リダ(甘受)2

第1段階のリダはすべての信仰する者の義務ですが、それは自由意思に関連し、アッラーの唯一性への信仰に必要なものであるため、アッラーに近づくための道の始まりと言えます。第2段階のリダは、第1段階の続きであり第3段階の基礎となるものだという理由から、また、それによってアッラーの近くにいるということを考えるようになることから、努力して得なければならないものです。

第3段階は、自由意思や個人の努力によって得られる状態というよりは、むしろアッラーからの贈り物であるので、義務でもなければ必要なものでもありません。しかしながら、それを得たいと誠心誠意望むべきものです。この段階は第1・第2段階を包含すると言えますが、それは、(完全な)リダを熱望し、それを得るために生きることがイスラーム的人生の本質と言えるからです。しかし、それを完全に達成することは、この熱望に対して与えられる贈り物です。つまり、第1・第2段階はアッラーの美名や特質に関連したことで、それらの影や導きのうちに旅することによって得ることができる一方、第3段階はそれらに対する報奨や悟り、輝きとして与えられるものと言えるのです。

次の章句はこれらすべての段階について示しています。『かれらへの報奨は、主の御許の、川が下を流れる永遠の園である。永遠にその中に住むであろう。アッラーはかれらを喜ばれ、かれらもかれに満悦する。それは主を畏れる者(への報奨)である。(聖クルアーン98:8)』同じことは預言者(彼の上に平安と祝福あれ)によっても述べられています。「アッラーが主であることに、イスラームが宗教であることに、ムハンマドが預言者であることに満足する者は、信仰の喜びを味わった。」

以下の考察がリダを得ようとする人々の感情や思考を導き、この旅路において直面する困難を克服し、現世的な衝動を制御するために役立ちますように。

  • 人間は、この世という舞台で上演されるアッラーのドラマの登場人物に過ぎません。そのため、私たちは常に平等あり、与えられた役割を創ったりする権利も権威もありません。個人に起こることは何であれ、アッラーによって予め定められたものであり、アッラーはこの世におけるその人の自由意思や行為、思考を考慮されて定められています。アッラーだけがこれを変えることができるのです。
  • 人がアッラーを本当に愛するならば、アッラーからもたらされるものは何であれ、歓迎しなければなりません。その英知や価値あるいはアッラーの目的を知るのがとても難しい出来事もあり、ときに私たちにとって良いことが悪い出来事の中に隠されていることもあります。『自分たちのために善いことを、あなたがたは嫌うかもしれない。また自分のために悪いことを、好むかもしれない。あなたがたは知らないが、アッラーは知っておられる。(2:216)』
  • ムスリムとはアッラーに完全に服従した者です。そのため、このような者がアッラーのなさることに不満を感じるなどということはあり得ません。信仰する者は他の人々を信じるものですが、それならばどうやってアッラーを疑うことができるでしょうか。クルアーンでは他人を疑うことが禁じられています(48:12)。とすると、アッラーとアッラーのなさることを疑うことはどれだけ悪いことでしょうか。出来事を含めてすべてのことはアッラーによって造られ定められたものであり、またアッラーの造られたものはすべて、それ自体もしくは結果として良いことであるので、ムスリムは心を平穏に保ち、常に楽観的であるべきなのです。
  • 私たちの義務や責任が、私たちが耐え克服しようとする不運や困難と同様に、来世の永遠の幸福な人生に備えるための訓練や教育として重要な位置を占めるものだとしたら、私たちは進んでその義務や責任を果たし耐えるべきでしょう。アッラーからもたらされるものすべてに対するリダもしくは満足することは、その人にアッラーも御満悦であることを意味します。アッラーのなさることやアッラーが主であることの現れに不満を感じるということは、苦難や悲嘆、不安を引き起こすでしょう。一方、たとえ大きな困難に苦しまなくてはならなくとも、アッラーの御意思を甘受することによって、安心感や楽観さを得られます。つまり、絶え間なくリダを追求することによって、アッラーの援助を呼ぶことができるのです。
  • 運命やアッラーの現れに対するリダは、幸福を得る手段としてとても重要だと言えます。これについて預言者ムハンマド(彼の上に平安と祝福あれ)は次のように明らかにされました。「アッラーの御意思にリダを示すことができるのは人にとって幸いなことであり、アッラーの御意思に対して憤りを感じることは不幸なことだ。」アッラーの御意思やなさりようを甘受することで、心はアッラーの王国からのそよ風で満たされ、不満を抱くことで、心はシャイターンから来る出来心や疑いで満たされることになります。アッラーの御意思を甘受する人々は、自分の人生を感謝という金の糸の「刺繍」にするのに対し、不満を抱く人々は、自分の最も良い作品でさえ忘恩という石臼で粉々に挽いてしまいます。このような不満を示すことは、シャイターンによる魂の侵略の最も効果的な方法の一つなのです。
  • 信仰する者はアッラーのなさることを歓迎することによって、楽園の住民に加われるかもしれません。それはアッラーから与えられた栄誉です。アッラーに満足する者は正しい導きに従っているのに対し、満足しない者は自分の幻想を追っているだけなのです。アッラーの御判断や御意思を甘受するということは、アッラーの望まれることを自分の望むことよりも好むということを意味します。逆の態度が何を意味するかは言うまでもないでしょう。
  • リダは崇拝と信仰という実をつける樹木のある果樹園のようです。罪はリダを奪われたことの結果と言えるでしょう。リダは信仰する者の内面において、アッラーに対する葛藤を防ぎ、預言者(彼の上に平安と祝福あれ)の祈願に表された真理を尊重することを意味します。「あなたが私について下された評価は、どれも真に公正です。シャイターンが自分についてアッラーが評価されたことを甘受しなかった時、最初の罪が犯されました。」
  • 人が得ることができる最高の報奨や地位は、アッラーが自分について御満悦してくださることであり、それはアッラーの御意思に対する自分のリダによってのみ得ることができるものです。これは楽園で得ることができる最善の報奨でもあります。『アッラーは、男の信者にも女の信者にも、川が永遠に下を流れる楽園に住むことを約束された。また永遠〔アドン〕の園の中の、立派な館をも。だが最も偉大なものは、アッラーの御満悦である。それを得ることは、至上の幸福の成就である。(9:72)』
  • リダはイスラームの最も重要な本質、アッラーへの信頼に基づいています。その本質はアッラーの存在と唯一性についての確信によって知ることができます。それはアッラーの愛の中に埋め込まれていて、それによって人は永遠の幸福を得ることができるようになるのです。また、それはアッラーへの忠誠と真実に根ざし、実際の感謝を意味しています。リダは、手に入れた人はすぐに目的地へ到達することができる魔法のエレベーターのようだと言えるでしょう。忍耐や悔悟と同じように、愛や誠実さはリダという環境に咲く花です。そのため、リダのない心やアッラーの御満悦を得ていない心に、そのような美徳や性質を探しても見つかりません。
  • アッラーの御満悦を得るためにした行動や言動に対して、どんなにたくさんの報奨を与えられたとしても、それは数え上げることができるものであり限られています。一方、リダとしてのこのような行いは心によってなすものなので、それに対して与えられる報奨は心の深さに比例したものであり、そのため測ることができません。

リダやアッラーの御満悦はアッラーから見て最高の地位であるため、預言者ムハンマド(彼の上に平安と祝福あれ)から全ての預言者、信仰の深い人々、純粋な学者たちに至るまで、誠意や確信、信頼、服従、自信というもので最終試験に合格した偉大な人々によって、リダは最終目的として追い求められてきました。彼らは多くの困難や障害を乗り越え、たくさんの堪え難い苦悩や苦痛に耐えてきました。次の詩はこのような人々のため息を描写しようとしたものです。

あなたに与えられる苦しみは幸運を得るよりも喜ばしく、

あなたに与えられる罰は私自身の魂よりも素晴らしく感じます。

私はに与えられる苦しみと喜びとの両方を非常に愛しています。

両極端のものをどちらも愛するとはなんと奇妙なことでしょう。

アッラーによって、この苦しみの棘から歓喜の庭へと行くならば、

私はナイチンゲールのように常にうめき声をあげるかため息をついているでしょう。

ナイチンゲールが歌い始めたとき、その旋律が棘と薔薇の両方であるとは、

なんと奇妙なことでしょう。

次のナシミによる詩も美しいものです。

私は苦しみながら愛しています、おぉ愛する御方よ、私はあなたを諦めません。

たとえもしあなたが私の胸を短剣で貫いたとしても、私はあなたを諦めません。

たとえもし私がザッカリーアのように頭から足まで二つに切られたとしても、

あなたののこぎりを私の頭に当ててください、おぉ大工でもあられる御方よ、[林1]

私はあなたを諦めません。

たとえもし私が灰になるまで燃やされて、私の灰が吹き飛ばされたとしても、

彼らは私の灰がため息をつくのを聞くでしょう。

(罪を)覆い隠される御方よ、私はあなたを諦めません。

リダもしくはアッラーに満足しアッラーの御満悦を得るという段階は、他のすべての段階を含みます。ここで歌われる旋律はこのようなものでしょう。「あなたが私に何をしてくださろうと、どのようにあなたが私を扱われようと、すべてが良いことです。おぉアッラー!あなたが愛するもの、御満悦を感じられるものへと私たちをお導きください。そして、私たちの指導者、預言者たちの長に平安と祝福をお与えください。」


[林1]「大工よ、そののこぎりを私の頭に当てなさい。」かとも思いましたが、どうでしょうか。

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