政治
政治は、神と人々を満足させる方向で国の諸問題を管理する技法です。政府が人々をその力、権力によって悪から保護し、公正さによって抑圧から守る限り、それは政治として成功しており、将来的にも見込みがあると見なすことが出来ます。そうでなければ敬意というろうそくはすぐに消えるでしょう。そして崩壊し消え去ってしまうのです。あとには
憎悪と呪いに表される混乱を残すでしょう。
昔から人の社会では、利口で知識を持つ立派な活動家が政治を支配してきました。彼らは、-良くも悪しくも-その人々の中での、利口で経験ある人々でした。私たちが世界を治めるのは、私たちがこのような枠組を手にした時期にあたるのです。
良い統治と政治には、次のような点が非常に重要です。すなわち正当な考え、法の優先、任務への意識、雑多で困難な仕事への理解、細かく繊細な仕事への熟練さと能力です。
政府とは正義と公共の安全を意味します。これらが存在しない場所では、政府の存在を語ることはできないのです。
政府を粉挽き風車に例えるなら、そこから出てくる粉は秩序であり、安心であり、安全です。これらを出すことができない粉挽き風車はただの騒音によって成り、いつでもただ空気を挽いているのです。
統治者がその人々を「わが民族」ということよりも、一つの民族がその統治者を「わが統治者」とよぶことの方がより重要であり、私の考える限り、常に求められるべきものはそれなのです。そうでなく、民族がその統治者を自分たちの体につきまとう寄生虫の集団と見なしているなら、その体と頭はとっくに切り離されているということなのです。
民衆の心における国家への敬意、統治者への尊敬は、役人の暴力によってではなく、国家を支配する人々の態度と振る舞いにおける真剣さ、業務や奉仕における誠実さによって獲得されるべきです。今まで、残虐な役人たちの暴政によって、人々への欺瞞によって、それを得た人は誰もいません。
良質で良い徳を備えた国家を統治する役人たちが、その精神や考え、気持ちの高貴さによって選ばれているのなら、その国家は良い状態で強いものです。この高い品性を欠いた人々を役人として選び、彼らに仕事を任せるという不運に陥っている国家は良いものではなく、決して長続きしないでしょう。なぜなら、品性を欠いた役人の悪い態度は遅かれ早かれ、しみとしてその周囲にも反映され、人々の良心もそれによって暗くされるからなのです。
公の役人たちは法律の認める範囲内で、しかし良心の柔軟さに応じて優しい心を持つべきです。それによって彼ら自身と法律の、そして国家への尊重を守ることになるのです。極端な厳しさは予想もしなかった爆発を引き起こし、極端な柔軟さは有害な考えの急速な繁殖をもたらし得るということを覚えておくべきでしょう。
法はいつでもどこでも、そして誰にとっても有効であるべきであり、それらを実施する人も勇敢で公正であるべきです。人々は一方ではそれらに対し恐れを感じても、一方では信頼や安心を完全に失ってしまってはいけないのです。
国家は、信仰を持ち賢明で強く活動的な人々によって体現されるのに比例して、強く、安定しており、従って幸福であると見なすことができます。
庭師は若木を育て、大きくします。それらを災害や有害な事象から守ります。それから収穫の時期になると果実を集めるのです。政府と民族との間の結びつきも、庭師と若木との間の結びつきと同じものなのです。
堂々たる政府は、堂々たる民族から生まれます。堂々たる民族は、文化的力、財政的機会、広い意識を備えた各世代と、「自分であること」のために奮闘している選ばれた個人個人から生まれるのです。
各個人によってまだ成熟差を示すことが出来ていない民族の統治は、人々の中で最も知識を備え、経験豊かで熟練した人を求め、見出し、彼らに任せるべきです。一つの民族にとって、国家の業務を知識や理解力、熟練さを持たない人々に譲渡すること以上の災いは考えられません。
理解力や高貴さに欠け、国家の仕事を理解しない不運な者が、もし何かの間違いで業務についているのであれば、政府の力を利用したり、その権力を悪用したり、あらゆる場所で自分の利益を追求したり、高圧的な皇帝のように支配を行なうことをためらわないでしょう。このような人が権力を持っている国では、暴圧者たちの雄叫びと虐げられた人々のうめき声のみが聞こえるのです。この不運な声があがるほとんど全ての場所で、アードの民やサムードの民(真理を虚偽としたとしてアッラーの懲罰と戒めを受けたとクルアーンで言及されている民)のような結末が避けられないものとなってきたのです。
一つの政府、民族の誤った行為、行動、振る舞いではなく、その考えや見解を改めようと務めるべきです。このような改めにおいて最も重要な原則は、考えの統一、感情の統一、教育や教養の統一です。一つの民族を構成する各個人が異なる考えを持って育てられ、互いに意見の相違を見、意見が違うことで互いと争っているようであれば、その民族が自滅していくことは避けられないでしょう。
ある民族が強くあるために感情、考え、そして文化が統一されていることの重要性がどれほどのものであれ、分裂し、ばらばらになることに関して教えと道徳の一体化が壊れることの影響力も同じほどのものです。
あらゆることに政策というものは存在します。人々の復活を調える人々の政治とは、決して何も、自らの喜びすら考えることなく、ただ、ひとえに人々の味わう喜びによって力を帯び、人々の痛みによって苦痛を感じることによって成るものなのです。
良い統治、水準の高い政治は、白髪や白髭、へつらいや偽善によって獲得される立場や階級によってではなく、一部の控え室や小部屋で手に入れられた作り物の名声によってでもなく、気高い精神を持つ人々の傷む頭や、解放を認めない真実のしもべたちのなかで求められるべきなのです。
あらゆる家が、その家にいる人たちの教育やしつけにおいて一つの学び舎として、あらゆる学び舎が、兵士としての精神を発展させることにおいて一つの兵舎として、あらゆる兵舎が、民族の存在、存続や安定が議論される一つの議会として、あらゆる議会が、任務や権力の要するところとしてそこに持ち込まれた全ての問題を、民族的精神、民族的思考のプリズムを通して評価付けする社会の試験室として奉仕を行なっていれば、その民族は最も理想的な統治や政治の人員を所持しているということなのです。
異なる考えや異なる所見を持つということは、成熟した人たちのなすことです。しかし、社会を分裂させばらばらにし、異なる陣地へと分けてしまう異なる見解や思想に対し、寛大でいる権利は誰にもありません。なぜなら、ばらばらに分裂させられることへの寛容とは、民族の崩壊と消失を前に目をつぶることであるからです。
民族的感情や思考を分かち合わない人々については、あなたがどれほど肯定的、好意的であったとしても、彼らがあなた方に害をもたらす可能性から目をそらしてはいけません。殊に、民族や集団の存亡に関わるような点を彼らが手に入れることを決して許容してはいけないのです。なぜなら、人は自らを危険にさらす行為に出ることはありえても、民族や国家のためにそのように振舞う権利は絶対にないからです。
あなた方のように考えることはなく、世界を異なる見方で見ていながらも、非常に誠実で役に立つ人々がいるかもしれないという考えを持ち、あなた方にとって好ましくない考えに対し性急に対処してはいけません。そしてそういった考えの持ち主である人々を逃してはいけないのです。むしろ、彼らの考え方や意見を役に立てる方法を探り、彼らと対話していかなければならないのです。そうでなければ、「あの人たちは私たちのようには考えていない」という理由で一人一人遠ざけられ、あるいは遠ざかっていくその満足できていない人々は、大きな集団をなしてあなた方の前に現われ、あなた方を崩壊させるかもしれません。満足していない人々は人間の歴史を通しこれを成したと立証することはできなかったとしても、彼らが崩壊された国家の数は数え切れないほどに多いのです。
それが誰からもたらされたものであろうと、人は、自らのシステムや考え、自らの世界に益を及ぼすような知識や思考を生かし役立てることを知るべきです。特に、経験者たちの経験を役立てることを決して忘れてはいけないのです。
宗教は、統一させ、一体化させるものであるという特質を視野に入れつつ、民族を統治する人々が注視し、常にその不屈の力に庇護を求めることが必要な、非常に重要な施設のようなものです。
国家や民族の安全や公安への基盤という点で、宗教ほどの力を他に見出すことは不可能です。なぜなら宗教は、良心に最も影響力を持つ力であると同時に、人の行為や振る舞いを規律の中におさめる上で最も効果を示す要素であるからです。だからこそ、統治者たちは宗教的生き方を民族的生き方としてそれが民衆の良心で生き生きと存在し続けるよう努力しなければならないのです。
民族を高めることは、若者を私たち自身の信仰や考えの範疇で、生きている時代を捉えられるような状態に導くこと、貧しさや困窮に対ししっかりとした意識を伴って戦い、社会の信頼を守ること、そして産業や貿易を常に知識や熟練さに乗せて運ぶことに結びついています。
民族を生かす三つの重要な要素があります。宗教、英知、武器です。英知とは、真の知識が理解され、生き方と一体化していること、と解釈することができるでしょう。
この世界は経験の場であり、ここでは全てが、経験によって獲得された意義や尊さに応じて対処されていきます。私の考えでは、一方で経験を通して得られたことに重きを置きつつも、もう一方では新しい経験や評価付けを欠かさないことが必要です。それによって知識の由来やその生み出すものの豊かさを守ることができるように。
知事たちにおいては慈しみと感受性、責任感が、地区長たちにおいては規律と市街の安全、統治者たちにおいては正当な考えと中立性、文化的な勇敢さが基盤となります。
国家と諸民族が互いに譲り合えないのは自然なことです。だからこそこれらの間に政治が、誠実な友好関係もしくは利益の周囲で出現するのです。害を与えないこと、害を受けないことを条件として、この二つの統治方法は双方とも差し支えはないものです。ただし、私たちが誰かをだますことは考えられなくとも、他者がそれを行なわないように、常に注意深く覚醒していることは政治の重要な側面の一つです。
政治を、単に政党、政治運動、選挙、そして権力争いと理解している人々は間違いを犯しているのです。それは、今日を明日と、明日をあさってと共に考えること、そして民衆の満足と神のご満悦を共に考えることといった、広い視野を伴う一つの統治技法なのです。
過去は、人生から得られた例や警告標識で満たされた、一つの学校です。この学校を、それが与えたもの、それが獲得させたものと共にしっかりと認識し、評価付けすることができる人は、未来をも成功裡に支配することができるでしょう。なぜなら今日は昨日と同じであり、昨日はあさってと同じであるからです。変るのはただ、色だけです。
力の支配は一時的なものとなります。不変なのは真実と公正さによる支配です。これらは今日はなかったとしても、非常に近い将来勝利をおさめるでしょう。だから最も偉大な政府とは、正義と公正さの支持者において求められるべきなのです。
私たちが認めた基準に則して「私は政治には関わらない、政治に干渉するな!」ということは、「私は祖国や民族のこと、民族の生命や存続には関わらないし、それらに干渉するな」ということなのです。
今日大部分の人々は、日々の政局の戯れ、大衆が欺かれだまされること、権力や利益の争い、そしてその目的であらゆる不正を正当なものと見せかけることといったようなものを政治と認識している人々に対し、彼らの心的生命、考え方の方向性、そして神との関係のために、政治的な動きから遠ざかっていることをやむを得ないと見なしています。なんと悲しいことでしょう、公正さや正しい考えと融合している政治と、ほとんどが嘘と偽りで成り立っている通りのいかさま師とではどれほどの違いがあることでしょう。
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