それからそれを終えました。でも、これをやめて以来、魂は朝も夜も私たちに付きまとうようになったのです。特に夜はとても困らせるのです。ベッドを動かしたり、戸棚の扉で遊んだりするのです。すっかり困ってしまい、どうしたらいいかわからなくなったので、モスクに来たのです』と言った。それから急に、『今でもその木の下の腰掛けのところにいるのです』とも言った。私は、『来なさい、モスクに入りましょう』と言った。私たちは唯一の避難所、アッラーの家に、モスクに入った。そして長く話し込んだ。私が理解した限りではこれが危険な作業であること、信仰や知識、学問や宗教的なことに関わっていくことによって、このリスクを伴う状況を脱することができることを教えた。そしていくつかの祈りを書いて渡した。

夜、自分の家で、自室に入って本を読んでいた。その時、客間で遊んでいた息子たちが部屋に入ってきて、『お父さん、脇の部屋に明かりがついてる。塀のところで誰かがうろうろしている』と言ってきた。

私は状況を理解した。昼間、彼らのおもちゃとなることから救った若者たちの報復に来たのである。彼らは私を脅しに来たのだ。私は机の上にあった祈りの本を手に取り、バドル戦役に参加した教友たちの名を唱え始めた。まだ読んでいる最中に明かりが消え、塀のところでうろついていたものもいなくなった。明らかに、彼らは私が気に入らなかったのである」

イズミルのアルトゥンダー地区のモスクで任務についていた一人の友人も、次のことを語っていた。

「モスクの尖塔に上がるたびに、後から木のサンダルの音が聞こえていた。特に、夜はよりしばしばそういうことが起こった。日没と、夜の礼拝の後、礼拝に来た集団が帰り、モスクが空になると、私は電気を消して扉を閉めるための行動に移った。何度も、私がまだスイッチを押さないのに電気が消えたのだった。これは非常に長い間続き、私は絶えられなくなって、任務を他のモスクに移した」

ハヴラン市のチャクルデレ村のある住民も、体験したある出来事を次のように語っている。

「ある夏の夜、畑を猪の群れから守るために、村の習慣として、畑にある小屋にとどまっていた。私は一人だった。そばには誰もいなかった。そばに銃を置いて、私は寝床に横になっていた。その時ドアが開いた。こんな真夜中に誰が来たのだろうと私は驚き、戸惑いながらドアから入ってきた者を見た。なんとそれは私の妻だった。手には明かりを持っていた。そんな遠いところに、そんな遅い時間に妻が来るなんてありえなかった。思い出せる限りの祈りを読んだ。訪問者は去っていってしまった。出ていく時にはドアを閉めることも忘れなかった」

「全然治らなかった」とその話は始まる。そして続く。

「あらゆる手は尽くした。医者を訪ね歩いた。一時的には治っても、すぐにまた私の手にはいぼが出来始めた。ある人の勧めで、今は思い出すことができないがある祈りを読んだ。翌日、私の手はきれいに治っていた。そして、その頃同じ悩みを抱えていた一人の若い人に、その祈りを勧めた。数日後彼と出会った時、彼はその手を見せて、『すっかり治りました』と言った」

こういった、何百もの出来事があり、それらのうちのどれ一つとして、物質によって解明することはできない。学者たちがなすべきことは、これらを全て否定して、聞かなかったことにするのではなく、この種の治療も一つの学問になりえることを認めること、この問題にこういった姿勢で取り組むことである。こういった出来事を黙殺することは誰のためにもならず、またそういう振る舞いは学問や科学にふさわしくないということは、特に今日において周知となった事実である。


[i] 訳者注 人間を地球の代表とされた神の宣言に天使たちが応えていることで示されるように、かれらは部分的な自由意志を持つ。しかし、この部分的な自由意志は、かれらが神の命令に背くことの原因にはならず、またそれを可能にもしない。このように、かれらの自由意志は人間の自由意志よりも弱い。(サイド・ヌルシ)

[ii] ハディース Muslim, Iman 1, (8); Nesai, Iman 6, (8, 101); Ebu Davud, Sunnet 17, (4695); Tirmizi, Iman 4, (2613).

[iii] YENIカーディヤーニー宗派(アフマディーヤとしても知られる)の創始者。多数のムスリムが、それは異端であるか、あるいはイスラームではないとしている。

[iv] ハディース Bukhari Tibb 47, 49, 50, Jizya 14, Adab 56; Muslim, Salam 43, (2189)

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