異なるという思い込みはシャイターンによるものである

異なるという思い込みはシャイターンによるものである

違いを見出そうとする努力は、シャイターンからのものである。自らを他と違うと考えること、着任上位の差異を区別しようとすること、将来において取り分を得ようという希望・・・。これらすべてはシャイターンのわなである。「私に機会が与えられれば・・・。私はいかに話すことか。どれほどペンを走らせることか。」こういった思いは、人をオデッサの結末へと追いやる。魂が石のようにこわばってしまうという結末が彼を待っている。最も大きな災いの一つが、人が自らを特別だとみなすことである。人類にもたらされた大きな災いはこの理由のためもたらされたのではなかっただろうか。自らを優れた血筋だとか、人種だとか思い込む人たちが、世界的な戦争に要因をもたらしてきたのである。

「しもべの預言者でありなさい。」アッラーが、その使徒に教えられたのはこのことである。すべての人々を天国に導く道を見つけたとしてもなお、自分は特別な人間ではない。人々のうちにある、一人の人である、という認識を常に持っていなくてはならない。預言者の時代、エチオピア人とクレイシュ続の間には何の差異もなかった。しかし今日、残念なことに、少々の教養を身につけたものは、「自分は特別」症候群から救われることができずにいる。あたかも、インクあとにウイルスがいて、そこから感染しているかのようである。

アッラーを大いに想念すること

人々は、もっとアッラーを想うべきである。神性の顕現のうちの一つを突如感じたとしたら、 100 万もそれを感じることができるよう、爪の先から、全身でそれを感じることができるよう、努めるべきである。アッラーが我々を、形にこだわることや、見かけや形式から救ってくださいますように。そして、真実の意義に到達させてくださいますように。

しかし残念なことに、アッラーのこれほどの恵みに対して、我々はいまだに形にこだわっている。「ラーイラーハイッラッラー」というとき、その瞬間にアッラーのすべての御名、すべての顕現を感じることができれば、一瞬にしてそれらで満たされることができればと私は望んでやまない。アッラーを想うとき、我々自身に合わせるのではなく、その偉大さ、大きさにあった形で想うことができるよう、人は自らを強いなければならない。30年、40年といとわず、かたくなでなければならない。我々の狭さに合わせてではなく、神性の顕示をそれ自体の大きさの中で捉えなくてはならないのだ。

病んだ魂

人が、常に自分について語り、自分を気に入らせる必要性を感じているのであれば、彼はアッラーの賎しいしもべであるということである。すべての機会において自分を評価させようとする人は、知性の上でも、また魂としても、さらには信仰の面からも不足をもち病んでいる、哀れな存在である。人々があなたに好意を示しているのなら、その信用をただ教えのため、アッラーの御名を高めるためにのみ、使うことができるのである。

疲れ

我々は、しもべであることから、一種の疲れを体験している。私たちはみな、疲労した兵士のようである。あたかも、宗教的実践によって疲れているかのようである。嫌気が存在する。イスラームの教えを私たちは非常に大衆的に捉えている。自分たちの心でそれを大いに狭め、うすっぺらいものにしている。ラマダーン月を通して、テレビでは何やらが話されているがそのどれをとっても、新しくムスリムになった一人の黒人女性が語ったことほど有意義ではなかった。それはどれほど美しい意識であり、テーマであり、なんとすばらしい捉え方であったことか。我々は慣れきって無力化したようである。その価値は我々の眼で色彩を失い、つやを失い、我々において興奮が起こることがないのだ。宗教的実践を、快く行うことができない。ここにどのようなものが秘められているのか私には理解できない。なぜ感じることができないのだろうか。なぜ心の高まりがないのだろうか。礼拝ごとに、集団の中で一人や二人でも忘我の状態になるなら、その集中は彼らの魂に多くの意味をなしえる。しかしなぜそういうことが起こらないのだろうか。私にはわからない。

なぜ心の高まりがないのか

私たちが読むクルアーン、私たちが行う祈念が、感情を伴わないままに行われることは望ましいことではないにしろ、そういう形で行われたとしても、私たちの感情の一部に呼びかけるものがあり、私たちはそれによって益をうけている。

ちょうど雨粒のように、大地の懐に抱かれた種を目覚めさせる要素のようであることを私は望むのだ。人々にもたらされているものは、もっと深い形で受益されるべきである。もっと深い思慮にいたることができるよう、人は自らを強いなければならない。すべての言葉、すべての解釈を、理解と意識のうちに、心の深いところにまで、努めて沈めていかなければければならない。意識を持って聞くことができるなら、一は千となる。意識を伴って読むことができないからと放棄することもまた、過ちである。常に一定した、高度な精神状態を保つことができないのは、把握の状態によるものでもありえる。そもそもこの状態は、肯定的な方面でも評価できる。なぜなら把握の状態は、詳細な理解への道である。把握は、深い理解に開かれる扉の、ノッカーである。

私たちは卵の中のひよこのようである

この世界における我々の状態は、卵の中のひよこのようなものである。卵の中のひよこに、「外にも世界がある」といったとしたら、ひよこは信じず、「またそんなことを」というだけであろう。私たちもこのひよこのように、あの世を考えに入れることができないでいる。もし知ることができたなら、人は「歯を食いしばって、もっと多くのものに耐えていたら」というだろう、しかしそのときにはもはや手遅れなのだ。ここでのすべての努力は、あの世での展開の要因となる。そもそも、人は、ここで、それぞれに適したところで満足し、よしとしていれば、何か欠乏を味わうということもない。各々が、自らがいる状況での責任を果たすべく努めなければならない。重要なのはこの点である。

物事のうしろに秘められたもの

哲学者たちはいう。「外の世界は私たちが眼にしているようなものではない。私たちが見ていると思い込んでいるものは、私たちの知性における認識の産物である。」イスラーム神秘主義的意味において、物事の背後と私たちがよんでいるものは、これとは異なる。私たちにおいては、物事という事実、存在は揺らぐことがない、というのが原則である。さらには、例えば、私がある木の絵を求めたなら、あなた方はあなた方が見たところを描写するだろう。しかし木は、それだけでできているのではない。木には、目には見えないところがあり、それは環境体系における役割、酸素と二酸化炭素のやり取りや呼吸活動などである。そのため、生物学者は、他の人々が見るよりも深く、異なる事項を木に見出す。なぜなら彼はそのテーマにおいて専門性を持っているからである。同様に、何らかのテーマにおいて専門性を持っている人々は、物事や出来事の表面から、その背後の部分を見ることができる。例えば一本の木を見て、そこにアッラーの御名と特性が明らかに顕示されているのを見ることができる。

物事の表面に見えるものは、客観的なものでもない。つまり、人々が皆同じものを見るわけではない。例えば、先に述べたような例で、木において生物学者は異なるものを見出し、物理学者も異なるものを見出し、大工もまた異なるものを見出す。さらに、彼らもまた、彼ら自身の中で、その深さに応じて、異なる段階に区別される。こういった状態は、目に見えるものが違っていること、あるいは不一致であることを示しはしない。見ている者の差異が、こういった差異を生み出しているのである。

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