「忍耐とは、災難の最初の衝撃を受けた時にあるものである」

このハディースには、次のようなエピソードがある。

預言者ムハンマドは、墓地においてイスラーム以前の風習が続けられているのをご覧になって、信者たちが墓地に出かける事を禁じられたことがあった。しかしその後その禁止は解かれ「私はあなた方が墓地に出かけるのを禁じていましたが、これからは墓地に出かけてください」と命じられ[1]、墓参りを推奨されるようになった。なぜなら墓地には、人々を終わりのない欲望から解放するための、この上もなく効果的な忠告が秘められているからである。預言者御自身もしばしば墓地を訪問され、毎週少なくとも一回はウフドの戦いの殉死者たちの墓に行かれた。

ある時墓参りをされた時、一人の女性が息子の墓の前で大声で泣きながら、体をかきむしるようにして、不適切な表現をしているのをご覧になられた。預言者ムハンマドは彼女のそばに行かれ、忠告しようとされたが、彼女は預言者の顔を知らなかった。「邪魔をしないで。あなたは私がどんな目にあったか知らないのよ!」と言ったのだった。預言者は何もおっしゃらずに彼女のそばから離れられた。その場にいた者たちはその女性にそのお方が預言者である事を教えた。彼女は驚愕した。知らずに預言者に失礼な態度を取ってしまったのであった。大急ぎでムハンマドの家を訪問した。ドアをノックもせずに家の中に駆け込み、預言者にわびた。預言者ムハンマドは、彼女に次のように言われたのであった。

「忍耐は、災難の最初の衝撃を受けた時にあるものである」[2]

預言者は、この数語からなる言葉で何冊もの本になるようなテーマを奇跡的な表現で語られているのである。

忍耐の種類

災難に対しての忍耐、宗教行為における忍耐、罪に抵抗する時の忍耐...。

忍耐(サブル)という言葉と、アラビア語で「サビル」という草(ニガヨモギ)は同じ語根を持つ言葉である。ニガヨモギが毒のように苦いことはよく言われる。医学的には、薬草として知られるものでもある。忍耐とは、この薬草を食べるようなもので、非常なつらさを伴う。しかしこの苦さは、最初のうちだけのものなのだ。結果は常に、甘い味がするのである。

災難に対しての忍耐

忍耐すること、歯を食いしばること、耐えること、耐久性を見せること、動揺しないこと、意志を麻痺させないこと、毎日困難な出来事をじっと堪えること、これらは当然容易なものではない。ただ、これらは全て、災いの最初の衝撃を受けた瞬間に行なわれなければならない。

我々を災いが襲った時、最初はそれは耐えることなどできないもののように見えるかもしれない。すぐにこのショックを克服する術を探し求める必要があるのである。場所を変えたり、他の状態に移ることは、人の心理状態を変化させ、我々にショックを与えた事件を忘れさせる。これは自分の状態を変えてみることによって可能となる。立っているなら座ってみたり、やっていることを変えてみたり、例えば小浄(礼拝する前に体の一部分を清めること)をしたり、礼拝をしたり、あるいはそのことについて話すのをやめてみたり、あるいはいる場所から遠ざかってまた違った雰囲気の中に身を置いてみたりする事によっても可能であろう。時には、少し眠ることでショックが克服できることもある。どのような形であれ、状況を変える事によってショックをやわらげ、耐えられないように見えた苦しみもわずかであれ軽減される。

宗教行為における忍耐

日に五回の礼拝、年に少なくとも一月の断食、喜捨、その他アッラーのしもべとして従うべきご命令は、ただ忍耐によって実現する。これらは人間の生涯に規律を与え、また別の色合いを与える。このような生き方は輝かしい光の道の上に過ぎて行き、生涯に豊かさを与え、天国を得る。そのため人は歯を食いしばり、忍耐を重ねて宗教行為を行い、自らの人生に光を与えるのである。

忍耐は、宗教行為を継続させる上で重要なものである。初めて礼拝を行い始めた者にとって、最初は礼拝することは困難に見えるかもしれない。しかし少々我慢して、その魂が礼拝と一体になるようになれば、もはや礼拝をしないことが彼にとっての最大の苦しみと感じられるようになるのである。断食や喜捨や巡礼などについても同じことが言える。

考えてみてほしい。聖地巡礼のような困難な行為を一度達成した者が、毎年行く事を望み、それが制限されると彼らに気を狂わせるような苦しみを与えるようになるのだ。これほどの宗教行為に対する熱意は、一つの観点からは、その行為が困難なものであるという最初の衝撃を克服したということを意味するのである。これは全ての行為についても言える。

罪に抵抗する時の忍耐

人は、ハラーム(宗教上禁じられているもの)についても同じような忍耐を示さなければならない。罪の最初の段階で忍耐が示されれば、それに引き続いて訪れるべき悪を阻むことができる。預言者ムハンマドが聖アリーに「一見はよいがそのあとは悪である」[3]と言われているのはそのためである。つまり、人の目は見てはいけないものを見てしまうこともある。しかし、その瞬間すぐに目を閉じ、顔をそむけるならそれは罪にはならない。さらには、ハラームであるものを見なかったということで善行にも数えられ得る。しかし、もう一度見たり、引き続いて見ていたりすると、それは毒矢のように人の魂に突き刺さり、その心に悪い考えをもたらすことになる。意志の力が失われる。なぜならハラームへの視線はハラームを犯す道への招待状のようなものであるからである。見ることによってもっと見たくなり、人はそれに慣れてしまい、そして後戻りすることが困難な道へと進んで行ってしまうのである。だから、そのような状態に陥る前に、最初の瞬間にそれに耐え、顔をそむけ、目を閉じることが、預言者ムハンマドから我々に勧められているのである。

エピクテトス(哲学者、55~135年)の次のような言葉がある。「悪い考えがあなたの心を捕らえた時は、最初の段階ですぐにそれから遠ざかるように努めなさい。それに導かれて行ってしまうと引き返せなくなる。」この言葉には、神からの知恵が込められている。もし彼が預言者ムハンマド以降に生きた人物であったなら、この考えはムハンマドからのものであると断言できたであろう。

人は、ハラームに対して抵抗するような振る舞いを積み重ねていくうちに、それが彼の性格、特色となってくる。それまでの訓練によってその心に生まれた信仰の光が、地獄の火花である罪に対して防壁となるのである。そうして、ハラームを見ないことはもはや彼にとって普通のこととなるのである。何かハラームを犯すような状況が起こった時には、自らの心にある信仰の蜜の味のために、その精神状態から遠ざけるような全てのものから逃れようとするのである。このような状態にある人が、意識して罪を犯すことはもはや考えられないのである。

災いにはそれぞれに応じた衝撃がある。それが克服された時、災いは恵みとなり、苦しみは味わいに、苦痛も喜びに変わるのである。このような心においてはもはや苦しみは治まり、限りない喜びが後に残る。しかし、これらは全て最初の衝撃を受けた瞬間にそれを克服できるかどうかにかかっている。これほど意味深い内容を預言者ムハンマドはほんの数語の言葉で語られているのである。

 


[1] Muslim, Jana'iz 106; Ibn Maja, Jana'iz 47
[2] Bukhari, Jana'iz 43; Muslim, Jana'iz 14,15
[3] Abu Dawud, Nikah

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