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独居と隠遁(ハルワ[Halvet])と(ウズラ[Uzlet])(独居と隠遁)

ハルワとウズラは単語の意味としては異音同義の別々の言葉ですが、語源的には両語も「独りになること・独居」と「独りで生活すること・隠遁」を意味しますが、。スーフィズムの文脈においてはどちらも修行者がアッラーへの崇拝にすべての時間を捧げるために精神的指導者の指導と監視の下で隠遁することを意味します。スーフィーたちは、自分の心の扉のうちアッラー以外のものにつながる扉をすべて閉ざし、内なる舌(心の言葉)を通してアッラーと会話することによって、彼らは自分自身を真実から隔ててしまうすべての誤った信仰や邪悪な思考や感情、想像や空想から放たれることを求めるのです。

ウズラには2つの側面があり、第一はハルワであっての1つの側面で、第二は禁欲はもう1つの側面ですです。ハルワには様々な過程があり、の最初のステップは四十日で完遂され、そのためこの修行は「禁欲の四十日の体験」とも呼ばれています。精神的指導者が修行者をハルワへと導く時、彼らは隠居する部屋へと連れて行かれ、指導者が修行者の成功を祈った後そこに独り残されます。修行者はその部屋で完全に一人で過ごし禁欲的な生活を送ります。彼らは、ウズラこの部屋では彼らはほとんど飲食することもなく過ごし、それがアッラーへと近づくことにつながる扉だと考えられています。身体的に必要とされるものは減り、鍛錬され、世俗的欲求は忘れ去られ、すべての時間がアッラーへの崇拝、瞑想、内省、礼拝、祈願に捧げられるようになります。

他人を避け禁欲的であるという側面において、ハルワは時代をスーフィズムの初期どころか預言者たちの時代にまでさかのぼります。人類への恵みである預言者ムハンマド(彼の上に平安と祝福あれ)をはじめとして多くの預言者やワーリー(アッラーに近しい人)たちが、人生の一部をウズラの状態で過ごしています。しかしながら、時間を経て彼らの本来のハルワとウズラのシステムは望ましくない変化を受けてしまいました。預言者イブラヒームのウズラや預言者ムーサーの四十日、預言者イーサーの禁欲、そして預言者ムハンマド(彼の上に平安と祝福あれ)のハルワは、たくさんの人々に異なる方法で実践されてきたため、変化変質を経てしまったのです。

これはある程度は仕方のないことだとも考えられます。ウズラは個人の心的状態、気性、精神的能力に関係することで、完璧な精神的指導者だけがその修行者がどれだけの期間どのような状況においてウズラの状態でいるべきかを知り決定することができるからです。ルーミーは修行の初期において四十日の禁欲のウズラを何度も経験しましたが、本当の、完璧な指導者に出会った時に、ウズラの状態から抜け出し、人々の中に入りました(ジャルワ)。彼の後にも先にも、たくさんの人が他の人々を避けるのではなく人々と交わることを選んできました。

ハルワの2つの側面のうちのもう1つの禁欲は、世俗的な喜びに付けられた手綱を引き締めておき、精神を人間にとって完璧とされるところまで上昇させることを意味します。禁欲を通すことでのみ、世俗的欲求は抑えられ、邪悪な衝動や情熱は放棄され、アッラーの戒律に服従するようになり、そして謙虚な態度を身に付け花壇の土のようになることができるのです。

土のようにありなさい。そうすればあなたの中でバラが咲くでしょう。
土以外の何ものもバラを育てる培地とはなりえないのです。

禁欲を通じて人は一定のアッラーの恩恵を受けることができます。知識を良いモラルで飾ることや宗教的行為を誠意や純粋な意図で飾ることができるでしょう。またそれによってアッラーとの関係と人々との関係どちらにおいても礼儀正しさを得ることもできるでしょう。このような自分の状態に気付いて、絶え間なくアッラーにより近づくための道を探し求める人たちもいます。ほかにも羽化したばかりのトンボのように、辿り着いたばかりの空という世界で蝶のような精神的な存在に囲まれて生涯を送る人々もいます。

ハルワにおいてきわめて重要なことは、修行者がアッラーのお喜び以外のものを求めることなく、絶えずアッラーの恩恵を期待して待っていなければならないということです。修行者はアッラーの恩恵を待つ間怠惰であってはならず、むしろ心に流れ込んでくるいかなるアッラーからのインスピレーションや贈り物も見逃すことがないように、そしてアッラーの御前にいるために適切な礼儀正しさや行動をもって、細心の注意を払い同時に期待した状態で心の目を開いて待っていなければなりません。ラ・マカニ・フサイン・エッフェンディの次の言葉はこの意味を適切に表しています。

魂の泉をきれいにしなさい。それが完全に澄むまで。
瞳を心に定めなさい。心が一つの瞳となるまで。
疑念を捨て、心の水差しをその泉に差し出しなさい。
その水差しが喜びをもたらす水でいっぱいになったとき、
自分の身を引き、アッラーの家をその持ち主に差し出しなさい。
あなたがそこを去るとき、間違いなくそこにはアッラーが来られるでしょう。
邪悪な盗賊を決してあなたの心の家に入れさせてはなりません。
一度入ってしまったら、追い出すのはとても困難です。

アッラーはすべての時間や空間といったものに全く拘束されません。アッラーと信じる者との関係は信じる者の心の「斜面」の上で起こります。そのため、心の「エメラルドの丘」や「斜面」は常にアッラーの現れという波を受け取る準備ができていないといけません。そうしたら、エルズルムのイブラヒーム・ハッキの言葉を借りれば、王が夜宮殿に下りられるかもしれないのです。

アッラーは預言者ダーウードに命じられました。『私のためにその家を空にしなさい。そうすれば私がその中にいるであろう。』「心を空にする」とはアッラー以外のものを心からなくし、最初にアッラーのお喜びを考えることなく他のものと関係をもたないということであるという解釈がされています。ルーミーの次の言葉がこれを適切に表現しています。

賢明で分別のある人は井戸の底を好む。
魂が(アッラーと)二人きりになれる喜びを見つけるからだ。
井戸の暗闇は人々が引き起こす暗闇よりも好ましい。
人々の脚にしがみつく人は決して頭に辿り着くことはなかった。
自分自身を遠ざけるべきなのは人々からであってアッラーからではない。
毛皮を着るのは冬にであって春にではない。

ウズラの目的はアッラー以外のものに対する愛の心を浄化することと常にアッラーと共にいることであるので、人々の中で生活していながら常にアッラーの存在を感じ、多様性の中にアッラーの単一性を絶え間なくはっきりと見ることができる人々は、常にアッラーと共にウズラの状態にあるとみなされます。しかしながら反対に、独りきりで生活していても心がアッラー以外の何ものかへの執着から解き放たれることがなければ、その人たちのウズラはごまかしにしか過ぎないのです。

常にアッラーの存在の中に自分自身を感じることができる人たちは人々から遠ざかる必要はありません。このような人々は、ルーミーの言葉を借りれば、片方の足をアッラーの命令という領域に置いたまま、コンパスの針のようにもう片足をまわして世界中を渡るようなものなのです。彼らはすべての瞬間の上昇と下降を体験します。これが預言者やワーリーたちが認められ好まれたウズラなのです。

アッラーはかつて預言者ダーウードに言われました。『ダーウードよ、なぜお前は人々から遠ざかり独りでいることを選んでいるのか?』ダーウード(彼の上に平安あれ)は答えられました。『主よ、私はあなたのために人々と一緒にいることを断念しました。』アッラーは彼に警告されました。『常に徹夜で祈り、仲間から離れてはいけない。しかし一緒にいることがお前のたすけとならない者たちからは遠ざかりなさい。』

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