夜明け前の闇
誤った見地から物事が判断される時代はジャーヒリーヤ「無明時代」である。天と地の光であるアッラーへの信仰が心を捉えないことは、魂や良心を漆黒に染める。このような心や魂で物事を判断すると、近視眼的になったり、ぼんやりしたものになったりする。人々は暗い時代を、こうもりのように生きるのである。
偶像を崇拝すること、あるいは人を神格化すること、あるいはこの世の創造を偶然で物質的な原因から起こったものと見ること、これらは全て闇である。このような共同体の精神的、社会的、さらには経済的、科学的な状態は、聖クルアーンで次のように述べられている。
「また、不信心者の状態は、深海の暗黒のようなもので、波が彼らを覆い、その上にまた波があり、その上をさらに雲が覆っている。暗黒の上に暗黒が重なっている。彼が手を差し伸べてもそれらはほとんど見られない。アッラーが光を与えないものには、光はない」(御光章24/40)
「真理から離れては、そこに虚偽以外何があろう。あなた方はなぜ背き去るのか」(ユーヌス章10/32)
預言者ムハンマドは、人々が真の宗教について知識を持たなかったこの時代に、そしてそれ故に多くの偶像を崇拝していた時代に現わされたのである。聖クルアーンに次のように記されているように。
「彼らはアッラーの外に、彼らを害せず、また益のない者に仕えて「これらの神々は、アッラーの御前で私たちをとりなすものです」」(ユーヌス章10/18)
彼らは石や土、パン、チーズさえも使って偶像を形作り、言う。「チーズは我々と神との仲裁である」。彼らは思考と道義において、非常に堕落していた。アブー・ダル・ギファリが次のように報告しているほどである。「彼らは食事時になると座り、彼らの偶像を切り分け、食べる」
「彼らに、アッラーが啓示されたところに従え、と言えば、彼らは、いや、私たちは祖先の道に従う、という」(雌牛章2/170)
彼らは女児が生まれると生きたまま埋めた。聖クルアーンに次のように述べられている。
彼らの一人に、女児の出生が知らされると、その顔は終日暗く、悲しみに沈む。彼らが知らされたものが悪いために、恥じて人目を避ける。不面目をしのんでそれを抱えているか、それとも土の中にそれを埋めるかを思い悩む。(蜜蜂章16/58~59)
イスラーム以前のアラブだけではなく、ローマやササン朝においても、女性たちは軽蔑されていた。聖クルアーンでははっきりとこのことについて彼らが問われるであろうと宣言されている。
生き埋められた女児が、どんな罪で殺されたのかと問われる時、(タクイール章8~9)
ムハンマドが預言者であることを明らかにした後、ある時一人の仲間が彼のところに来て、彼が幼い娘にしたことについて述べた。
「ああ、神の預言者よ。私には娘がいました。ある日、私は彼女の母親に、おじのところに連れて行くから服を着替えさせるようにと言いました。哀れな母親は、それが何を意味するかを知っていました。しかし彼女は、それに従い、涙を流すしかなかったのです。妻は、おじのところに行くという知らせに喜んでいる幼い子に服を着せました。私は彼女を井戸の近くに連れて行き、中を見るように言いました。彼女が中をのぞきこんでいる時、私は彼女をけり落としました。彼女は井戸のふちにつかまり、もがきながらも、お父さん、服に砂がついてると私の服をきれいにしようとしていました。にも関らず、私は彼女をもう一度けり、彼女を生きたまま埋めてしまったのです」
彼がこれを説明している時、預言者はまるで最も親しい身内を失われたかのようにすすり泣いていた。近くにいた者が、
「預言者を悲しませたのだ!」と言ったが、預言者は
「もう一度説明しなさい」と言われ、再び説明がされた。預言者の目から流れ出る涙が、そのひげをつたった。神の預言者は繰り返し説明させることによって、次のことを説明されようとしたのであろう。
「そう、あなた方はイスラームを知る以前はそのようだったのだ。イスラームがあなた方に獲得させた人間性をもう一度認識しなさい」[1]
この時代、毎日のように、罪もない女児を生き埋めにするための穴が砂漠のあちこちで掘られていた。人間はハイエナよりも残忍で残酷だった。力の強い者は弱い者を押しつぶした。野蛮さが人間性だとされ、残酷なことが喜んで受け入れられ、血に飢えた者たちが価値を認められ、流血は高貴なものと考えられていて、姦通や私通は合法的な結婚よりも一般的なものであった。家族構成はすでに破壊されていた。多くの者は父親を知らなかった。
ちょうどその頃、全ての存在の存在理由であられるこのお方は、人々のところから遠ざかり、後に「光の山」と呼ばれることになるヒラーの洞窟にこもられていた。その目は地平線で救いの日の出を待ち望まれていた。地に伏して祈られ、何時間も願いつづけられ、神から人々のための救い主が遣わされることを望まれていた。ブハーリーやムスリムのハディース集の中でこの出来事が語られる時「自らを崇拝行為に捧げること、人々から遠ざかること」という表現が使われる。預言者ムハンマドは時には何日もマッカに戻られず、そこに滞在されていた。食べ物が尽きた時にだけ戻られ、足りるだけの食べ物を準備されて再び出かけられるのであった[2]。
このような状態を制止する何かが求められていた。そして預言者の登場によって、これらは変化したのである。無明時代と土地は、預言者ムハンマドのもたらした光によって、バラの花束になった。後に、移住の際、マディーナの住民たちが彼を迎え、このような歌で気持ちを現わした。
「ベダーの丘から月がのぼった。
アッラーのお招きに、私たちは感謝しなければならない」[3]
[1] Darimi, Sunan, Muqaddimah, 7/8
[2] Bukhari, Bad'u l-Wahy 3; Muslim, Iman 252
[3] Ibn Kathir, al-Bidayah 3/241
- に作成されました。