イードに関する熟考

質問:聖なる祝いの日であるイードの歓びを十分に味わうために何をお勧めされますか?また宗教が推奨しているところに従ってイードの恩恵を受けるにはどうしたらよろしいでしょうか?

答え:イスラームにおいて、崇拝もしくは物事の一つ一つの形にはそれ独自の意味合いが備わっています。その意味合いを深く感じられるかどうかはまず人の信仰次第であり、それに引き続きその人が、恩恵のありがたみを忘れてしまいがちな人間の性向に対して意志を有効に働かせ、再生しようとする努力にも左右されます。自らの信仰や思考を常に刷新することのできる人はあらゆるものを新たに感じることができます。言い換えれば、何かを新たに感じることはその人が新しい状態であることに結びついているのです。クルアーンで「もしかれの御心ならば(創造の目的を実現するために)、あなたがたを追放して、(その地に)新しい創造物を(あなたがたの代りに)連れて来られよう」(イブラーヒーム章 14:19)とあるように、アッラーは、自らの色を失わない人々、疲れきってしまわない人々、慣れから恩恵を当然視することをしない人々、そして信仰をその深みを伴いつつ魂でみずみずしく感じられる人々のことを評価されます。ですから、ラマダーンやイードの価値を認識しその恩恵にあずかろうとするといったような事柄は、何よりもまず、健全な信仰と自らの信仰を継続的に新たにすることにかかっているのです。イスラームを先祖代々続く慣わしのように文化的に捉える人々にとっては、心からイードを純粋に味わうことは難しいと言わざるを得ません。

ラマダーンとイードの関係性

ハディースの基準という観点から不確かとの指摘もありますが、ある聖なるハディースで「“ラー・イラーハ・イッラッラー”で信仰を新たにしなさい」というものがあります[1]。これが告げるところは、崇拝の対象であられるお方と自らの関係性、創造に関する命令や宗教の戒律に対する態度を頻繁に見直しする必要があること、また常に自分自身を把握してアッラーの御名のもとに新たなスタートを切ることによって、純粋な信仰を持ちながら人生を続けていくよう努力しなければならない、ということです。これは「二つの日が同じである人は損失の中にいる」[2]というハディースの意味にも似ています。これによれば人は毎日、前の日と比べて精神的状態に関する向上を見せ、信仰の美しさをよりよく感じることが非常に重要となります。この目標を追い求める人々が、ラマダーンやイードの真髄を真の意味で感じることのできる人なのです。

一方で、イード・アル=フィトルにはラマダーン月全体の本質が包含されているため、イードのあらゆる美を感じるためにはその人がラマダーンと共鳴している必要があります。そうした人々だけが、心からイードと共鳴できるのです。ラマダーンに波長を合わせた心だけが、アッラーへの信仰のためだけにその月を献身的に過ごし、断食やタラウィーフの礼拝、その他の崇拝行為も、責任感を意識しつう戒律に服従しながら全うすることができるのです。しかし彼らは謙虚にもこう言うでしょう。「アッラーよ、ラマダーン月の間、崇拝に努力しましたが、無駄に過ごしてしまったのではないかと思うのです。愛する預言者様が地獄への盾だと表現された断食を、きちんと行い、この月をその盾に守られながら過ごすことができたのでしょうか」。彼らはラマダーンを正当に過ごすことができなかった可能性を思って悲しむ一方で、イードを、アッラーの赦しが得られるチャンスだと見なし、希望に満ちた期待で溢れもするのです。

イード:ズィクルと感謝の地盤

イードの日々は天からの恵みや贈り物がアッラーの僕に降り注がれる、神秘的な時のひとこまです。こうした恵みを前にして何がなされるべきかというと、それは称賛、感謝、情熱の感情を胸に溢れさせることです。イードを単に楽しいだけの時間だと捉えるとそれは正しくありません。どちらのイードも、アッラーのご好意で赦しが与えられるチャンスです。ですからこの祝福された日々を、心と感情を覚醒させたまま、来世的な深みと霊的な広大さを伴う形で過ごすのが賢明だといえましょう。ベディウッザマン師も、その著書「28番目の閃光」の中でこの点について強調しています。「・・・このことから高貴なる預言者様は、イードの日々、無頓着さが蔓延したりもしくは宗教で禁じられた行為へとつながることのないよう、アッラーに感謝を捧げたりズィクルすることを強く勧められたのである。感謝を捧げたりズィクルすることを通じて、イードの日々における歓喜の恩恵は感謝へと転換し、その恩恵が継続し増えていく結果につながっていくのかもしれないのである。感謝を捧げることは恵みを増すが、無頓着さはそれを一掃してしまう」。

合法な範囲内におけるイードの習慣

実は、預言者様の時代もそれに続く時代においても、イードに関して宗教的原典から導き出される合法な枠組みからはみ出るような(現代行われているような)活動は何もありませんでした。つまりイスラーム初期の時代、旅行や祝祭、花火、また親戚や、年長者からのお小遣いを期待する子どもたちを訪問したりといった習慣はなかったのです。しかしながら、トルコ人はイスラームを受容する中で、自分たちの伝統を宗教の確立された基準と照らし合わせ、その基準と矛盾しない一部の伝統を継続させました。ですから、尊敬の印として年長者の手にキスすることや、親族訪問、笑顔で人々を迎え入れることなどの伝統は、宗教の本質的な教えに反しなかったために現代まで受け継がれることとなったのです。

すべての人を包み込む寛容さという温かい雰囲気

イードの日々は、行いが惜しみない報奨で報われる、祝福され恵み深い時のひとこまであることから、その一瞬一瞬が、心地よい愛情、兄弟愛、善行といったものとともに価値ある時間として過ごされるべきです。例えば、すべての人々を包み込むようなイードに備わる心地よい雰囲気は、苦い感情を取り除いたり、人々をより親密な間柄にするための活動を組織したり、年長者を訪問して喜ばせたり、良い言葉や贈り物で子どもたちを嬉しくさせたり、和やかな雰囲気の中でムスリム以外の人々との対話の架け橋を築き親しくなったりするためのチャンスであると捉えることができるでしょう。信仰や宗教、そして預言者様が象徴する真理に対する尊敬には特別な価値や重要性があるのに疑いはありません。他方で、創造における最高の例としての栄誉を受けた人間にも本質的に尊厳が備わっており、尊重されるに値するのです。特に残虐性が途方もなく勢いを増し、人類に対して爆弾が使われ、人間が作り出したウイルスが生物兵器として撒き散らされるような今の時代、世界はこの理解に基づいた全般的な平和を心底必要としています。破滅的な波同士の衝突に挟まれて人類が粉砕されることから救うためにも、ある種の防波堤を築き、それを阻止することが必要なのです。

そうした活動が愛する預言者様の時代やその後の時代に行われていたわけではありませんが、それが宗教的な参考文献に含まれていないからといって、我々がこの祝福された日々をチャンスと捉え、ある種の友好的活動を企画することの妨げになることはありません。事実、カンディルと呼ばれる特別な夜についても、そこに備わる神聖さは別として、イスラームの初期の時代、その夜を有効活用する目的で現在行われているような活動は特に行われてはいませんでした。これらの夜に特有の崇拝行為というものさえ存在しませんでした。そうではあっても、多くの礼拝を捧げ、クルアーンを読み、タスビーフを数え、ドゥアーするといった崇拝行為に専念して過ごすことをお勧めしてもなんの不都合もありません。こうした尊い日々は封筒に似て、その中に包まれている行いの価値を大いに高める働きがあるのです。場所に関しても同じことが言えます。どこにいてもアッラーに祈りを捧げることはできますが、アラファトでの祈りは、生まれた日と同じくらい罪のない状態になると言ってよいほどに人を浄化してくれるのです。それでもまだ染みが残ったとしたら、ムズダリファがそれを取り除いてくれます。同様にカアバ神殿の周りをタワーフすることは別の浄化の手段となります。ごらんのように、これは「場所」という封筒が行いに超越的な価値観を付加したことによって実現されるのです。この観点から、特定の神聖な場所や、イスラーム暦における神聖な時のひとこまにおいてアッラーに向き直ること、そしてアッラーのご満悦を得るために、心地よい愛情、兄弟愛、そして人間性のために努力することは非常な重要性を帯びていると言えます。

[1] アッティルミズィー「ナワディール・アル=ウスール」2/204「ラー・イラーハ・イッラッラー」は「アッラーの他に神はなし」の意味
[2] アリ・アル=ムッタキ「カンズ・アル=ウンマル」 16/214, no.44236

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