ハッジとドゥアー

質問: ハッジの恩恵を最大限得るためにはどのような点に注意すべきでしょうか?この祝福された地でアッラーに懇願する際、優先させるべき事項は何でしょうか?

答え: 「この家への巡礼は、そこに赴ける人びとに課せられたアッラーヘの義務である」(イムラーン家章 3:97)というクルアーンの節に従い、財力、体力などのあるムスリムはハッジへと赴かなければなりません。我々の時代、旅をめぐる状況は非常に快適なものとなり、ハッジの遂行はより容易となり、必要な儀式を全うするためにより良い手段を確保できるようになりました。しかしながらさらに重要なのは、過去数世紀に渡って眠った状態のようであったムスリム世界が、ついに信仰の実践に目覚めたことにあります。毎年、ハッジに赴く400~500万人の人々以外にも、許可が出るのを待っている人々の数は決して少なくありません。ハッジの申込所に出かけていったものの許可が下りず落胆して引き返してくる人々の様子を見るにつけ、人々が宗教的感情や思考に再び目覚め、つながろうとしていることに気づくでしょう。

人々における変化は、地面に蒔かれた種が小麦へと成長していく過程に似て、急速に起こるものではありません。人々になされた投資が実を結ぶまでには何年もかかります。ですから、信仰の復活というこの前向きな進展はさらに拡大し続けていくものと信じています。恐らく近い将来には1,000万人もの人々がアラファで同時にアッラーに懇願し祈るときが訪れるでしょう。ひいてはアッラーのお恵みが我々に降り注がれ、信者たちは今一度、自らの足で立ち上がり、確固たる信仰、平安、充実感、そして信頼というものを獲得していくでしょう。

何年分もの価値が数秒に凝縮される

ハッジは、アッラーがそれを命ずるがゆえに行われるべき崇拝行為です。崇拝行為の対象となる絶対的なお方、そのご満悦を求める対象である正当なお方であられる我々の寛大な主に崇拝行為を捧げるのは、本質的にかれの権利であり、我々にとっては義務となります。このことから信者はまず、その恵みの雨を我々に降らせてくださる全能のアッラーの命令に従う形でハッジの遂行義務を果たさなくてはなりません。ニーヤ(意図)をこの上なく純粋なものとしてアッラーに対峙し、この聖なる土地から大いに、豊かに恩恵を受けられるよう努めなくてはなりません。

特にこの点からまず、目的とする地の意味合いを認識する必要があります。巡礼へと出発する際には、最果てのスィドラの木(スィドラ・アル=ムンタハー)が地上に投射された地である、アッラーが好まれた世界へと旅立つのだということ、そして人類を創造主に向かわせる人類にとっての究極的な神殿へと向かって歩を進めていくのだということを意識しなければなりません。巡礼者の心はこの感情で満たされるべきなのです。そして同時に、巡礼の儀式はファルドからワージブ、スンナ、ムスタハッブ、そして礼節まできちんと遵守しながら全うしようと努めるべきであり、全身全霊で服従して常にアッラーに向き合うべきです。言い換えれば、ハッジの務めを行う間中ずっと、人は立つ、座る、歩くといったあらゆる行いを、アッラーのために行っているのだという意識を持って取り組まなければなりません。カアバ神殿の前で手を広げること、悔悟の扉(ムルタザム)に顔を押し当てること、黒石に挨拶し口付けすること、ミナーに向かうこと、アラファに逗留すること、そしてムズダリファに向かうこと、こうしたすべてを行う間、アッラーのためにという意識を保持し続けなければならないのです。つまり、定められた行為の一つ一つをアッラーのために行い、数秒間の中に数年分の価値を凝縮させることをしなければなりません。

加えて、この神聖な旅路において人は不注意でのんきな振る舞いにつながりかねない状況を避ける必要があります。このことを常に意識し続けるために、自分自身をどうでもいい用事や我々の時間を取る人々から遠ざけるようにしたほうが良いでしょう。特別な地へと向かうのですから、くだらないおしゃべりに興じる代わりに、そこに行けば心が和らぎ、涙が流れ落ちる、そういった土地への切望で満たされるべきです。私がマディーナにいたとき、高貴なる預言者様への深い愛に満ちたある人の言葉に胸を貫かれたことがあります。その方はこのように仰っていました。「使徒様よ、私はここに何日もおりますがあなたのお声を聞くことができません。これからカアバに向かって出発するところですが、ここから何を持ってきたかと尋ねられたらなんと答えればよいでしょう?」そのほかにも同じような事柄をいくつも仰っていましたが、感動を覚えずにはいられませんでした。ですからこうした心を動かすような経験を捜し求め、自分自身に、こうした旅路のような機会は二度と訪れないかもしれないということを思い出させるようにしたほうがいいでしょう。

アラファの日、祈りに没頭すること

この聖なる地で過ごす日々は全能のアッラーに懇願を行うかけがえのないチャンスとして受け止めるべきです。そして全ムスリムの心の代弁者となるべく努力し続け、その熱意を込めて祈らなければなりません。例えば、カアバ神殿を初めて見る瞬間とは神秘の瞬間です。ですからその瞬間は祈りを捧げるために大切に活用されるべきです。同様に、ミナーに行く際には、そこがアラファに赴く前に通過する最初の浄化地点であると考え、一秒も無駄にすることなくアッラーに向かって心を開かなくてはなりません。

高徳な方々の仰られたことによると、全能のアッラーはアラファでなされた祈り-その割合を挙げるのは適当でないかもしれませんが、受け入れられる度合いの大きさを表すためにあえて申し上げましょう-の99%を受け入れられます。さらにアッラーはそこでご自身に全身全霊で向き合う人々を尊重するがゆえに、それに値しない人々の祈りさえも受け入れられるのだと言うことができます。

ご存知のように、人類を指導される魂であられるお方(彼に何百万もの平安と祝福がありますように)はアラファでいつもウンマのためにドゥアーを捧げておられました。他人の権利を侵した者たちのためにさえも震えながら赦しを請われておられました。これは何らかの英知から受け入れられなかったと伝えられています。しかし憐れみ深く慈悲深い預言者様は意気消沈してムズダリファを訪れ、そこでも手を広げて一睡もすることなしに朝までウンマのために祈られたそうです。イブン・アッバースの伝承によれば、祈りの間彼が近くにいたところ、祈りが終わりに近づくにつれ、預言者様の顔に微笑が浮かんできたそうです。イブン・アッバースはそれが、愛する預言者様が祈られた内容に関して吉報が訪れた印だと受け取ったと述べています。それが真実であればどれほど良いことでしょう。それは我々にとっても罪の贖いを意味することとなるのですから。

カアバ、ミナー、アラファ、そしてムズダリファは祈りを捧げ、全能のアッラーに懇願するために開かれた天の窓のようなものです。アッラーはこの地に滞在し心から信仰する者の懇願を退けることはなさりません。人はこのことを真摯に信じる必要があります。しかしながら人類の誉れであられるお方は、信じつつ祈りを捧げ、祈りが受け入れられることを願うよう我々に助言されています。それゆえ、「私は手を広げて祈りを捧げました。その後どうなろうと構いません」と言うのではなく、以下のような自覚をもった言葉を使いながら心から祈りを捧げることに専念すべきです。「主よ、あなたを見つけました!私はあなたの扉に立ち、あなたの偉大さと無限の慈悲に庇護を求めます。アッラーよ、私を醜い行いをするがままに放置しないでください。アッラーよ、私はここに浄化されるためにやってきたのです!主よどうか私を清めてください!」。

全ムスリムのために懇願する心

この聖なる日々にこれらの神聖な土地を訪れる人々は自分自身のため、また家族のために祈ることができます。しかしながら、ムスリムが置かれた状況、特に今日の状況は我々の個人的問題よりはるかに重要であるといえます。ムスリムの住む土地でみられる状況は明らかでありはっきりしています。イスラームの歴史上、これほど惨めな時代に陥ったことはありません。自らの足で立つことができず、他者が持ち込んだものの上に立って(彼らがそれを使って何をしようとしているのか知ることもできないまま)足を踏ん張ろうとしています。しかしたいていの場合、この手の基礎は我々の足元から根こそぎにされ、ひっくり返らされるのが落ちというものです。こうした状況に苦悩していたベディウッザマン師は、ムスリム世界を考えると自分自身のことなど考えられなくなる、と仰っていました。ですからハッジに赴く機会、そしてカアバを初めて見る機会を得たムスリムは、手を広げて全能であるお方に、「我が主よ、あなたの使徒に従う者たちに解放をお授けください、そして慈悲を与え、赦しを授けたまえ!」と請い、祈りに没頭すべきです。ミナに歩いていく間、またはもしそこで一晩過ごすのであればその間も、ひれ伏して同様に全ムスリムのために祈るべきです。そもそもミナは格別な意義を持つ聖なる土地の名前です。考えてみてください、イスラーム初期の時代、人類の誉れであられるお方(彼に祝福と平安あれ)は、メッカやその他の場所で語りかけた人々から得られなかった好意的な反応を、まさにその特別の場所で得ることとなったのです。つまり、預言者様が支援を得た土地だったのです。ですから、支援という意味でミナには特別な価値が備わっています。だからこそ、アッラーが非常に好まれるそうした特別な地に滞在する間、アッラーの助けを見出すという希望を持って手を広げ、「主よ、ムスリムがその苦難を払いのけ、再生のプロセスを獲得できるよう、どうぞお助けください!」と祈るべきです。

アラファに向かって歩いていくときは、その目的地の重要性を自覚する必要があります。ひょっとすると、地上のあらゆる場所のうち、そこがアッラーに最も近づける場所のひとつであるかもしれないからです。聖人ではない人でさえも、その場所の貴重さを感じ取れるのです。アッラーはそこに滞在する人々に、格別の恵みを授けられるのかもしれません。ですから、天界への最大限の近づきを得られるこの地で、アッラーに向かって心を開くチャンスをつかんですべての信者のためにアッラーに懇願すべきです。巡礼者は訪問の期間中、飲食で時間を無駄遣いすべきではありません。空腹感を押さえ、気絶しない程度に一口二口食べるにとどめて、アラファでの黄金の時間を一秒たりとも無駄にしないよう努力しなければなりません。日が沈むまでの間ずっと、アッラーを切望し、請い願いながら時間を過ごし、その祝福された土地に相応しい誠実さや忠実さを示すべきです。

一点、繰り返し述べますが、その特別な地で自分自身や親戚のために祈ることは間違いではありません。ですが、「我が主よ、私はこの瞬間、私自身を消し去りました。私と言う人間を×印で消しました。視線を完全に預言者様のウンマに向けました。ウンマのことしか考えておりません。ウンマのために祈っています・・」と言いながらすべてのムスリムのために祈れることが、自己犠牲や利他的な態度を保持するといった観点から非常に重要だといえるでしょう。

物事をアッラーに任せること

一方で、世界中に散らばる信仰を持つ人々のために祈るのに加えて、信者たちに敵対し迫害する人々のためにも祈ることができます。例えば、「アッラーよ、彼らに導きを与え、良くなり得るのであれば彼らを正してください。良くなり得ないのであれば当然の報いをお与えください」というように言うこともできます。今日でもムスリム世界には、過去と比べてより冷酷で不正もはなはだしい抑圧者や暴君が存在します。人々が礼拝したりモスクが一杯になるのに我慢がならず、スカーフをかぶった女性を見ると発作的な怒りで苛立ち、あらゆる手段を使ってイスラームを攻撃することに全力を注ぐ、不幸な人々です。こういう人々をアッラーにお任せするのもイスラームに忠実であるために必要なことです。信仰を実践する人々を見て激怒する宗教の敵対者については祈りの中で名前を挙げることができます。ムスリム諸国には、自らを宗教に敵対する者ではないと主張しながらも実際にはちょっとした事柄でもイスラーム的なものは容認しない偽善者が存在します。自国で信者たちが民主的権利を享受するのを望まないこうした偽善者たちはアッラーに委ねられるべきです。こうしたドゥアーをすることも、この祝福された土地を最大限に活用するということの一部となります。

この点に関して、誰もが同じように同じレベルで悩みや苦しみを感じられるわけではないかもしれません。言い換えれば、他者の人生における重要性を認識できないために、同じような感受性を持ち得ないかもしれないということです。それでもなお、この祝福された土地を100人、200人の人々と一緒に訪れ、祈りの輪を築くことができるのであれば、心の底から湧き起こる嘆きやドゥアーを人々と分かち合うことはできます。人々の胸に火を灯し、心が燃え盛る炎となった信者たちの悲しみと一緒にアッラーにウンマの再生を請い願い、共に「アーミーン」と言ってもらうことは可能なのです。

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