自己批判とアッラーに赦しを請うこと
質問:この世で起こる様々な試練に信者として耐えられるよう、不運に見舞われた際に考えるべきポイントは何でしょうか?
答え:クルアーンで述べられている「あなたに訪れるどんな幸福も、アッラーからであり、あなたに起こるどんな災厄も、あなた自身からである」(婦人章4:79)という命令を信じる人は、自らに降りかかる困難や不運の一つ一つをまず自分自身の犯した失敗や罪のせいにしなければなりません。例えばコップやお皿を落として割ったりしたときには、自らの犯した何が原因でこれが起こったのかと問うべきです。というのもこの宇宙において全くの偶然で起こることなど何一つないからです。細心の注意を払って人生を観察してみるなら、ほんの些細なことであってもうまくいかない物事というのは警告であり、あらゆる出来事がシグナルを送っていることに気づくでしょう。人はもしそのシグナルに気づき、悔悟してアッラーに向き直り、善行をなして迫り来るさらに大きなトラブルに対する盾とするなら、アッラーの優しさによってその人は救われるでしょう。コップが割れるといった比較的小さな不幸は迫り来る不運を防ぎ、罪滅ぼしとなることがあり得ます。ハディース[1]では、疲労、病気、悲嘆、心配、苦痛、憂鬱、はては刺が足を一刺しすることまで、アッラーはそれらによってムスリムの罪の一部を赦される、と述べられています。自らに降りかかった問題や不幸の真の原因を認識できない人は、アッラーに対する不平とも取られかねない、(容認できない)事柄を言い出すものです。
本当に責められるべきは誰かを探す道で
私たちは物事の背後に潜む原因をいつでもはっきりと見られるわけではありません。しかしながら健全な信仰を持つ人々は、たとえ無関係に思えるような災難であっても自らが犯した間違いについて考えなければなりません。問題を自分自身の中で見出そうとすることは、責めを負うべきは誰かを探す過程で非常に重要な一歩を踏み出したこととなります。他の誰かのせいにしようとしてばかりいる人は、一生かかってその相手を探し出そうとしても徒労に終わるでしょう。
このことについてベディウッザマン師はある手紙の中でこう仰っています。「私が受けた暴虐行為、拷問の真の理由を今理解した。ここに深い後悔の念とともに申し上げるが、クルアーンの道における私の奉仕を精神的向上のために利用したことが私の過ちであった」と。この偉大な人物がいかに奥深いムハーサバ(自己批判、自問)をされていたかがこの言葉から読み取れるでしょう。さらにこの言葉から我々は、信仰の道で奉仕することを精神的向上のため、もしくはアッラーからの霊感や祝福を授かるための手段と見なすべきではないということが推測できます。それは天国に入るため、もしくは地獄から救われるためといった崇高な目標であってもです。こうした事柄を真の動機とするのは我々の進む道の妨げになりかねません。第一義的かつ唯一の関心はイフラース(誠実さ)と、アッラーのご満悦・ご承認を得ることであるべきです。天国を愛する気持ち、もしくは地獄への恐れはどちらも真の崇拝に優先されるべきではありません。アッラーはイフラース(誠実さ)をもって行われた行為に対して寛大な報奨を与えてくださいます。アッラーの恵みが無限であるのに対して我々の崇拝行為やしもべとしての服従はごく限られたものです。もしあなたが全世界の王となり大富豪になったとしても、何か差し出す際には気後れせずにはいられないでしょう。なぜなら出す割合に応じてあなたの財産は減っていくからです。しかしアッラーの恵みは勘定を越えています。だからあなたが所望するものなど、かれが授けるものと比べたら本当に微々たるものでしかないのです。
あらゆる不平を控えること
すでに述べたように、自らを襲う困難や不幸の真の理由を認識できない人はアッラーに対する不平ともなりかねない事柄を言うものです。我々の個人的な権利を擁護するため、加害者のことを権力者に訴えることは許されることです。つまり自らが不正行為の被害にあったと考えるのであれば、アッラーもしくは司法関係者に申し立てて正義を見出そうとするのはごく自然なことです。しかしアッラーについて誰か他の人に不平を漏らす権利は、誰にも、どんな形であってもあり得ないことです。それをあからさまに表すことはもとより、舌打ちしたりその他の身振りで、身に降りかかった問題や不幸に対する腹立ちを示すことはアッラーに対する不平を述べていると見なされます。ゆえに、公然にせよ非公然にせよ不平不満を表すあらゆる言葉や態度はそれを避けるのが立派な態度といえるでしょう。
実に問題や不幸に直面して自らの責任を問うことは真摯なムハーサバ(自己批判、自問)の態度に結びついており、そしてそれはアッラーと最後の審判を強固に信仰することと結びついています。第2代カリフのウマル・イブン・アル=ハッターブ様は「裁かれる前に己自身を裁きなさい」と仰ったと伝えられています。ここから、審判の日の裁きを信じることとムハーサバが直接的に関わっていることがはっきりと見てとれます。偉大なる方々の残したズィクルやドゥアーを調べてみると、どのお方も自らの行いの説明責任に対する懸念から真剣にムハーサバに取り組んで生きていたことが分かります。例えばアブドゥルカディール・ゲイラーニ師があるひとつのドゥアーの中で自らを地に貶めて自我の清算をしている様は、我々が一生かかってもできないと思われるほどです。アブドゥルハサン・アッ=シャーズィリー師も同様にひどい言葉で自分自身を卑下したあと、「私のような多くの者があなたの慈悲の扉をたたき、そして裏切られませんでした」と言いながら期待をもってアッラーに懇願し赦しを求めたのでした。ドゥアー集「懇願する心」[2]に収められているハサン・アル=バスリー師の1週間分のドゥアーも重要な例を示してくれています。この卓越したお方は曜日ごとに異なるドゥアーを唱えておられましたが針小棒大といってもいいくらいに己を非難していました。信仰の勇者であられ、タービイーン(預言者様の孫弟子にあたる、サハーバに従った人々)の中でも第一人者の1人であったお方、バスラ地方で過った学派に対して立ち上がられ、イマーム・アブ―・ハニーファに大いなる恩恵をもたらした学者であられたこのお方は夢の中でさえも罪を避けられていました。このような偉大な人物が、あたかも自身が最低の罪人であるかのように見なしてその罪を告白しているのです。そして精神面における永遠の敗北者であるかのように、またひっきりなしに罪を犯していたかのようにアッラーに向き直っているのです。このようにして彼は毎日毎日、自分自身を批判していたのでした。
イスティグファールにつながる自問の感情
ムハーサバの意識をもって自らの悪事に気づいている人は結果として、悔悟とイスティグファール(赦しを請うこと)に訴えるようになります。アッラーはクルアーンの識別章で、様々な過ちに言及し、こうした罪を犯す者には罰が与えられると述べたあと、心から悔悟する者に対しては吉報をもたらしています。「悔悟して信仰し、善行に励む者は別である。アッラーはこれらの者の、いろいろな非行を変えて善行にされる。アッラーは寛容にして慈悲深くあられる」(識別章25:70)。
この節によれば、罪や悪事を犯し精神的な歪みを被っている者が悔悟し赦しを求めて直ちにアッラーに向き直るなら、アッラーは悪事と善行を取り替えてくださるとのことです。ベディウッザマン師はこの節について異なるアプローチをしており、悪に傾きがちな人間の限りない潜在力が善への潜在力へと転換することだと仰っています。であれば真摯に悔悟してアッラーに向き合うことによって、人はそうした偉大な転換を遂げる手段を手に入れることとなるのです。
イスティグファール:個人の再生にとっての人生の湧水
預言者様(彼に祝福と平安あれ)は、「誰であれ(審判の日に)自らの行いの帳簿を見て喜びたい者は、その中に記載されるイスティグファールの量を増加させなさい」[3]と仰っておられます。イスティグファールの勇者でもあられる預言者様は、日に100回のイスティグファールを行っているとも述べられました。我々はこの状況を、精神的な旅路で常に向上されている印だと解釈するのと同時に、あらゆる人々が従うべき理想的な例であると見なすことができます。社会の中で指導的な立場にいる人物の態度や振る舞いすべては、社会全体にとっての手本となるものです。ある組織の指導者が腐敗していればおそらく、下で従う人たちにもその腐敗は押し寄せていくでしょう。同様に絶えず善行に勤しむ指導者の存在は、人々を善に導く上で非常に重要な誘因となります。この観点から、非常に理想的な模範であられ、彼に従う人々を天使が舞う領域へと上昇させた預言者様は日に100回のイスティグファールをされていたのだと言えます。
実に信者はどのようなレベルであれ、自らの人生を思い起こしてみれば、アッラーの赦しを請うべき過ちや欠点を見出すことができるでしょう。どこかに行く途中で見るのを禁止されたものに好色な目を向けたかもしれませんし、重大な罪であることに気づかないまま他人を中傷したかもしれません。それゆえ、人はたった一つのこうした罪が永遠の破滅の引き金となりかねないことを認識し、直ちに赦しを願って加護を求めなければなりません。ベディウッザマン師は著書「レマー(光)」[4]集の中で、大したことの無いように見えるものが永遠の迷いの原因となりえる事実に関心を引こうとしています。「警戒し注意深くありなさい。常に注意深く行動し、沈没を恐れなさい。一口の食べ物、一言、一粒、一瞥、一つの手招き、そして一つのキスに溺れないように!広大で全世界をも包含することのできるあなたの能力をこうしたものに溺れさせないように」。人間はこの世的なことでさえも真剣に計画を立てようとします。例えば新たな事業を始める前には徹底的な予備調査を行い、それにしたがって投資を行います。それから進捗具合や採算性をチェックして月間解析を行います。一時的なこの世のビジネスのためにさえこれほどのプランニングや評価が必要だとしたら、永遠の人生のためにはさらなるものが必要となるのではないでしょうか?
この事柄についてもう一つ別のポイントを指摘しておくことが役に立つかと思います。ベディウッザマン師は「ドゥアーとアッラーへの信頼が我々の善を行うことへの意欲を大いに強めてくれるように、悔悟とイスティグファールは我々の悪へと傾く気持ちを打ち負かし、罪を遮断してくれる」と仰っています。つまり、悔悟しアッラーの赦しを請うこと(タウバとイスティグファール)が人間の悪に傾きがちな性向に対する壁の役目を果たしてくれ、罪を大槌で打ち付けて無力化してくれるように、ドゥアーは我々の善への意欲を強めてくれるのです。このように、タウバとイスティグファールと一方の翼とし、ドゥアーをもう片方の翼として羽ばたく人は、アッラーのお優しさゆえに人間性の完成という頂上へと上昇し、人生の誉れであられるお方(彼に祝福と平安あれ)の足元に自身を見出すこととなるかもしれません。
しかしこのこともお伝えしたいのですが、心と魂の生の復元に奮闘する代わりに最初からその破壊に対する障壁を築くことができたなら、と思わずにはいられません。何かが破壊されてからではそれを復元するのは非常に困難だからです。以前別のところでもお話ししたかと思いますが、私がトルコのエディルネという町にあるセリミエモスクで若いイマームとして着任した頃、モスクの復元工事が始まりました。エディルネで過ごした6,7年の間、スルタン・セリム3世の治世に6年で建てられたモスクの修復はまだ終わっていませんでした。破壊されたものを元の状態に復元することは、それを新たに建設するよりはるかに難しいのです。ですから罪によって歪みを被った人が精神的な回復をみるのは思ったほど簡単ではありません。であれば最初から破壊に対して注意深くあり、罪に対して警戒を怠らないようにしなければならないのです。
[1] サヒーフ・ブハーリー、マルダー、1
[2] 「懇願する心」(アル=クルーブ アッ=ダーリア)はイスラームの様々な出典をもとにフェトゥフッラー・ギュレン師が選別、編纂したドゥアー・ズィクル集。
[3] カンズ・アル=ウンマール、1/475,2065
[4] 「光」は卓越したイスラーム学者であるサイード・ヌルシー(1876-1960)が著したクルアーン注釈書「リサーレイヌール」(光の書簡集)全集の主要な4巻のうちの一つ。
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