「無益なものを放棄することはイスラームの良さの一つである」

ハディースの移住に関しての部分には先に少々触れたのでそれで十分とする事にして、預言者ムハンマドのそれ以外の輝かしいお言葉に移ろう。そのお方は言われる。

「ムスリムにとって無益なもの〔マーラヤーニ〕を放棄することは、イスラームの良さの一つである」[1]

もちろん、これだけの訳では預言者ムハンマドの言葉の深さを理解し、この短いお言葉の全てを把握することは不可能である。

無益なものとは何か?

「無益なもの」とは、人にとって何の関係もなく、その人の現在においても過去においても全く何の役にも立たない不必要なことに従事するという意味である。やっていることが、彼自身にも、家族にも、民族にさえも、何の効果もない。イスラームの素晴らしさを獲得した人は、同時にこのマーラーヤーニの状態から遠ざかっているということになる。このようにしてこのハディースは、人間に何をするべきかをも教えているのである。人は常に、気高く、高尚な問題と取り組むべきであり、取り組んでいる仕事は健全な形で行い、自分自身や家族や社会に効果をもたらす必要があるのである。まじめであることの定義もこのとおりである。

不必要な事に従事して忙しい人は、本来自分にとって関わりがある物事に時間を割く余裕がなくなる。長時間、自分に関わりのないはずの事やその思考に時間を費やしているうちに、自分自身のために必要で大きな関わりを持っている事に時間を割り当てることができなくなり、それらを行なう事もなくなってしまう。

いまだ自分の進むべき方向を見つけられず、自分自身の調節もできない人は、正しい行いをすることができない。心や頭の中が無駄なことで満たされた状態の人が、どうやって高尚な事項に取り組むことができるだろうか。

ハディースでは、ムスリムが暮らすイスラームは常にアッラーと向き合っているという意識を持って行動すること(イフサン)と健全さに到達することの重要性について言及されている。つまり、実際と外見において健全で不都合がなく、欠点もない段階に、内面においてはイフサンを象徴できる段階に達したムスリムは、無益なものを放棄するべきであり、そして放棄するものでもある。

内面のまじめさが外面に反映される

まじめさがない人は信仰行為にも注意を払わない。このような人は、礼拝している時はもしかしたらまじめなように見えるかもしれない。しかし、内面において心や魂がまじめさを持っていなければそれはあたかも蛍が自分が星に見えると思い込んでいるようなものだ。長期間そのように見せかけることも不可能である。性格は隠すことができないからである。まじめさがもはや変わりようもない性格となっていれば、誰であれ、遅かれ早かれ自分の性格を表に出してしまう。訓練と管理によって内面において心や魂がまじめさを持つような段階に達することができる。従って「そうであること」が「そのように見えること」の前に立ちふさがり、それを妨げるのである。スズメがクジャクのふりをし続けることは不可能である。つまり、人は意識と記憶の子供であり、それらから逃れることはできないのだ。

話をこのようにまとめることができるだろう。外見は常に内面から支えを受けるべきであり、そうすれば外面は健全なものとなる。人間の内面にはまじめさが必要であり、それが外面にも反映されるであろう。

聖ウマルは、自分の後にカリフ(イスラーム共同体の指導者)の地位に推薦されていたある偉大な教友について次のように語っている。「その人は、全ての面においてカリフにふさわしい。ただ、彼は冗談が多い。カリフと言うのは、絶対的なまじめさが要求される立場である」[2]

人間を治めるという意味でのカリフに絶対的なまじめさが要求されるのならば、この世でアッラーを示す立場にあるという意味でのカリフにまじめさが要求されないことはあり得ようか?

アッラーの御前で、誠実なるしもべであるために必要なまじめさを獲得していない人が、それ以外の場でどうしてまじめであり得ようか。

常にアッラーと向き合っているという意識(イフサン)とまじめさ

ハディースの最初にある「...からである」〔ミン〕の語は、境界線を引くということを意味している。これによってムスリムが、常にアッラーと向き合っているという意識に到達するための道が示されているのである。それは、不注意さ、無益なものにこだわることを放棄するということである。まじめさを獲得し、不必要なものと関わることを放棄せずして、人がこの常にアッラーと向き合っているという意識に到達することは不可能である。

天使ジブリールと預言者ムハンマドの問答において、「イフサン」の段階は最終段階であるとされている。ムハンマドを訪れたジブリールは、まず信仰を、そしてイスラームを尋ねられた。それらに対する預言者の返事を承認された後「イフサンとは何か?」と、イフサンについても尋ねられた。預言者は「イフサンとは、アッラーを見ているかのように、アッラーにしもべとして従うことです。あなたがアッラーを見ることができなくても、アッラーはあなたを見ておられるのです」[3](このハディースを後でも指す。)と答えられたのであった。

この段階に到達するのは、アッラーをこの上もなく畏れること、この世的なものを放棄し、信仰行為を行い、アッラーに愛されようとすることによって可能となる。人はまずこの点に達することを理想とし、目的とするべきである。それから、この段階へ到るための道を一つ一つ試してみるべきである。

アッラーは、人間にとって、脛動脈よりも近い存在であられる[4]。ある詩人が歌っているように、

「アッラーを外で探し求めていたが、心の中に、命よりも近いことに気づいた」

他の詩人も詠っている。

「覆いの後ろから知らせを待っていたが、覆いが取り払われて私は私を見た」

人は、アッラーの偉大なる手で動かされている。何もかも、アッラーが知り給うところにより成り立っているのである。アッラーを外で探し求めることは徒労である。なぜならアッラーは人間にとって、彼自身よりもなお近いところにおられるからである。このことが明らかになるのが、イフサンである。

全てにおいての健全さ

いったん人がその心をこのイフサンの感覚で包んでしまうと、もはや彼の振る舞いを健全さが支配する事になる。アッラーは、事が健全に成されることを望まれ、またよい事を好まれる。聖クルアーンではこのように言われている。

「(彼らに)言ってやるがいい。(善い事を)行え。アッラーはあなた方の行いをご存知であられる。かれの使徒と信者たちもまた(見ている)。やがてあなた方は、幽玄界と現象界を知っておられるかたに帰される。その時、かれはあなた方にその行なった事を告げ知らせる」(悔悟章9/105)

つまり、行なわれることは全て、預言者ムハンマドや賢明な魂を持つ信者たちが観察しているのである。だから、全ての行為はそれを考えた上で行なうべきであり、それによってその行為を行なう者が恥をかくこともなくなるであろう。そのためには、行為が健全な形で行なわれることが条件となる。そしてそれを成功させることは、ただ内面がイフサンに到達する事によって可能となる。人間は内面世界によってこのように深みを増していく事によって、その振る舞いも完璧なものとなり、その人はもはや無駄なことに関わることもないであろう。このようにしてイスラームの素晴らしさが獲得され、別の表現をするなら、素晴らしい存在であるイスラームを実践し、その素晴らしさにふさわしい成熟した段階に達した事になるのである。

このように、預言者ムハンマドはこれらの意味の全てを、この数語からなる言葉で説明されているのである。私はこの事を解き明かそうと努めたが、それでも十分なことが言えた訳ではない。花崗岩から、ほんの少し削り取っただけである。あなた方に紹介できたのは、本来の石のほんの一つ二つのかけらである。それらでさえも、もしかしたらあなた方の心に十分に吸収される形で解説することはできなかったかも知れない。ただ、私や他の私のような者のこの無力さは、預言者ムハンマドの言葉、表現における力を証明するものである。我々は、預言者が語られた言葉を理解する事においてさえ、無力である。しかし、預言者はこれらの言葉を考えることさえなく語られたのである。我々にとってこれほど難しく、これほど意味深い言葉は、預言者ムハンマドが普通に語られた言葉なのである。預言者特有の知性以外の何で、このことの説明がつくであろうか。賢明な、頭のいいといった言葉は、この特質を語る上では全く不十分なものである。

 


[1] Tirmidhi, Zuhd 11; Ibn Maja, Fitan 12
[2] Sibli Numani; "全ての面で聖ウマルと政治体制" 1/299
[3] Bukhari, Iman 37; Muslim, Iman 1
[4] 聖クルアーン,カーフ章50/16「われは(人間の)脛動脈よりも人間に近いのである」

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