天国は困難さに、地獄は快楽で包まれている

以下のような預言者ムハンマドのお言葉がある。

「天国は周囲全部を気に入らないようなもので包まれている。地獄は(肉体的欲求や欲望を増長させる)快楽に包まれている」[1]

地獄は快楽で覆われ、快楽の風呂敷で包まれ、快楽の空気に開放されている。天国はと言えば、気に入らないような物、困難さに覆われている。全てを物質的世界に求める者の目から見れば、天国へ続く道にあるものは決して美しく思えるような種類のものではない。

実際は、天国も地獄も我々にとって恵みである。方角を定めるという観点から、一つには激励、もう一つには脅して追い払うと言う役割があるのだ。人は、天国の励ましを見ると常にそこに行くために努める。地獄の脅しを見ると、そこに陥らないように努め、天国のほうへと動く。このようにして、どちらも我々にとっては恵みとなるのである。

ただ、アッラーは、天国と地獄それぞれを別々の風呂敷に包まれ、人の行為の見返りとして与えられておられる。人は、自らに与えられた意志で、どちらかを選択しなければならないのである。意志によって、ある者は幸運にも天国が与えられ、ある者は反抗者として地獄に向かう。

地獄の周囲には快楽の雰囲気があり、地獄はその雰囲気に包まれている。この雰囲気は、外面上とても魅力的に見える。食べること、飲むこと、寝ること、欲しい物を全て手にすること、肉体的な快楽を得ること、人の望むものは皆、全て地獄を包むそれぞれの層のようである。地獄への道は、人の体をくすぐる快楽のモザイクなのである。

天国はと言うと、周囲を困難さで包まれた真珠貝のようである。小浄(礼拝する前に体の一部分を清めること)をすること、礼拝をすること、巡礼に行くこと、喜捨をすること、聖戦をすること、アッラーの道にある困難さに耐えること、社会の中で価値が低い者と見なされること、人権を侵害されること、監獄から監獄へと動かされること、ただ「私の神はアッラーだ」と言ったために殴られること、拷問されること、流刑に処されること、その他嫌なものとされる色々な事項。天国を包むのはこれらであり、天国はこういった雰囲気を持つのである。外から見る者は、いつでもこの覆いに惑わされてしまう。覆いのせいで、地獄は心をくすぐるものに、天国は恐ろしいものに見えるのである。そのため、人間の多くは外面に惑わされるのだ。だから、地獄へ呼ばれるものは多く、天国へ呼ばれる者は非常に少ないのである。

人の多くは小さな勘定に惑わされている。「礼拝はよいが、日に五回もやるのは私には難しい」という人は、礼拝におけるほんの些細な困難さにこだわって、道を誤ったのである。冬の寒さの中で小浄をすることの困難さが、道を誤らせることもある。しかし、先に取り上げたハディース[2]で見たように、その小浄はその困難さに耐える者を天国へと歩ませる存在なのだ。断食、喜捨、巡礼、聖戦、これらについても、同じように考えることができる。懸命な行動を取るにはその知能が妨げとなってしまう多くの者が、この些細な困難さに対して適切な態度をとれず、天国の周囲に見える困難さが、彼らがそこに入ることの妨げとなってしまうのである。

地獄は単純な欲求が仕掛けた罠である。自分の命の妨げになるとは知らずにハエが蜜に向かうように、多くの者がこの毒へ向かう。快楽は、彼らにとって毒の蜜である。この人たちは、自らを焼き尽くす火に向かって行く蛾に似ていると言うこともできよう。地獄の周囲を包む快楽に向かって、愚かにも進んで行き、気が付けば地獄にいるのである。彼らは覆いの後ろに何があるか推測できないため、地獄を覆うものは彼らの体を鞭打ち、彼らを自らに引き寄せるのである[3]。

人生の道において、道の分かれ道におられるお方を知り、そのお方からのメッセージに従って道をたどる、心を真実に目覚めさせることのできた人々は、天国への道の左右にある困難さの真の姿を理解し、決して毒にだまされることはない。彼らの心の中に種のように存在する天国がいつでも、彼らを包むのである。他の者が天国を外で探し求める時、彼らはこの世にいながらにして自らの内部に見つけたこの天国によって幸福を感じつつ生きるのである。逆に、この世の物質的天国に生きる者は、彼らの心の中にある天国を一瞬たりとも捕まえることができない。信仰とは、その中に天国を秘めた種であり、教えの否定とはその中に地獄を秘めた、また別の種なのだ。これらはあの世で大きく育ち、枝を伸ばし、真の意味の天国または地獄へと変化するであろう。つまり、信者はこの世においても天国の生活を送っているが、彼らの生き方は外から見ると困難であるように見えるのである。

天国に到達したいという願いに一生懸命な魂は、その道において、魂に反して自己の欲求が好まない礼拝や小浄や断食のような肉体的宗教行為がもたらす苦痛、あるいは喜捨、施しといったあたかも税のような重い責任、巡礼や聖戦のような財産と肉体に関する責任、これらにたいしてもう先に進めないような状態に陥ることもある。その道において、ある者は小浄や礼拝に、ある者は空腹や渇きに、ある者は富や命への執着心に、ある者はこれらのいくつもに同時にこだわり、そこで行き止まってしまい、数歩先で美しい姿を見せ自らを待つ天国に到達することができないのである。

天国は、ここで述べたように何百もの責任を伴う上、多くの困難さや起伏に囲まれた頂上にある世界であり、また想像を超えた幸福が待つ夢の国でもある。地獄は、欲望を溢れさせ、肉体的欲求を増長させる山のような欲が、永遠へと続く道を遮り、肉体的な欲求を膨らませ、力のない魂の注意を惹きつけ、ブラックホールのようにそこを通る者をその恐ろしい引力で引きつけ、溶かしてしまう恐ろしい井戸なのである。

地獄のその飾り付けられた覆いや飾りの明かりを見て惑わされ、自らを地獄の井戸に押しやってしまい、天国の覆いのみを見て、永遠の幸福や驚きの世界を怖がってしまい、近付こうとしない者がどれほどいることであろう!

天国のことを知っている者が天国を望まないことも、また地獄を知っている者がそれに近付くことも、本来考えられない。しかし、神の御望みは我々を導くことであり、強いることではない。我々がこの世に生まれて来たことの理由が、見えないものを信じるかどうかの試験であるという事実から、天国は困難さに覆われ、地獄は快楽の覆いで包まれた形で、人々の前に置かれているのである。

ここで見てほしいのは、預言者の言葉にある力強さ、魔力、そして意味である。長い長い二つの道を全ての幸福、全ての危険と共に、恐ろしくあるいは平安な二つの絶対的結末と結びつけ、しかも常にそうであるように、最小限の言葉という基本にのっとり、この深い意味を持つ事項の説明にほんの数語のみを使われているのである。

これに関係あることとして次のことも付け加えておきたい。我々は、テーマに従って預言者の神聖なお言葉の輝きの部分のみを示すことで十分としている。しかし本来こういったハディースが文学的、言語学的な面からも我々に示す多くの点があるのである。この観点からの預言者ムハンマドの言葉を分析することができていれば、どれほどのことを証明できたであろうか。ただ、この事項は全く異なる独立した分野であるため、ここでは触れていないのである。

 


[1] Bukhari, Riqaq 28; Muslim, Janna 1
[2] Muslim, Taharah 41; Tirmidhi, Taharah 39
[3] Bukhari, Riqaq 26; Muslim, Fada'il al-Sahabah 17-18; Ibn Hanbal, Musnad 1/39

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