「宗教的行為は他の何ものでもなく意志によって決まる」

「宗教的行為は、他の何ものでもなく意志によって決まる。移住(ヒジュラ)をアッラーとその使徒のために行なう者の移住はアッラーとその使徒を目指した者と見なされる。もし誰かが豊かな世界やあるいは結婚する予定の女性のために移住を行なえば、その者の移住もまた、それに応じたものとなる」[1]

この言葉を預言者ムハンマドが語られたきっかけは移住であり、また主題も移住である。伝承によれば、預言者ムハンマドはこの言葉を次のような出来事のために語られたという。

マッカからマディーナへ、皆アッラーのために移住を行なった。ただ、名前は伝えられていないある人物がおり、その者だけは自分が愛していたウンム・カユスという名前の女性のために移住を行なった[2]。彼が信者であったことは疑いのない事実であるが、その意思と考えは行動に遅れたのである。名前は明らかにされないまま、この出来事は先に述べた預言者の素晴らしいハディースで取り上げられる事になったのだった。

彼も移住者ではある。しかし、ウンム・カユスのための移住者であった。ここに、特別な理由があったとそのハディースが他の場合にも通用することの妨げにはならない。このハディースは普遍的なものである。全ての事項に対して、誰に対しても通用するものである。

意志

ただ移住に限らず、全ての教えのための行動は意志によって決まる。人は移住をしようと望んだ時、その意志としてただアッラーと使徒のためであるなら、その報酬としてアッラーと使徒を見出すことができるだろう。これは礼拝においても、断食においても、喜捨においても同じである。アッラーの権利に重きを置く者は、常にアッラーを正面に見出すことができる。これは、アッラーの慈愛、援助、お恵みといった形で実現する。人はこれらを得て喜び、我を忘れ、平伏して祈り、アッラーへさらに近づこうとする。そしてアッラーに近づくにつれて、こういった感情、考え方が全ての振る舞いを支配するようになる。そのお陰で、全てが変わってしまう世界、すなわち墓場で、復活の場で、あの世にかかる橋で、その者はまた正面にアッラーを見出すことができるのである。

しかし、その意志にアッラーを持たない人は、どれほど移住のために努力したところでその目的が女性であった以上は、全ての困難さを自分の喜びのために乗り越えた事になり、ある意味では全ての苦労も無駄になってしまうと言えるのである。

常に肉体でもってのみ生き、自分のために物事をなす者、魂や良心の声に耳を傾けない者は、無駄に行動し、あちらこちらで人生を浪費してしまうことになり、アッラーの承諾のために行動して生きる者が獲得する結果を得ることはできない。他のハディースで預言者ムハンマドは「信者の意志は、その行動よりも価値がある[3]」と述べておられる。なぜなら人は、どれほど努力しようと、目指す行動に到達できないことがあるからである。アッラーの豊かなお恵みは、その行動以上にそこに存在する意志をも評価されるのである。だから、人が自分の意志によって獲得するものは、実際の行動によって獲得するものよりも多い。そういった意味でも、信者の意志は実際の行動よりも価値があるのだ。

ここでのテーマに関係するものとして、次のハディースにも注意を傾けていただきたい。預言者ムハンマドは次のように言われている。

「注意しなさい。人間の構造において、一つの肉の部分がある。もしそれが平安を得るなら死体そのものも平安を得る。もしそれが駄目になったら、死体そのものも駄目になる。注意しなさい、それとは心臓のことである」[4]

あなたがもし全ての行動をアッラーのために行なっていれば、あなたが地面に撒いた種は成長する。最初は小さな胚芽のようで、力もないようであっても、時が経てば大木になり、天国であなたはその木陰で休むのだ。その種は、あなた方の意志のあり方に応じて撒かれ、育ち、天国の果実としてあなたの前に現れるのだ。

意志によって、人の習慣や癖でさえ、信仰行為となる。夜寝る時、夜半に起きて信仰行為をしようと意志する者は、眠る時の息までがアッラーを唱えている事になるのだ。

そもそも、もしこれらのことがなかったとしたら、これほど少ない行動でどうして天国を獲得することができるだろうか。もし人に永遠の命が与えられるのであれば、その人の永遠にアッラーのしもべであろうという意志に対してそれは与えられるのである。不信心者についても同じことが言える。すなわち、永遠の地獄という状態である。

そう、我々は意志として永遠にアッラーのしもべであろうという考えを持っているからこそ、天国へ入るに値することを得ることができるのだ。不信心者は、その意志として永遠に恩知らずであるという考えによって地獄に落ちる罰を受けることになる。小さいものであれ大きいものであれ全ての行為の価値は、ただその意志によって決まるのである。

さらには、意志だけで獲得するものも多くある。例えば、誰かが何か善いことをしようと意志して、もしそれを実現できなかったとしても、それは善行として認められる。もし、それを実現できれば状況によってより多くの善行をしたことになる。ただ、悪いことをしようという意志があった場合は、それが意志のままである限り罪と認められることはない。実行された場合に、一つの罪として見なされるのである[5]。もちろん、罪はそれに応じた罰を必要とするものである。

移住

ここで、このハディースにおいて「移住」(ヒジュラ)に特別な重要性が与えられることも見逃してはいけない。預言者ムハンマドは「マッカの制圧以後はヒジュラはない」[6]と言われている。ここで「移住」とは預言者モハンマドがマッカからマディーナへ移住したことという意味であり、固有のものとしての移住は終了した。しかし、普遍的な意味での移住は続いており、最後の審判の日までも続くであろう。なぜなら移住は、「ジハード」(アッラーの道のために奮闘努力すること)の双子の兄弟のようなものであるからである。共に生まれ、共に生きるのだ。預言者ムハンマドはこのように言われている。「ジハードは最後の審判の日まで続くであろう」[7]

そう、母から、父から、親友から離れ、必要とされている地域へ、正義と真実を説くために故郷を捨てて出向く布教者たちは決して終わることのない移住を続けているのであり、当然その見返りは与えられるであろう。

しかし別の観点から、アッラーと使徒のために行なわれる移住に対して与えられる善行の価値については、明らかにされていない。おそらくは、このような宗教のための行動の価値はあの世において驚くほどのものであることを示しているのではないか。天使はその行動をそのまま記し、その褒美はアッラー御自身が評価されるのである。

このハディースの最初にある〔イッネマー〕という単語は「(他のものではなく)、ただ...である」を意味する。それで、この文の意味が「行為はただ意志があってのみ宗教行為となる」となるのである。つまり、意志を伴わない宗教的行為は決して承認されないという意味になる。人が意志のないまま千回礼拝しても、何年も断食を続けても、財産の全てを捧げたとしても、巡礼に行ったとしても、この人は礼拝をしたことにもならなければ断食をしたことにもならず、喜捨をしたことにもならず、また巡礼をしたことにもならないのである。つまり、これらの行動を宗教的行動と成しているものは人間の意志である。

罪からの移住

ここでのテーマにもう一度向き直ってみるなら、預言者ムハンマドはまず、意志といった広い意味を持つ事柄について三つの文で解説をされている。それから、移住といったこれも広い意味を持つ事項についても、二、三の文でそれを示されている。罪から遠ざかるための移住から始まって、審判の日まで続くアッラーの道のための移住まで、全ての移住、聖遷についてこれほどわかりやすく、的を得た表現で、しかもそれをこれほどの短さの中に凝縮させて語ることは、ただ預言者ムハンマドにのみ可能なことである。

ここで次のことを述べたい。最も偉大な移住者は、罪から遠ざかり、アッラーへの愛以外の全ての愛をその心から拭い捨てた者である[8]。

ある日、イブラーヒーム・ビン・アドヘム(757年)が巡礼中にアッラーに次のように祈っていた。「アッラーよ、あなたへの愛に私は虜になりました。あなた以外の全てを捨ててあなたのおそばに来ました。あなたを拝見してから、私の目は他の何をも見なくなりました。」彼がちょうどこのようなお祈りで満ち溢れ、それがもたらす精神的な雰囲気の中にある時、彼はカアバの片隅に息子の姿を見た。息子も彼を見つけた。何年も会わなかったことから来る恋しさは、二人をお互いに向かって走らせた。ちょうど抱擁しようとした瞬間に、小さな声が聞こえた。「イブラーヒームよ、一つの心に二つの愛は同居しない。」ここでイブラーヒームはまた別の感情を持つ。「私の愛情を妨げるものを取り上げてください、アッラーよ!」と、息子を足で蹴倒したのであった。[9]

アッラーのお恵みへの移住

罪から遠ざかり、神の扉を叩くこと、神のお許しが得られるまでその扉から離れずにいること、これも一つの移住である。イブラーヒーム・ビン・アドヘムの次の祈りの言葉はそのことをとても美しく表現している。

「神よ、罪深きしもべがあなたのところに来ました

罪を隠さず述べて、あなたにひれ伏しています

もし赦されるのならばそれはあなたの偉大さによるものであり

もし追い払われるならばあなた以外の誰が恵みをかけることができるでしょうか」

それまで犯してきた罪を犯すのをやめ、同じ罪に戻るならば地獄に落ちること以上に罪深く罰せられるべきだと見なす人は、常に真実の意味で移住の途上にあるのである。

宗教上赦されているものとそうでないものとの境界線のあたりを地雷原のように見なしてそこに近づこうとしない人、手に、足に、目に、耳に、口に注意を払う人は、人生の最後まで常に移住をしている事になる。このような人は、人々の中にいようと、片隅で一人ぼっちでいようと、聖なる移住者たちの心が彼と道を共にする。ただ、孤独な状態にある時、移住のまた別な一面がある。人はそこでアッラーへの親愛感を持ち、神聖な風によってその名誉を与えられる。

これまでの説明を要約してみると、このハディースは次のようなことを示している。

意志は、宗教的行為の本質である。意志を伴わない行為は無意味である。

意志は、よいことを悪い事に、悪いことをよい事に変えてしまう、薬である。

宗教的行為が宗教的行為であるかどうかはその意志にかかってくる。意志を伴わない移住はただの旅行であり、意志の伴わない聖戦はただの凶暴な振る舞いであり、意志の伴わない巡礼は観光旅行であり、意志を伴わない礼拝はただの運動であり、意志を伴わない断食はただの食事制限である。これらの行動が人間を天国へと羽ばたかせる翼となることは、ただ意志によってのみ可能である。

永遠の天国は永遠にしもべであるという意志から、永遠の地獄も永遠の否定と憎しみから、もたらされるものである。

人は意志のお陰で、ほんの少しの努力とほんの少しの元手で、とても大きく非常に貴重なものを手に入れることができる。

意志というクレジットを上手に使う者は、それによって多くのものを得られる。

この世的なもの、そして異性は恵みとなり得るべく創造されたものであるが、その恵みを悪用し、あるいはそれらとの関わりにおいてイスラーム的価値に従わない場合、これらの恵みはアッラーとその預言者の満足を得るための妨げとなり得る。そして人間が全てを失う元になり得る。

このようなまだまだ多くのテーマがあり、それら一つ一つのテーマは一冊の本になり得るものである。小さな粒子によって太陽を示すかのような、あるいは海を滴に閉じ込めるかのようなこの預言者ムハンマドの言葉においては、この広いテーマでさえ数語の言葉で表現されてしまうのである。

 


[1] Bukhari, Bad'u l-Wahy 1; Muslim, 'Imarah 155; Abu Dawud, Talaq 11  (聖ウマルから伝えられている)
[2] Kastalani, Irshadu as-Sari 1/55
[3] Haithami, Mejma' al-Zawa'id 1/61,109
[4] Bukhari, Iman 39; Muslim, Musakat 107; Ibn Hanbal, Musnad 4/280
[5] 参照Bukhari, Riqaq 31; Muslim Iman 206-207
[6] Bukhari, Jihad 1; Muslim, 'Imarah 85
[7] Haithami, Majma' al-Zawa'id 1/106
[8] 参照Bukhari, Iman 4; Ibn Maja, Fitan 2
[9] Feriduddin Attar, Tezkiretu'l-Awliya, イブラーヒーム・ビン・エドゥヘム

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