換言

まわりを見渡してみよう。

いたるところで「明白なるイスラームのディーン」に対する攻撃がある。これに対し胸に刀が刺されたように傷の痛みを感じない者たち、さらに死にそうに感じない者たちはその教え ( ディーン)を心に引きつけて捉えなおさなければならない。「アッラーが機会を御与えにならなかった」と言いながら、脇に退く者や、悲しみ悩む事もなく気軽な生活を続ける者たちに尋ねてみたい。そのようなことばで、貴方はアッラーに対する信頼を言い表そうとしているのだろうか?それに対し否と私は答える。真理の主が恵みを与え給う人々はこのようには言わない。彼のために今まで何をしてきたのだろうか?真夜中に何滴の涙を流しながら、サッジャーダ(礼拝用の敷物)の上で時を過ごしただろうか?「明白なるイスラームのディーン」のためにどれほどうめき苦しんだだろうか?何度、真から心が張り裂けそうになっただろうか?

アッラーは、尽きることのない英知を、必要としている者には、彼自身の存在を否定する者たちにさえ、その可能性を与え給う。豊かさと裕福さの中で生活しつづける者達(になること)を望むこともできる。彼らを羨ましく思い、「私達にも御与え下さい」と言うことは、アッラーに対し、そして私達が導かれた教え(ディーン)に対し、そして教えの考え方に対し不敬であるといえる。自分自身を振り返ってみよう。そして私達は彼に相応しい、彼の御恵み恩恵に相応しいしもべになろうと努めよう。

さらに私達がしっかりしていないのに、国際間の均衡やら、それらの統治に関係する者であるか否かなどを語ることができるだろうか?生半可のムスリムさでは、(到着地点は見えて来ず)どこにも至ることはできない。中途半端のムスリムさではなかっただろうか、オスマン帝国を崩壊に追いやったのは・・・真実を愛するムスリムでなければならない。アッラーから善きことを望む前に、それら善きことに相応しい人間にならなければならない。「アッラーフンマ アフスィン アキーバタナー フィー ウムーリー クッリハー : アッラーよ、すべての行いにおいて、結果を善きものと為し給え。」

私は私達が誠実であるとは思えない。いたるところで、偽善が見られる。私達の行動はすべて見せかけだらけだ。自我が欲する数多くの空白が心の中に見出せる。私達は限りなく弱い存在だ。だが悔悟の扉はラッパが吹かれるその時まで開かれている。アッラーが赦し給わぬことはない。

そうであるなら、私達は状態を立て直し、悪しきことに対し自責の念を感じながら、もう一度、悔悟し、アッラーに許しを請い、私たちを正しく方向付けよう。自分自身がどのような状況下であっても、方向付けたように生きるために、何をためらう事があろう?

どうして敵対心という窓から、他の人の顔を眺めているのだろう?仲たがいの徴を心の中に潜ませているのだろうか?

今まで語った言葉は、私の自我の欲するままに述べたものではない。わたしは自我の欲するところにより、諌める事はしない。が、真のイーマーンに対しての無関心さを消化できない。イーマーンを深めるというような思いがなぜ生まれてこないのだろう?なぜ手の中にある宝のような作品から遠のいているのだろう。なぜそれらを読む時見知らぬ者のように口ごもるのだろうか。なぜ崇拝行為を為す時、迂闊さが生じるのだろうか。なぜ読み、考え、想念するとき、強制労働のように受け入れるのだろうか。なぜ行為に見せかけが生じるのだろうか。なぜ私たちの心は覆い隠され真っ暗なのだろうか。なぜ?なぜ?私はこれらの問いに答えを見出せないでいる。

これらの悩みが私を忙しくさせている。みんなのほとんどは私をよくご存知だろうが、私は少々物事を深く感じてしまうのかもしれない。実際、私の顔を叩かれなくても、ある者の見せかけの行いが、私を悲しませ、まるで叩かれたみたいに私は痛みを感じる。

たとえば誰かが理由もなく声を高くして礼拝したり、タスビーフ(アッラーへの称讃)をしているとしよう。(声を大きくするのに気を取られて)実は、彼は声の中に心が込められていないのだ。それが行為を台無しにしていることにも気がつかない。あなたがたも(真実を)言えない。語るのは意識的でも、感じることや分かることというのは無意識的なものだ。(そのように)私にも起こる事が起きている。

人まね、必要以上の強い望み、ねたみ、疎外感、アッラーのお望みにならない感情、小さなことでも罪のある言葉を口にすること、行動の品位を考えないこと、不真面目さ、あつかましい態度などが気がかりの点であり、キズはこれらすべてといえる。目に見える傷ならば時とともに回復するが、目に見えないものなら?心の中の傷は?これらはそう簡単には治らないもので、大変難しい外科手術が必要となる。師が「私たちの中身と外見をひっくり返すとすれば、聖アイユーブ( a.s )よりもより悩み多き者であることを知るであろう。」とおっしゃられた(が、まさにそのとおり)。

罪を容易に捉える者たちがある。彼らは凝り固まっている性質の上に役立たずのようにあぐらをかく。ある者は金銭に弱く、ある者たちは飲食のようにごく日常的なことに対して弱く、ある者たちは違った種類の自我の欲望を持つ。又さらに言えば、アッラーが非合法となし給うものに「ああ、合法であればよかったのに」と言うものもあり、「不信仰の囲い(制限)がなければよかったのに」という者も出てくる。

本来なら人間は自分自身をある形で見出すというか見出すべきだ。預言者(彼の上に平安あれ)や高貴なる教友達や、彼らを模範として見習う者たちと見比べて、空白を見出せるだろう。その反対に、この弱さ、空白に気づかず本性丸出しの状態にもなり得る。これは心に封印をする原因となり得る。悪魔の状態はこのようである。悪魔は真実と真理を知らないわけでない。預言者(彼の上に平安あれ)についての知識は持っている。「貴方の偉大さに誓って貴方は勝利者であられます。」と悪魔は言う。彼の偉大さに誓っている。だが、クルアーンに反対しアッラーの命に背いた。光明の傍ら暗黒の世界で自分自身を守ろうとする。悪魔はこのように振舞おうとする。なぜならそのような振る舞いが本性となってしまった。その悲惨な状態で彼自身を保っており、そこから離れる事ができない。完全に鍵をかけてしまっている。人間もこのようである。ある者に閉じ込められるとそれに反して最も柔軟なものに対してさえ反発する。さよう、悪魔も、不信仰の中に閉じ込められてしまい、罪を犯す事が本性となってしまった。

さよう、アッラーは私たちの中身を外見のように、外見を中身のように知り給う。そのためこの弱さと空白が本性となる前に自らを教育しなければならない。時には悪魔は右から近づく事もあり、それを赦してはならない。人間は明らかな事、たとえば礼拝のような明白な崇拝行為の原因を知らずに、それから喜びを感じる、しかしこれはもしかしたら試験(試練)かもしれない。感じたその特別な感覚が人間の自我への信頼を増す原因となる事もある。そう言う意味でこれは試練でもあり、欺きでもあり得る。このように今までも多くの人々が騙され足を踏み外してしまった。

不信仰における欺きとはこのようである。考えてみよう。ダッジャール(終末に現れるとされる偽救世主)が人間に影響を与える力のような心を捉える得体の知れない力が存在する。まわりの雰囲気に身を任せる者たちはこれを増大させ、しばらくすると望んでもその世界から出られなくなる。清らかな力を持つ事によって、ここから救われるように・・・だが、人間は自分自身が清らかで欺かれないと思ってはならない。いろいろな物に惑わされずただアッラーに身をお任せしよう。お任せし、そしてアッラーに対し誠実であろう。人間は心から誠実さという性質で満たされなければ、又しもべの中に他の何かが混同しているとしたら、その時は人間の持っている善きことでも、実は見せかけであり偽善の中で埋没していくことになる。

生半可な見せかけのイーマーンが存在する。それは(ムスリムには)相応しくなく、身につけた衣服(イスラーム)の役割を果たさないので、アッラーはその者からイーマーンを取り去り給う。

善きものに対してだけではなく、悪い事柄に対してもこのように感じたことを言い表せない場合もある。突然、何の理由もなく人間は心に悪が生まれる。貴方がたの見たものが貴方がたを危い方向へ追いやり、貴方がたの足を踏みはずさせてしまう。人間を岸壁に追い詰め、ついに後戻りができないような岸に至らせる。その為に預言者(彼の上に平安あれ)は「あなたを悪に呼ぶ者に出会ったとき、気をつけてお待ちなさい。そしてアッラーに悔悟し、アッラーに戻りなさい。」とおっしゃられる。心理学においても同様に、心理学者たちは悪に出会ったときは状態や環境を変えることにより悪から守られると述べている。

さよう、「わたしは反抗と言う大海に帆を上げてしまったようだ、私はもう海辺には戻られない。」と言われるように、反抗の大海に帆を揚げる者達は皆このように始まる。始め帆の角度が小さくて気がつかない。足の指先で立つのも難しい状態だ。が次第に足の裏までつける広さができそして1歩入るような幅ができ・・・と言っているうちに、みるみる思いもかけないほど大きな角になり、さて留まろうと思うときにはもう遅い、遠い遠いところまで来てしまい戻る事も望んでも戻れなくなってしまう。これよりもっと危険なのはこのように最初は意識していても、ある時から何が起きているのかを気にかけなくなってしまうことだ。

不法なことが自分自身をどこへ引きずりこむかを知ることができなくなる。そのため目をそらし、耳に綿をつめこみ、口を閉じることが必要なことについて気にかけない。たとえば自我の感情の赴くがままに話したり話させたりすることやアッラーの怒り給うことに目を開く時、悪賢いメロディーがいっぱいの耳で色々なことを聞いた時など・・・

アッラーよ、私たち皆に限り無い御許しと深い深い御赦しと完全なる慈悲を恵み給え。礼拝、祈り、断食において小さな罪を軽視する者たちに知恵と思考力と情け深さを与えたまえ。「小さな罪と言い張ると大きな罪となる。悔悟の時大きな罪は赦される。」という真の意味は大きな罪といわれているのは実は小さな罪であるということであろう。というのは、大きな罪はそれが重大であると知られている点において大きいとは言えない。罪の重さを知るなら、悔悟に急ぎアッラーに赦しをこい、その情況から救われる。だが、小さな罪とは知らずに又は知ってはいても重視しなければ、「もう1つ、もう1つそしてこれは最後のひとつ」と言いながらやめようとしない。これが悪魔の戦略なのである。罪人を美しく見せ、自我を欺く。ユ-スフ章で「(人間の)魂は悪に傾きやすいのです。」(12章53節)と明示されているように、人間は罪を飾る。催眠をかけられ人間の目を束縛する。しかし、一方、人間とはこのような些細なことに犠牲になるほど下等な創造物でもない。人間は最も美しく良い形で造られた。世界に十分通用する良い特質を持っている。だから、これら小さな出来事で沈没してはいけない。目指す目的はアッラーのみでなければならない。またはこのようにも申し上げられる。人間は生まれながらに自我の欲望を持つが、合法なよろこびや楽しみで満足させ、その(合法の)外に出ないよう努めなければならない。歯を食いしばり、唇をかみしめ、「ラー ハウラ・・・(アッラーによるほか完璧に物事をおこなう力はありません、の意のドゥアー)」を唱えなければならない。

決して「私は大丈夫、沈没しない。」と言わぬように、悪を命じる自我は(貴方を踏みつぶす)残酷な車輪である。偉大な人々を跪かせてきたのだ。預言者ユースフ(彼に平安あれ)のような預言者でさえ「(人間の)魂は悪に傾きやすいのです。(12章53節)」と伝えているが、この節で、それ(自我)が信頼できないことを私達に知らせているのではなかろうか?

ある神の友がこのようなお話をなさっている。「二人の兄弟がいたそうだ。一人は町で、もう一人は山の畑の中に住んでいる。町で住んでいる兄(または弟)は正直さ、清らかさ、耳、目、口、舌・・・を罪から守っている。彼は町で生活しているときでも、自らを神聖な仕事(イスラームへの奉仕)に身を捧げているため、アッラーが彼を御守り下さっている。またはイスラームに殉じ、自己中心さを消し去り、「この振る舞いは私にはふさわしくない」と言いながら自分を守っている。この家の入り口の前に、水入れの皮袋がつる下げられている。中には水が溢れるほど入っているのに不思議にも一滴も垂れていない。山の中に独りで住み、いつもアッラーと固く結ばれていたもう一方の兄弟が、ある日、町を訪れた。彼も水入れの皮袋を持っていた。山にいるときに全く水はこぼれなかった。町にやって来ると、彼の兄弟の皮袋のとなりに、自分のもつるしたそうだ。すると、何分か後に水が垂れ始めた。おみごと、町に住む者よ、町で、つまり危険な場所で、自分自身を見失わずにアッラーとの結びつきを忠実に保ち続けさせるとは、なんと見事な手腕であることよ。

さよう、限られた環境の中で、罪から遠く、世捨て人の生活をし、ただ崇拝行為に忙しくするときでさえ、人の口に悪魔がくつわをはめるのなら・・・罪が耳の穴から、目の裂け目から道を探して入りこむのなら・・・自我が彼自身を毎日違ったガイヤ(地獄にあるとみなされている井戸の名)にひきずりこむなら・・・そのような危険な状態で人は立ち続けることはできず、転がり落ちてしまうことだろう。

しかし、このように諌める権利が私にあるだろうか?又、あなたがたが妥当と認めてくださるかどうか私には分からない。が、私の無作法にもかかわらず、打ち明ける必要があることを皆さんは認めてくださるかもしれない。もしよろしければ、毎日、あなたがたが必要となさる分銅(比喩的に道徳価値を理解するのに役に立つ教訓)としてお使いいただき、秤の皿にのせて(道徳を)計っていただければ幸いである。

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