信頼できるということ

預言者たちの二つめの特徴は、信頼がおけるということである。この言葉「アマーナー」はアラビア語で、信心「イーマーン」と同じ語幹を持つ。「ムーミン」は信仰し、その振る舞でもって信頼がおける者であることが明らかである人という意味である。預言者たちは、ムーミンとして最高の人々であり、誠実という点でも最も高い地点にいる人たちである。聖クルアーンでも、彼らのこの特質がいくつもの章で明らかにされている。ここで一部を紹介したいと思う。

「ヌーフ(ノア)の民も、使徒たちを信じなかった。彼らの同胞のヌーフが、彼らに言った時を思い起こしなさい。『あなた方は、主を畏れないのですか。本当に私はあなた方への誠実な使徒です。それでアッラーを畏れ、私に従いなさい』」(詩人たち章26/105~108)

聖ヌーフは、その民に、次のように言っているのである。私は信頼でき、誠実で、信託されたものを守る、使徒である。つまりこの章では、一人の預言者の言葉から、預言者たちにおける誠実という特質が、明らかにされているのである。

「アードの民も、使徒たちを嘘つきであるとした。彼らの同胞のフードが彼らに言った時のことを思い起こしなさい。『あなた方は主を畏れないのですか。本当に私はあなた方への誠実な使徒です。だからアッラーを畏れ、私に従いなさい』」(詩人たち章26/123~125)

「サムードの民も、使徒たちを嘘つきであるとした。彼らの同胞サーリフが、彼らに言った時を思い起こしなさい。『あなた方は主を畏れないのですか。本当に私はあなた方への誠実な使徒です。だからアッラーを畏れ私に従いなさい』」(詩人たち章26/141~144)

「ルートの民も、使徒たちを嘘つきであるとした。同胞ルートが、彼らに「あなた方は主を畏れないのですか」と言った時のことを思い起こしなさい。『本当に私はあなた方への誠実な使徒です』」(詩人たち章26/160~162)

この形で、もっとたくさんの章を紹介することは可能である。印として信頼と誠実とを説明する多くの章がある。しかしここでは以上の章で十分としよう。

ムーミンは、アッラーの御名の一つでもあり、同時に彼を信じる者たちの重要な名前の一つでもある。アッラーに対してなぜムーミンと言われるのであろうか? なぜなら、アッラーは、信頼の源であるからである。我々に信頼を与えるのもまたアッラーである。預言者たちを誠実なものとされるのも、アッラーである。信用、信頼、誠実さといったものは、我々を預言者たちに、そして預言者たちをアッラーに結びつけるのである。結果として、この結びつきは我々を、創造者と非創造物の関係に導く。これらの意味は全て、信頼という言葉から生じるものであり、そもそもこのテーマの最も重要なポイントは、この関係を把握することである。

預言者たちの、そして預言者ムハンマドの最も重要な特質が、誠実であるのと同様に、天使ジブリール(ガブリエル)の最も重要な特性も誠実さである。聖クルアーンでは次のように語られている。「従われ、信頼される使徒である」(包み隠す章81/21)ジブリールは、アッラーに従い、アッラーによって与えられた任務によっても、信頼できる使徒である。このようにして、聖クルアーンは我々の元へ、信頼できる存在によってもたらされたのである。アッラーはムーミンである。アッラーの公表は、信頼できることが明らかなものである。聖クルアーンは、アッラーによって命じられたジブリールによってもたらされたものである。そして聖クルアーンは、信頼される預言者に、そしてその信頼を負う候補であるウンマに、もたらされたのである。

聖クルアーンから、誰もが、それぞれの段階に応じて利益を受けているはずである。ジブリールもそのうちの一人である。ある時彼は預言者ムハンマドに次のように述べている。「アッラーが、聖クルアーンで私のことを「信頼」されるという言葉で語られるまでは、私は自分の責任について不安を持っていました。この言葉を聞いて、私は安心で満ち溢れました」

預言者ムハンマドにおける誠実さ

預言者ムハンマドはまず、アッラーにより与えられたメッセージに対して、誠実であられる。ほんのわずかであれ不誠実であったことは考えられない。それから、被創造物に対しても誠実である。皆このお方を信頼する。なぜならまず彼が、皆に誠実さを示し、信頼できるということを現わしたからである。それから、我々に、信頼されるということ、誠実であるということがいかに大切であるかを示され、そして我々を信仰に導かれたのである。ここではそれらを順に追っていってみたい。

預言者としての任務における誠実さ

預言者ムハンマドは、信託に重きを置く人として選ばれ、御自身もその緊張を人生を通して持続させられたのである。啓典がくだされると、もしかして単語を聞き逃すかもしれない、と緊張され、ジブリールが言い終える前にそれを暗唱すべく何度も繰り返しておられた。そのためにこそ、聖クルアーンではこのお方に対して次のような記載がされているのだ。

「このクルアーンを催促するために、あなたの舌を忙しく動かしてはならない。それを集め、それを読ませるのはわれの仕事である。それでわれがそれを読んだ時、その読誦に従え。さらにそれを解き明かすのも、本当にわれの仕事である」(復活章75/16~19)

聖クルアーンは、預言者ムハンマドに信託された。御自身も、この偉大な預かりものに対して誠実でないことを恐れ、震えていた。そのためアッラーはそのお方を慰め、預言者ムハンマドを誠実な者とされることを保障されているのである。

預言者ムハンマドは、その生涯をこの不安の中で過ごされた。信託されたものに誠実であるために、他の者よりも努力され、その重い任務の重さをそのままその背中で感じられていた。だからこそ、最後の巡礼でされた説教で(後に「別れの説教」と呼ばれるようになった)、日が沈もうとする時彼も御自身の人生が終わろうとしているのだと言う意識をもって、誠実な友人たちにその重い任務を再度語られ、次のように言われたのである。「近く、私のことがあなた方に問われるだろう」。つまり、それより前に私があなた方に問う「私は任務を明らかにすることができたであろうかと?」そこにいる者たちは皆、響き渡るような大声で答えた。「はい、あなたはその任務を明らかにされ、それを不足なく果たされました」。この言葉に対して預言者ムハンマドは両手を掲げられ「アッラーよ、証人になってください」と言われたのである。[1]

信頼に誠実さで答えることは、まずアッラーで始まり、ジブリールから預言者ムハンマドへと伝えられ、それからウンマに引き継がれた。そして別れの巡礼で、ウンマの証言によって、再びアッラーへと達したのである。

隠すとしたら...

最も信用できるハディースの本が伝えるところによると、アーイシャは次のように述べておられる。もし、預言者ムハンマドが、啓示された聖クルアーンの一部を、あり得ないことですが隠すとしたら、次の章が隠されていたことでしょう。

「アッラーの恩恵を預かり、またあなたが親切を尽くした者に、こう言った時を思え。『妻をあなたの許に留め、アッラーを畏れなさい』だがあなたは、アッラーが暴露しようとされた、自分の胸の中に隠していたこと(養子の妻との結婚が人の口に上がること)を恐れていた。むしろあなたは、アッラーを畏れるのが本当であった」(部族連合章33/37)[2]

この章は、次のような背景を持つ。預言者ムハンマドは、手元で育てられた解放奴隷のザイド・ビン・ハーリサを、おばの娘であるザイナブ・ビンティ・ジャフシュと結婚させられた。しかしこの結婚は、望まれたとおりにはいかなかった。ザイナブは、ただ預言者ムハンマドの命令に従うためにこの結婚を認めたのであった。最初のところから、気の進まない結婚であったため、妻は夫に十分な尊敬を払わなかった。アッラーは、彼女をザイドから離婚させ預言者の妻の一人とすることを望まれていた。ただ、それまで、アラビア人の社会では、その人間が我が子と呼ぶ者は、彼の子供であるとする慣わしがあった。従ってその妻は、嫁となるわけである。

それ以前にもザイナブは、その母から、預言者の妻にと言われたことがあった。その時、預言者ムハンマドはそれを承知していなかった。今、彼女との結婚がアッラーから命じられていた。預言者ムハンマドにとって彼女との結婚は困難に感じられた。しかし、命令は命令である。アーイシャは、この出来事を言われているのである。ただ、預言者ムハンマドは自分にくだされた神意に対して誠実であった。だから、どんなに些細なことでも隠すことはあり得なかった。

もし、どれかの章が隠されるとしたら、これがその章となったであろう。しかし彼は信託されたものに誠実であり、隠すなどということはできなかったのである。

このお方の誠実さに関するもう一つの出来事がある。バドルの戦いで、不信心者たちが捕虜になった。預言者ムハンマドは、聖アブー・バクル、聖ウマルと相談された。アブー・バクルは、捕虜たちを身代金と引き換えに釈放することを提案した。ウマルは、皆を刀で殺してしまうことを提案した。さらには、彼はそれぞれが自分と親しい者を殺すことを求めた。預言者ムハンマドは、アブー・バクルの案を好まれ、捕虜たちを身代金と引き換えに釈放された。これ以降の出来事について、ウマルの言葉を聞いてみよう。「私はあるところに出かけ、戻ってきたところだった。預言者ムハンマドとアブー・バクルが泣いているのを見つけた。地に伏して、激しく泣いているのだった。私は理由を尋ねた。二人とも答える元気もなかった。さらに尋ねた。どうか教えてください、泣くべき理由があるのなら私も一緒に泣きたい、と言った。預言者ムハンマドは泣きながら、少し前に次の章がくだされたことを語られた。[3]

「その地で完全に勝利を収めるまでは、捕虜を捕らえることは、使徒にとってふさわしくない。あなた方は現世のはかない幸福を望むが、アッラーはあなた方のために来世を望まれる。アッラーは偉力並びなく英明であられる」(戦利品章8/66)

もし、預言者ムハンマドがどれかの章を隠されるとしたら、二番めに候補に挙がるのはこの章であろう。しかし預言者ムハンマドは、神意に対して完全に誠実な方であられた。

この二つの章については、後の部分で、預言者ムハンマドの潔癖さを示すためにも取り上げる。

全ての存在に対して誠実であること

預言者ムハンマドは、預言者としての任務において、アッラーの送られたメッセージに誠実であったのと同様に、その誠実さはその精神にすっかり根をおろし、他の全ての存在に対しても誠実であった。

ある日、モスクにおられる時、妻のサーフィアが預言者ムハンマドを訪問した。しばらく座っていた後、自分の家に戻るべく帰途につこうとした。預言者ムハンマドは、妻を見送るために彼女と一緒に外に出られた。そしてまだ二人が何歩も行かないうちに、いく人かの教友たちが二人のそばから離れて行った。預言者はすぐに彼らを呼び止め、サフィーアの顔を見せ「見なさい、これは私の妻のサフィーアだ」と言われた。教友たちはショックを受けたようで「預言者よ!どうしてあなたについて悪く思うことがあり得ましょうか」と言った。

預言者ムハンマドは、常にそうであられるように、この振る舞いによってもあることを教えられようとしたのである。預言者は「シャイターンは、常に人間の血管に潜み、動き回っている」[4]と言われている。シャイターンはこれほど人間に近いところにいるのであるから、人間の耳に何事かをささやきかけることは大いにあり得る。もし、万に一つでも、人が「預言者のそばにいる女性は誰だったのだろう」。などと考えるようになれば、その人は永遠の命を失い信仰の光を消してしまうことになる。そのために、この慈悲深い預言者は即座にその状態に介入され、御自身への信頼を守ると共に、信者たちの信仰をも、守られたのである。

そのお方は誠実であることと、信頼されることにこれほどの重要性を置かれていた。そもそもそのお方の、まだ預言者になる以前の呼び名も、信頼(アル・アミーン)であった[5]。後に、このお方に対して無慈悲な敵となる人々でさえ、信頼できる人と認めていたのである。アブー・ジャハルに、名誉や誇りというものも含めて、最も大切なものを誰に預けるか聞いたならば、おそらくは「アル・アミーンに」と答えるであろう。最初に思いつくのは預言者ムハンマドのことに違いない。

預言者ムハンマドは、生涯を通して誠実な心を持たれていた。ある女性が、自分の子供を呼ぶために「おいで、ほらご覧、あなたにいいものをあげるよ」と言っているのを聞かれ、急いでそばに行き、言われた。「何をあげるのですか」女性は「ナツメヤシの実をいくつかあげるつもりです」と答え、預言者は彼女に「もし、子供に何もあげるつもりがなかったのだったら、嘘をついたことになるところでした」と言われた。

預言者ムハンマドは、嘘を不和の印とみなされていた。そのため、できる限りそれを避けようとされていたのである。嘘は、偽信者の三つの印のうちの一つである。残り二つは、約束を守らないことと、信託を裏切ることである[6]。それらのことは、預言者ムハンマドからは遠い存在であった。

預言者ムハンマドの誠実さとその考えは、ただ人間にのみ向けられたのではなかった。全ての存在が、その対象であった。

ある教友が、馬をそばに寄せるために、あたかもその手に馬の食べ物を持っているかのように振る舞っており、この振る舞いは預言者の心を苦しめた。預言者はその教友を呼ばれ、叱られた。動物たちに対しても誠実でいなければならないことを教えられたのである。[7]

またある時、戦いから戻られる途中のこと。教友たちのいく人かが、鳥の巣からを取り出して可愛がっていた。そこに母鳥が戻ってきて、巣に我が子の姿がないのを見て激しく暴れ始めた。行ったり来たり、右に左にと飛び回っていた。預言者ムハンマドはその様子を知ると、すぐに、雛を巣に戻すことを命じ、鳥を苦しませないようにと言われた。そういう振る舞いは、この世の代表であるべき人々にはふさわしくないと教えられたのである。[8]

預言者から溢れ出る光によって輝きを帯び、光の輪となった教友たちもまた、そのようであった。彼らの一人に、アブー・ウバイダ・ビン・アルジャッラーフがいる。彼はウマルの時代に、ダマスカスで知事をしていた。ヘラクレイオスが、その軍隊と共に来て、ダマスカスを再び侵略しようとしている時、アブー・ウバイダの元にはほんのわずかしか人がいなかった。そのため、町を守ることは不可能であったため、すぐにダマスカスの住民を集められた。そして彼は言った。「我々はあなた方から税を集めた。その税に対して、我々にはあなた方を守る義務がある。しかし今、我々にはその力がない。だからあなた方を守ることはできない。それで、集めた税をあなた方にお返しする。これらを我々が持っていることは許されない」

こうして、集められた税はそれぞれに返された。この様子を見て驚いた神父や牧師たちは教会に集まり、イスラーム教徒たちが自分たちのそばにいてくれるようにと神に祈った。イスラーム教徒たちを見送る時も「願わくは、戻ってきて我々をヘラクレイオスの弾圧から守ってください」と言ったのである。[9]

アブー・ウバイダは、信頼できることを示し、誠実さをもって生き、キリスト教徒たちにも認められた存在であった。今日、西洋が我々の言うことを相手にせず、また我々がヨーロッパに送った人たちのメッセージにも耳を貸していないとすれば、それは全て、我々における不足のためである。そして、我々に不足するもののうち最も大きな問題が信用、信頼であることは疑いもない。我々がこれらをもう一度獲得することができた暁には、人間社会は信頼のおける人々を見つけたことになるだろう。国家間の上下という面でも、我々はかつての地位を取り戻すための最も重要な一歩を踏み出したことになるはずである。

オスマントルコ帝国の世界の支配においても、同様の誠実さを見ることができる。戦いに向かう際、通過する果樹園や庭からもいで食べた果物の代金を、その枝に結び付けておいたこの人々は、国々を剣で支配する以前に、この誠実さと潔さで、まず人々の心を制圧したのであった。そうでなければ、あの恐ろしい十字軍の物事の考え方に対抗する形でヨーロッパに入ることも、そこに居続けることも不可能であっただろう。

ダマスカスにあったアブー・ウバイダの規範は、4世紀にわたってバルカン人やヨーロッパ人の中で生き続けた。その結果、後にはるかウイーンまで行くこともできたのであった。そして行く先々で、信頼と誠実に重きが置かれたのである。共和制以降のトルコで、安全の確立のために流された血は、5世紀の間、しかも他民族との共生の確保のために流された血よりも多いのではないだろうか。いくつかの研究によると、600年続いたオスマントルコ帝国時代を通して、衝突や小競り合いで死んだ者の数は、この半世紀のうちに死んだ者の数よりも少ないそうである。だから、オスマントルコの支配が単に力によるものだということは適切ではない。同時に、当時の移動・伝達手段を考えるなら、これほど広い土地を一つの国家が支配することは、単にや軍の力のみでは不可能であることが明らかである。

彼らは、その心と精神でもって制圧を果たしたのであり、だからこそさまざまな民族に属する人々が、一つの国家の屋根の下に、しかも長い間に渡って大きな問題も起こさずまとまっていられたのである。今日の献身的な活動をする人々に求められているのも、同じ方法、手段であるはずである。

誠実さへの導き

預言者ムハンマドは、アッラーからもたらされたメッセージを誠実に守ったのと同様に、この誠実さを全ての存在に対して示された。そして、ウンマ(預言者の共同体)をも、同じ品性へと導かれたのである。預言者ムハンマドは彼らに、誰に対しても誠実に振る舞うことを勧められた。裏切りなどは考えられないことであり、陰口も禁止された。預言者ムハンマドはすぐにその者を叱られ、その心に陰口のちりをためることを決して許されなかった。

「誰それの奥さんの背はなんて高いのでしょう」と言ったアーイシャに「彼女の陰口を言って、傷つけた」[10]と言われたこと、教友たちが陰口を言った時にも同じようにお叱りになったこと[11]、これらは皆、預言者ムハンマドが誠実な人であり、信頼に満ちた雰囲気が他の者の心にも安心を与えるであろうためであった。

預言者ムハンマド御自身は、常に次のようなお祈りをされ、またウンマにも勧められていた。「アッラーよ、ひもじさからあなたにを求めます。それは悪い友のようです。裏切りからも、あなたに保護を求めます。それは、悪い腹心の友のようです」[12]

信托を守ることが重要であるのと同じくらいに、背信行為を行なわないことも重要である。そもそもこれらはお互いにお互いの欠かせない要素である。

約束を守らない、結果として裏切り行為を行なう者について、預言者が語られた恐ろしい言葉がある。「アッラーは、最後の審判の日、全ての人間を集められ、全ての不誠実な者たちについて旗を立てられ、誰それの息子誰それの不誠実さはこのようであった、と示されるであろう」[13]

預言者ムハンマドは、全ての悪に対して閉ざされ、封印された魂の持ち主であった。良い行いに対しては、ほんのささいなことであろうと心を開かれ、常に良い意識で持って振る舞われた。このお方はその人生を常に誠実さの中で過ごした。人々も信頼し、従った。背を向けた者たちは皆が誤った道に進み、その道で迷った。しかし預言者ムハンマドは常に守護天使のように人々のそばにおられ、誰であれ、どういう状況のもとであれ、その扉を開く者は「どうぞ」と言うこのお方の声を聞いたのであった。

預言者ムハンマド自身は、アッラーを信頼し、従っていた。アッラーを信頼し、従うことは、すなわち信託が預言者からアッラーへと昇華されるということである。信託は、アッラーから預言者たちにもたらされ、それはアッラーへの信頼、従順という形で預言者たちに現れるのである。

全ての預言者たちは、アッラーを信頼する者として遣わされた。これは彼らからは切り離せない、気高い特質の一つである。聖クルアーンはそれをはっきりした形で我々に示している。

「彼らにヌーフ(ノア)の物語を読誦しなさい。彼がその民にこう言った時を思え。『私の人々よ。私があなた方と一緒にとどまり、またアッラーの印を思い出させることが迷惑であっても、私はアッラーを信頼する。それであなた方は、自分で立てた神々と相談してあなた方のことを決定しなさい。それであなた方の決断に、半信半疑であってはならない。その時、私に対する態度を決め、猶予するな』」(ユーヌス章10/71)

聖ヌーフはアッラーを信頼し、従い、彼に対抗する集団に「あなた方と共にとどまり、アッラーの印を思い出させることがあなた方にとって迷惑なら、好きなようにしなさい。あなた方はあなた方であり、私は私である。あなた方は集団であり、私はたった一人である。しかし、アッラーは、あなた方に対して私を無力な者とはなされないであろう。あなた方は皆一緒になって、相談し、私に対してどうとでも好きなようにしなさい。それを実行する時は、皆で協力し、助け合いなさい。後になって問題が残ったり、あんなこともすればよかった、と後悔したりすることのないように、できる限りのことをしなさい。思いついたことは何でも実行しなさい。今私はあなた方の行動を待っているのだ。さあ来なさい!」と言っているのである。ヌーフは、これらを言う時、アッラーに対して途方もないほどの信頼と服従の精神の中にいる。彼はアッラーが彼を守られることを確信していたのだ。彼の箱舟にどれほどの人が乗ったのか、我々は知ることはできないが、明らかなことは、聖イブラーヒームを含めて多くの預言者たちがその血統から誕生したということである。

聖クルアーンでも、イブラーヒームをヌーフの民とし、次のように述べている。

「また彼の後継者の中にはイブラーヒームがいた」(整列者章37/83)

「彼は答えて言った。『私は立証をアッラーにお願いする。あなた方も、私が神々を配することに何の関わりもないことを証言してください。彼以外(の神々を仲間として)、皆で私に対し策謀しなさい。何も猶予はいらない。私の主であり、あなた方の主であられるアッラーを私は信頼する。全ての生き物の一つでも、アッラーが、その前髪をつかまれないことはない。本当に私の主は、正しい道の上におられる』」(フード章11/54~56)

イブラーヒームの、アッラーに対する服従のあり方は、次の節で明らかにされている。

「イブラーヒームや彼と共にいた者たちのことで、あなた方のために本当に良い模範がある。彼らが自分の人々に言った時を思い出せ。『本当に私たちは、あなた方とあなた方がアッラーを差し置いて崇拝するものとは、何の関わりもない。あなた方と絶縁する。私たちとあなた方の関係には、あなた方がアッラーだけを信じるようになるまで、永遠の敵意と憎悪があるばかりである』イブラーヒームは父親だけにはこう言った。『私はあなたのために、お赦しを祈りましょう。だが私はあなたのためになるどんな力もアッラーから頂けないでしょう』彼は祈った。『主よ、私はあなたにおすがり申し、あなたにだけ悔悟します。私たちの行き着くところは、あなたの御許ばかりです』」(諮問される女章60/4)

そう、イブラーヒームと、彼と共にいた者たちも、その敵に立ち向かっているのである。「私たちは」と言う「あなた方がアッラーを差し置いて崇拝するものとは何の関わりもない。私たちはそれを全て完全に否定する。我々の間の敵意は増長されるばかりである」。そもそもこの敵意は、聖アーダムの時代から続くものである。信仰と憎悪は、その最初の日から敵なのである。同じ空間を共有することは不可能である。だから、当然として、憎悪は信仰に対抗する。その目が光に慣れていないために、信仰と、預言者たちがもたらす光から苦しめられているように感じるのである。「あなた方が私たちのようにアッラーを信じ、従わない限り、この敵意は永遠である」

なぜならこの憎悪は過ちだろうからである。信仰を拒否する者は、存在に対して敵意を込めたまなざしを持つ。信者の心には温かみと人間性がある。彼は世界の全てを兄弟とみなし、皆と一つになり、対話できる道を探す。しかし、信仰を拒否する者は、皆と競い合うことを好む。もし皆がアッラーを信仰し、心から信じきった時には、平安と平和が訪れるであろう。これらを不信心者から、あるいはその憎悪から期待するのは、余りにものんき過ぎることである。民族が互いに首を締め合うこと以外に、この憎悪が人間に与えるものは何もないからである。

だから、信者と不信心者の間に、真の意味での会話は成り立たない。そのため、聖クルアーンでは、イブラーヒームがその父親に語った言葉をしているのである。彼の言葉はただの希望であり、それは彼の深い悲しみの中から出てきたものである。彼も、父親のためになるどんな力も、アッラーから頂けないであろうことを明らかにしている。そしてそれに続けて「あなたにだけおすがりします」と言い、アッラーに対する信頼と服従、従順を示しているのである。

全ての預言者の人生が研究されれば、彼らのアッラーに対する信頼と服従が非常に重いものであったことが明らかになるであろう。彼らの服従は、普通の人間の信頼や服従とは全く違うものである。特に預言者ムハンマドのそれは、他の全ての預言者のものよりさらに深いものであった。

アッラーは、ある時預言者ムハンマドに「ハスビヤッラー」(私にはアッラーがいれば十分である)という言葉を教えられた。預言者ムハンマドは、生涯を通して、アッラーに対して服従、従順、信頼の精神をもって生きたのである。聖アリーのような勇者でさえ、次のように言っていることを考えるべきであろう。「私たちは、戦いで苦しい立場に立ち、心の中に恐怖が生まれた時には、すぐに預言者ムハンマドの後ろに避難し、心の平安と信頼を得たものである」[14]

移住(マディーナへの聖遷)の際のアッラーへの信頼

マッカからマディーナへの聖遷の時、家の四方は預言者ムハンマドを殺そうと必死になっている者たちに取り囲まれていた。預言者ムハンマドは「またわれは、彼らの上に障壁を置き、また背面にも障壁を置き、その上彼らに覆いをした」(ヤー・スィーン章36/9)という節を唱え、彼らに向かって一掴みの砂を投げかけられた[15]。そして、全く恐怖やパニックにとらわれることもなく、その場から歩いて離れられたのである。その後、サウルの洞窟に到った。サウルは、若者でさえ登るのが困難な山頂にある洞窟である。預言者ムハンマドは53歳にして、そこに登られたのであった。彼の人生はこのような困難ばかりの中に過ぎたのである。この幸運な洞窟が、それ自身の言葉で呼びかけているのに答えて、預言者ムハンマドはそこで何日か泊まられ、この洞窟に名誉を与えられた。

マッカの者たちは、洞窟の入り口で見張っていた。彼らとの間に、1メートルあるかないかという状態であった。アブー・バクルは緊張のうちにあった。彼はその時、預言者が彼に託されているかのように考えていたのであった。「もしこの託された方に何かあったら...」と恐れていたのである。しかし、預言者ムハンマドの口元にはいつものように微笑が見られた。このお方はアッラーへの信頼の中にいたのである。アブー・バクルを慰めて言われた。「恐れるな。アッラーは我々と共におられる」[16]

戦いの際におけるアッラーへの信頼

フナインの戦いで、最初イスラーム軍は苦戦を見せていた。教友たちは逃げ惑い、敗戦になることを皆が確信しているような状態であった。その時、予想されていなかった出来事が起こったのである。預言者ムハンマドは、聖アッバースが止めようとしていた馬に乗られ、敵の隊列に向かって行かれた。彼は大声でこう叫ばれた。「私はアッラーの使徒である、このことに嘘はない!私はアブドゥルムッタリブの孫である、このことにも嘘はない」[17]

このお方のこの振る舞いは、見る間にイスラーム軍を生き返らせ、まとまりを持たせたのであった。そして、不運は幸運へと変わったのである。

想像を絶するほどのアッラーへの服従

ある時、預言者ムハンマドは木陰で休んでおられた。そこへ、ガウラスという名の不信心者が来て、預言者が寝ておられるのをいいことに、木にかけられていた剣を取り、喉元に突きつけた。そしてあざけるように「今、あなたを私から誰が救ってくれようか」と言った。これに対して、預言者ムハンマドは全く慌てる様子も見せられなかった。なぜならそのお方のアッラーに対する信頼は完全なものであったからだ。自信に溢れた声で「アッラーが救われるだろう」と怒鳴り返された。この声に、不信心者は覇気をなくし、剣を取り落とした。その剣を預言者はお取りになり、言われた。「それで、今度はあなたを誰が救うのだろうか?」男は激しく震え始めた。その時には、預言者の声を聞きつけた者たちがそこに集まって来ていた。そしてその様子に皆驚いていた。後に、そこであった一部始終を知って、彼らの預言者ムハンマドに対する信頼はさらに増したのであった。ガウラスも、そこで見た信頼に、預言者ムハンマドに対して信頼すると述べ、その場を離れた。[18]

欧米の著名な思想家バーナード・ショー(Bernard Shaw)は次のように述べている。「ムハンマドは、いろいろな点で、人の想像を超える優秀さを持つ人である。この秘密に満ちた人を完全に理解することは不可能だ。特に、彼の神に対する信頼は、理解することのできない大変なものである」

彼の言うことは正しい。預言者ムハンマドのアッラーに対する信頼と服従は、我々の物差しでは計ることのできないほどのものである。預言者ムハンマドの、アッラーの元における地位や価値も、御自身のアッラーに対する信頼と同様である。預言者ムハンマドが望めば、夜は昼になり、暴虐は光になり、物乞いにも皇帝ほどの富が与えられる。この関係について、ハサン・バスリによって語られているある出来事をここで取り上げてみたい。預言者ムハンマドとの結びつきの重要性という点で、とても意味のある話だと思われる。バスラのある若者が、年老いた父親と共に、巡礼に行く決心をした。しかしマッカに向かう途中、父親が死んでしまう。その上、死体は変形し、実に奇怪な形相を示している。この状況は若者を非常に苦しめ、驚かせ、彼はどうしたらいいか途方にくれた。誰をテントに呼んで、この死体を見せ、助けを求めることができるだろうか? 悩み続けている時、彼の上に何かが起こり、彼は睡眠と覚醒の間の状態に陥っていた。その時、テントの入り口が開き、輝かしい顔の人物が一人、中に入ってきた。この人物は、父親の枕元に座り、その手で父親の全身をなでた。すると見る間に、手が触れたところから死体は元の状態に戻り、きちんとした人間の形を取り戻したのであった。若者は驚きの余り何がなんだかわからなくなりそうであった。その人物がテントから出る時になって若者はそばへ駆け寄り「アッラーへの愛にかけて教えてください。あなたは誰なのですか」と尋ねた。「私のことがわからなかったのですか? 私はムハンマドですよ」という返事を得て、若者は喜びの余り宙を舞うところであった。「預言者よ、今の出来事は何だったのですか。なぜ父の形が変わってしまったのですか」と尋ねると「彼はいつも酒を飲んでいた。そのためです」と答えられた。「あなたがここに来られた理由は?」と若者はさらに尋ねた。「あなたの父親は、私の名を思い出すといつも、私に祈っていたからです」というのがその答えであった。

この男の、ほんのこの程度の預言者との結びつきでさえ、そのまま無視されることはなかったのである。預言者ムハンマドは、最も必要とされた時に、彼のために仲裁をされるのである。死の瞬間に、その魂の世界はアッラーの許しにより、準備が完了しているのだ。

預言者ムハンマドは、人間たちの中で最も信頼され、従われるお方であった。そのウンマ(共同体)も、それにふさわしい素質を持つべきである。

「誠にアッラーは、あなた方が信託されたものを、元の所有者に返還することを命じられる。またあなた方が人の間を裁く時は、公正に裁くことを命じられる。アッラーがあなた方に訓戒されることは、何と善美なことよ。誠にアッラーは、全てを聴き全てのことに通暁なされる」(婦人章4/58)

この節がくだされた理由を聖アリーは次のように説明している。預言者ムハンマドは、カアバの鍵を、当時まだムスリムではなかったウスマーン・ビン・タルハから受け取られ、御自分でカアバを開けられた。聖アッバースが来て、その鍵を求めた。しかし、将来立派なムスリムになる可能性のあるタルハは、信託にさらに適切であり得た。同時に、鍵が彼に預けられることは、彼の心をも開くことになると思われた。そして事実そうなったのである。この章がくだされたので、カアバの鍵は再びウスマーン・ビン・タルハに預けられ、後にこの人物は偉大なムスリムになったのである。[19]

ただし、この節は広く通用するものである。なぜなら、預言者ムハンマドは、信頼が失われることは、最後の日の印となる、とみなされ、次のようにおっしゃられている。「信頼が欠如するようになると、審判の日を待ちなさい」。教友が尋ねた「信頼はどのように失われるのでしょうか」。預言者ムハンマドは答えて言われた「適切でない者に、仕事が与えられた場合」[20]

信頼はとても重要である。仕事をふさわしい者に与えることも、一つの信頼であり、これは世界の秩序を保つために最も重要な要素の一つでもある。信頼が失われると、公正なバランスや秩序も失われることになる。これに関わることで、預言者ムハンマドのある言葉がある。「あなた方は皆羊飼いであり、皆自分の所有するものに対して責任を持つ。国家の長は、羊飼いの所有する者に対して責任を持つ。個人は、それぞれ自分の元にあるものの責任者である。女性は、夫の家を守り、管理しているものに対して責任を持つ。召使いは、主人の財産を守り、管理しているものに責任を持つ。あなた方一人一人が羊飼いであり、その管理しているものに責任を持っているのである」[21]

ここで言われているのは、次のようなことである。この世では皆がお互いに信託された者であり、全ての存在はアッラーへ託されたものである。聖クルアーンはまずジブラーイルへ、それから預言者ムハンマドへと託された。聖クルアーンの真実は、預言者ムハンマドの布教へと託された。そして、全てのウンマは、アッラーへ託されているのである。

生活、社会生活を成り立たせているさまざまな要素は、それぞれが一部ずつ重なり合った円のようである。そのうちの一つに現れた小さな不都合は、重なり合った他の円にも影響を及ぼしていく。このことに疑問をはさむ者はいないのではないだろうか。ささいな傷が、適切な処理をされないうちに治療不可能な壊疽に到ることは、疑う余地もない事実である。だから、それぞれの円が、自分に託された仕事を正しく成し遂げる必要があり、予想される不都合を防ぐべきなのである。

このハディースでは、この結びつきと全体性が示されている。門番から、国家の長に到まで国家を形成する全ての個人が、自分に託されたものについて責任を持っていれば、人間ははるか遠くから羨望していたこの信頼を、彼自身の社会でも見出すことができるだろう。

預言者ムハンマドはまた次のように述べておられる。「誠実ではない人物には、信心もない」[22]。管理しているものへの責任を果たさない者は、その信心も、完全ではない。つまり、誠実さと信心は、それぞれが原因と結果のような関係であり、託されたものへの責任を果たさない者は完全な信心の持ち主とは言えないのと同様、完全な信心の持ち主でない者に真の誠実さを見出すことは難しい。もし彼が完全な信心を持っていれば、彼は託されたものに対しても誠実であるはずである。誠実でなければ、その信心も完全ではない。

他のハディースでは、預言者は次のように述べておられる。「真の信者とは、人々が自分の財産や生命について彼を信頼している者のことである」[23]

預言者の誠実性について述べたところで一度触れたあるハディースを、ここでもう一度見てみたい。預言者ムハンマドは言われた。

「あなた方は私に六つのことを約束しなさい。私もあなた方に天国を保証しましょう」

1.「話す時は正しいことを話しなさい」。言動において正しくありなさい。あなた方はそれぞれが矢のようでありなさい。

2.「約束を守りなさい」。そもそもこれと対称にあるのが偽信者の印である。これも前に触れたテーマである。

3.「託されたものに誠実でありなさい」。あなた方を信頼して誰かが何かを託したなら、それを裏切ってはいけない。彼らの考えが偽りであったということにしてはならない。

4.「純潔でありなさい」。自分自身の名誉を守りなさい。他人の名誉も、自分同様に考え、それを守りなさい。(このテーマについては、後に詳しく見ていきたい)

5.「あなた方の目を禁じられているものに対して閉じておきなさい」。あなた方のものではないものを見てはならない。あなた方のためにならないものに目を止めてはならない。ハラーム(宗教上禁じられているもの)であるものを見ることは、精神を壊す。ある神聖なハディースでは次のように述べられている。「ハラームであるものを見ることは、シャイターン(悪魔)の毒矢の一つである。(あなた方の意志の弓から飛ばされ、あなた方の心に突き刺さる)誰であれ、私への尊敬によりハラームを見ることをやめれば、彼の心に信仰を与えよう。彼はその喜びで心を満たすであろう」[24]

6.「あなたの手が他のものに害を与えないようにしなさい。誰にも、いかなる形であれ悪いことをしてはならない」[25]。見方によれば、信頼される人であるための条件と言えるこの言葉に従う者は、信頼のうちに生きる。あの世についても、安心と保障を得たことになる。そもそもこれに従うと預言者ムハンマドに約束した者に、ムハンマドも天国を約束されているのである。

この世界の安全も、信頼される人が約束を守ることにかかっているのである。もし、全てのイスラーム世界が、信頼に答え、この世界の安全と信用を代表することができるようになれば、世界は新しい均衡を手に入れるであろう。現実には、この世界の状態は実に痛ましいものである。詩人アーキフは、この状態を次のように表現する。

恥の意識はなくなりあつかましさがどこででも見られる
何と醜い顔ばかりがその薄い覆いで覆われていることか
忠実さも、尊敬も全くなく信頼は無意味である
嘘や裏切りばかり。正義など知られてもいない
毛が逆立つ、神よ、何と恐ろしい革命が起こったのだろう
教えも、信仰も、教えのための戦いも、信仰の土地も、
何も残っていない

希望の芽たちよ

教えの真実をこの世に再びもたらし、それを広めるのはあなたたちである。あなたたちは若い芽であり、光の源である。それらは、闇の時代にこの世を光で満たし、天国の木のように、枝や葉や花となって広がっていった。その時、我々の祖先は、他の民族からも信頼される国家を作り上げたのである。インシャラー、我々が今いるこの暗い日々を乗り越え、あの輝かしい時代をあなたたちが甦らせるのである。地の上の者も、地の下にいる者も、これを待っている。魂という形で常にあなたたちと共におられ、あなたたちが気がつかなかったとしても、時には頭をなで、背中をさすられる預言者ムハンマドも、その希望に満ちたまなざしで、慈愛に満ちた微笑と共に、それを待たれているのである。

あなたたちが、信頼できる人として道をそれず、常に周囲に信頼を与えることができれば、それに成功できれば、その時全ての人の心の扉はあなたたちに向かって開かれ、当時の人々のようにあなたたちもその心に玉座をもたらすことができるだろう。忘れないでほしい。この結果に到達するために最も重要なことは、信頼に答えることである。

この世界の均衡が新たにされる時、その均衡の要素となること、世界の運命に関わるような重大な決定がされる時に意見を問われるような民族であることを望むならば、まず私たちは正義と、公正と、誠実さと、信頼の象徴であらなければならないのである。

 


[1] Abu Dawud, Manasik 56; Ibn Maja, Manasik 84; Ibn Kathir Bidaye 5/173
[2] Bukhari, Tawhid 22; Muslim, Iman 288
[3] Muslim, Jihad 58; Ibn Hanbal, Musnad 1/31, 33
[4] Bukhari, I'tiqaf 8; Ibn Maja, Siyam 65
[5] Ibn Hisham, Sirah 1/209
[6] Ibn Hanbal, Musnad, 3/447; Abu Dawud, Adab 80
[7] Bukhari, Iman 24; Muslim, Iman 107
[8] Abu Dawud, Jihad 112, Adab164; Ibn Hanbal, Musnad 1/404
[9] Abu Dawud, Adab 164; Ibn Hanbal, Musnad 1/404
[10] Ibn Kathir, Tafsir 7/359; al-Tarqhib ve l-Tarhib 4/285
[11] Muslim, Hudud 22, 23
[12] Abu Dawud, Witr 32; Nasa'i, Isti'adha 19,20; Ibn Maja, At'imah 53
[13] Muslim, Jihad 9
[14] Ibn Hanbal, Musnad, 1/86
[15] Ibn Hisham, Sirah 2/127
[16] Bukhari, Tafsir (9) 9; Ibn Hanbal, Musnad 1/4
[17] Bukhari, Jihad 52; Muslim, Jihad 78
[18] Bukhari, Maghazi 31, Bukhari, Jihad 84; Muslim, Fada'il al-Sahabah 13; Hakim, Mustadrak 3/29
[19] Ibn Hajar, Isabah 2/460; Ibn Hisham, Sirah 4/55
[20] Bukhari, 'Ilm 2; Ibn Hanbal, Musnad 2/361
[21] Bukhari, Jumu'ah 11; Vasaya 9; Muslim, 'Imarah 20; Abu Dawud, 'Imarah 1
[22] Ibn Hanbal, Musnad 3/135
[23] Tirmidhi, Iman 12; Ibn Maja, Fitan 2
[24] Hindi, Kanz al-'Ummal 5/328
[25] Ibn Hanbal, Musnad 5/323

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