運命と意志に関わる様々な問題

ここでは、これまで行なってきた説明を異なる側面から再度行なうと共に、運命に関してしばしば出される質問に答えていきたいと思う。

1.アッラーはなぜ私を、私に尋ねず、私の意志を問うこともないまま、運命の囚人とされたのか

運命は強制するものでも、圧迫するものでもなく、また決して醜いものではない。

これまでに行なってきた説明からも理解されたように、意志が勘定に入れられることなく行なわれる定めはない。さらに、アッラーは預言者を遣わされ、啓典を下されるという形で、常に私たちに注意をなされてきたのである。

人が、何らかの事柄にその意志で持って取り掛からない限り、一切の醜さも罪も出現しない。人がその我執の影響で意志を悪い方向に用い、悪い事象へ招待状を送付することによって、スイッチを押し、落ち込んでいく穴が開く要因となるのだ。例えば、輝かしい光のかけら、太陽は、けがれもしみもなく、生命のために絶対的に必要である熱と光の源でもあり、同時に、花々に反映されている色彩や美の源でもある。しかし人が太陽の下で何時間も座っていたり、必要な予防処置を行なわなかったりすれば、病気になることもある。さらには死ぬことすらある。

こういった状況において、悪いのは太陽であろうか? 自らの誤りが要因となった病気や死に対して「太陽がなかったらいいのに。なんでそんなものが創造されたのだろう」と言えるだろうか? 「太陽に当たっていた、病気になった、食べ物が太陽の熱の下に放置されて腐ってしまった」というような、完全に私たちの意志の誤りから起こっている小さな災難を理由に、太陽が創造されたことやその存在を災いと見なせるだろうか?

そう、運命のせいだとされる罪や害や醜悪さは、本来しもべが意志を悪い形で用いることの結果なのである。意志を考慮にいれず、私たちが抑圧やひどい出来事などを運命のせいにすれば、災いを二倍に増加させ、運命に対し不遜な態度をとったことになる。

例えば、人間には、快感を得ること、子孫を増やすことといった意義ある結果をもたらす一つの要因として性欲が与えられている。人が意志を悪い方向で使い、この性欲を、買春のような誤ったハラーム(宗教上禁止)の道において満たそうとするなら、その場合罪は運命にあるのだろうか、それとも人にあるのだろうか。人は、価値あるものへの要因になるようにと与えられ、なおかつ、正しい形で使われるようにあらゆる可能性が用意されている一つの要因を、悪いことへの道具として用い、悪事を行ない、罪を犯し、その結果自らをひどい目にあわせるのだ。殺人のような類似する問題もまた、これと同様に見なすことができる。ただし、人が意志を悪い方向で用いることがないまま、陥ってしまう災難も存在する。これらにおける英知、意義、よさについては、機会があるごとに説明してきたし、これからも説明しよう。

運命は、結果と共にその要因をも勘定に入れている。人はその天分のあり方故に、そして運命の意味を完全に理解できないことから、ただ外見と目に見える結果と要因のみを見て、誤った判断に至り、自らを苦しめる。例えば、あなたは、老人が子供の耳を引っ張っているのを見ると、その出来事がよくないことだとして、子供が虐待されていると判断されるだろう。しかし実際は、耳を引っ張っている人は子供の親かもしれないし、あなたも行なうであろう必要な処置を行なっているのかもしれない。将来において悔やまないよう、災難が起こることを最初の段階で防いでおくため、つまりその子供の精神世界が破壊されないように、永遠の生が失われないようにと、子供の不道徳な行為に対しこのようなしつけを行なっているのだ。しかしあなたは外見のみを見て、見かけだけで判断し、その父親を残虐な人としたのだ。このようにして、その人に対してではなくあなた自身にひどいことをしたことになるのだ。しかし実際には、運命は全ての要因を視野に入れる。そして真の、目に見えない要因をも知る。だから、公正で完全な判断を下すのである。

あなたが一人の狩人を見ているとする。狩人はライオンを撃ち殺す。あなたはライオンに同情する。しかしあなたは、そのライオンが昔ある鹿の子供たちから母を奪ったこと、運命もそのライオンにその罰を与えたということを知らない。一方で、いつかその狩人が足の骨を折り、彼もまたライオンを殺したことの罰を受けるかもしれない。

一人の人が他の人を刃物で刺し、けがをさせる。しかし罰は受けず、その出来事は忘れられる。しかしある日この人物は姦通という無実の罪で疑いをかけられ、裁判を受ける。この告発においては彼は無実である。しかし裁判官は、外見上の要因を見て、彼に有罪判決を下す。これに対しあなたは「裁判官による抑圧だ」と言うだろう。しかしその人物に関して運命は、真の要因を鑑みて、公正な裁きを下したのであり、その人物も既に忘れ去っていた傷害事件の応報を受けたことになるのだ。そう、運命における素晴らしさと私たちの判断の醜さを見てほしい。運命のあらゆる裁きはそれ自体が素晴らしい、あるいはその結果の故に素晴らしいのである。

ここで、預言者ムーサーに関するものとして伝承されているある出来事を説明したい。

預言者ムーサーは「神よ、私に公正さをお示しください」と祈る。アッラーも彼に対し「某所の泉のそばで待ちなさい。そこで起こる出来事を見なさい」と答えられる。そのうち泉のそばに一頭の騎兵が来て、馬に水を飲ませて去ろうとする際、一袋の金を落とす。そこに一人の子供が来て、金の入った袋を拾って遠ざかる。そこへ一人の盲人がやってくる。その時、金の入った袋を落としたことに気が付いた騎兵が戻ってきて、盲人に金を返すよう言った。盲人がいくら「私は拾っていない」と言っても騎兵はそれを聞き入れず、ついに盲人を殺してしまった。

正義が行なわれてはいないように思えるこの出来事における公正さを、預言者ムーサーはアッラーに尋ねた。そして次のような答えを得た。

「騎兵は、以前、あの子供の父親から一袋の金を盗んだのだ。このようにして一袋の金を持ち主に返したことになったのだ。盲人は以前、騎兵の父を殺したのだ。彼を騎兵に殺させることによって、同等としたのである」

そう、真の要因を知らず、外からだけ見ると、全く公正さが欠如しているように見える出来事の連鎖は、真の要因によって完全に公正なものとなるのである。そう、運命の判断もまたこのとおりなのだ。そこにはどんな小さな不公正さも醜さもなく、まさに公正であり、素晴らしいものなのである。

2.私の運命はなぜ、豊かで快適に過ごすことではなく、災いや苦痛の中で過ごすという形で現れるのか

人がその外見を見て、いやなものと見なした事象において、アッラーはその人のために多くの意義あることを望まれておられる。これに対し、人が良いものと見なす多くの事象において、人にとって良くないことがある。(雌牛章2/216)例えば、特に寒い時、ウドゥー(礼拝の前にする小浄)をすることは人にとって困難と感じられる。しかしウドゥーそれ自体も、その結果も、非常に素晴らしいものなのだ。例えば、アッラーが、愛される一人のしもべを破産させられる。しかしそのしもべは知らない。その財産が彼を正しい道から逸脱させる要因となっていたはずだったということを。

しもべがお祈りする。しかしその祈りに対して望むものが与えられず、失望する。でも、実際は、彼が望むことは彼自身にとって良くないことなのだ。あるいは、後で、あの世で、もっと多くのものがもっと良い形で与えられるのである。

だから、アッラーが私たちに関してなされた裁定には、私たちが知ることができない多くの意義あることや英知が存在するのだ。アッラーは絶対に、しもべの利益を原則とし、彼に対して英知をもって振舞わなければいけない、と言う義務を負われているわけではないのだ。しかしアッラーは、ハールク(創造主)であられ、アーリム(全知なる御方)であられると同時に、ハーキム(正しく裁定される御方)でもあられるのだ。アッラーは決して、不合理なことはなされない。ただ私たちが、その御業における英知を知ることができないのである。だから私たちがなすべきことは、運命を受け入れ、アッラーに従い、アッラーに向かい「あなたからの良いものも素晴らしい、悪いものも素晴らしい」との理解と信仰と共に、私たちに関わるあらゆる定めに従い、異議を唱えたりしないことである。

3.運命と意志は、なぜイスラームの六つの信仰の基本の一つとされているのか

人は、多くの場合、慣れや習慣によって、アッラーが彼に恵まれたものに対して「私がやった、私ができた、私が獲得した、私が見出した、私が学んだ、私が考えて見出した...」というような言葉によって、全てが自分の力や能力、意志や才能によるものとしてしまう。こういった状況において運命は彼の前に立ちはだかり、「本当にアッラーは、あなたがたを創り、またあなたがたが、造るものをも(創られる)」(整列者章37/96)というクルアーンのこの章句を解釈すれば、上述のような人を相手に、次のような語りが得られる。

「だから、自分の力の限界を知りなさい。あなたの手にある小さな小さなボタンによって、これらのあらゆる仕事を成し遂げることが可能だろうか? 可能ではない」。こうして彼をうぬぼれから救い、その生活においてバランスと秤を保つ。

人の精神には、美や優秀性や獲得物を得て、それらによって賞賛を受け、それらを誇り、さらにはそれが進んで自らを見失うといった感覚がある。こういった感覚に対し、全ての美やよいものの真の主は我欲ではなく、ただアッラーであるということ、あらゆる悪や罪が我欲からもたらされるのだということを述べるため、「あなたに訪れるどんな幸福も、アッラーからであり、あなたに起こるどんな災厄も、あなた自身からである。われはあなたを、人々への使徒として遣わした。本当にアッラーは証人として万全であられる」(婦人章4/79)と警告が行われている。あなたの記憶を過去へとさかのぼって、あなたの過去を思い起こしてほしい。罪の中にいた時、あなたの運命があなたをこの上なく素晴らしい友人たちの中に置き、その話によってあなたの頭や心がどのように癒されたか、結果としてあなたの心や言葉に慈しみの芽が育ち、あなたの心に崇拝行為や徳のメダルをかけている様子を見てほしい。それから考えてほしい、よく見てほしい「私がやったのだ」と言えるだろうか?

この問題にはもう一つの側面がある。人は時に「私をも、私が行なうことごとをも創造されるのはアッラーであり、アッラーが望まれることなくして私は望むこともできない。私は運命がプログラムされているロボットのようなものだ。それならば、私が行なったことごとにおいて私には何の持分もないはずなのだから、責任を問われることも、罪を負うこともないのではないか」と言い、落とし穴にはまってしまうことがある。このような危険に対しては、即座に意志がそれに向き直り、天秤のもう一方の受け皿に載って「いいや違う、あなたは責任を負う。そう、信仰や、しもべとして仕えることにおいて責任を負っているのと同様に、あなたが行なうあらゆる悪事、あらゆる罪においてあなたは責任を負う。なぜなら私もまた、存在しているからだ」と言い、バランスを保つのだ。だから、運命は信仰や憎悪や責任、悔悟や罪を直接それ自身のせいとできる柱ではないし、我欲の醜さを覆い隠す衣装でもない。意志もまた、アッラーがその人のために創造された優秀性や美点を自らに帰し、ファラオのように「私が!」と言い放つことや、あらゆる弱さ、無力さに関わらず、見返りもなく与えられる恵みを自らによるものとすることへの理由や根拠にはならないのだ。

私たちは、意志が、あらゆる美点や長所に手を伸ばし、預かりもののシャツのように身に着けている美点によってうぬぼれ、鼻にかけるという危険からただ運命によって救われる。これとは逆に、我欲が責任を取ることから逃れようとする危険からも、ただ意志によって救われるのである。意志と定めがテーマとされる場面での「スィラータル ムスタキーム」すなわち「正しい道」とは、まさにこれなのだ。

人は、長所、美点に対しては非常に短く、罪や破壊に対しては非常に長い手を持っている。この二つの手のうちの一つに悔悟や懺悔を与え、我欲の災いや罪への傾斜を止め、攻撃を食い止め、地獄へと進む道を閉鎖しなければならない。もう片方の手には祈りや、アッラーへの接近、信頼を与え、良い方向に立ち進まなければならない。よいものに対する力や強さ、思いを増し、天国へ続く道において力を得なければいけない。

4.人の運命は、手相や人相から読み取れるのか

魂に関わる問題に深く従事している人たちは、魂が人の裏地、あるいはよく類似の肉体を持つということに並んで、それが人生において体験することまでも記し、明証や定めがそこに存在していることを明らかにしている。魂の一定のあり方における特質、機能を知った場合、人に起こるであろうことについても一定の割合で知ることが述べられているのである。アッラーは望まれればそれを明らかにされるし、お知らせになるのである。

また、物質的構造が示す意義について関わりを持っている人たちは、手にある線が、運命が物体に線という形で反映されることの現れであるとし、その人の身に起こるであろうことを一部ではあれ言い当てることができる。誤解しないでほしいのは、これは、幽玄界の知られざる物事を知るということではないという点である。ただ、アッラーが物質に置かれたしるしやサインを助けとして、その人の生涯における一部の面を知ることができるという機能なのである。幽玄界における知られざる物事は、真の意味においてただアッラーのみがお知りになる。そして知られざる物事というのは単にこの種の知らせから成り立っているものではないのだ。

アッラーが私たちの体に置かれたしるしやサインを見て、運命を読み取ろうとすることは、預言者ムハンマドの時代にも存在した問題である。当時はこれを行なう人たちは「カーイフ」と呼ばれた。預言者ムハンマドは、解放奴隷のザイド・ビン・ハリサの息子ウサーマに関する噂話に対して、一人のカーイフを連れてきた。父と息子は、上を覆われた形で横になっていた。ただ彼らの足だけが見えていた。カーイフは、並んで横たわる父子の足を見て、お互いにつながりがあることを語った。預言者ムハンマドも、こういった形で、ご存知であった真実を、さらにカーイフの言葉を理解する人たちのために明らかにされたのである。そして妻のアーイシャに「アーイシャよ、ウサーマはザイドの息子である」と言われ、微笑まれた。アッラーが知らされることにより、多くのことをご存知であった預言者ムハンマドが、ウサーマの件についてご存知でなかったとは考えられない。しかし、一人のカーイフを連れてくることによって、民衆に信じ込まれ、社会にも定着していたこの問題を、民衆の見方にふさわしい一つの根拠として利用することを望まれたのである。カーイフが語ったことと、ご自身がご存知であったことは一致していた。なぜならクルアーンの明確な布告によって、そのお方が何を語られ、何をなされたとしても、そのうちのそれ一つでさえ、ご自身の望まれるままに行われたものではない。「また(自分の)望むことを言っているのでもない」(星章53/3)

ここで触れた出来事は、その事項についてよく知っている人に任せるということの推奨でもありえる。

5.極めて単純であり、小さく、無力な意志に対し、永遠の天国、もしくは地獄が与えられることはどのように解明されるのか

先にも触れたように、本来私たちは、天国のような未来に関するアッラーのお恵みを得ることではなく、それ以上に、私たちに降り注がれている恵みに対する感謝をいかになすべきか、ということを考えるべきである。対価なく、先に与えられた恵みに対し、しもべとしてのあり方を通して感謝を成し遂げることは決して可能ではない。この世界において私たちは、一日を生きるために一日働く。半年生きるためには半年働く。そして「半年働いて一年生きられたらいいのに」と言い、二日分生きるために一日を費やすことに喜び、それを受け入れる。このような事実があるのであるから、この世における恵みとは決して比較できないほど素晴らしい天国を獲得するために、大半が睡眠や子供時代、この世的な仕事という形で過ぎてしまう短いこの世での生がどうして十分でありえようか。さらに、この獲得において人が行なったこととは、ただスイッチを押したり、指を伸ばしたりというような重要性のない動作であるとするなら。あるいは、こんなにも単純な傾斜や意志によって、人がどうして永遠の地獄にふさわしい存在となってしまうのか? ここではこの問題に、いくつかの面から光をあてていきたい。

意図の面から

永遠の天国、無限の恵み、そしてアッラーの御顔(御喜び)...。これらは全て、このはかなく短い命の結果ではありえない。また私たちの物質的な面は、永遠を取り込むことは決してできない。しかし「永遠の信仰への意図」こそが、私たちを永遠の持ち主にしうるのだ。アッラーに感謝あれ。私たちはアッラーを信じている。この信仰において、不動かつ忠実であることを決意している。意志のスイッチをこの方向で使用したし、またこの意志によってこの永遠の信仰を、意図の面から所有するであろう。アッラーが私たちの心に一つのランプのように灯されたこの導きへの道も、アッラーによって遣わされたのである。もし七十年生きるのであれば、七十年を信仰と共に過ごす志を持っている。アッラーがもし、七十年ではなく百七十年の寿命を与えられたとしたら、さらには千七十年の寿命を与えられたとしても、やはり私たちは信仰を離れず、この信仰において忠実で、不動であったことだろう。生きている限り、さらには永遠にこの世にとどまったとしても、やはり信仰から離れず、永遠にアッラーを信じただろう。そう、天国や地獄に行く上で根拠となるのはこの意図である。そもそもアッラーの使徒も「行為はその意図による」と言われておられるのではなかったか? 皆、その意図の報奨を得るのだ。罰と報奨は行為の種類による。永遠の信仰という意図に対しては、永遠の天国である。

反対に、永遠の憎悪への意図に対して、永遠の地獄なのだ。アッラーは、私たちの姿かたちや、このはかない世で物質的な肉体と共にどれほど過ごしたか、ということではなく、私たちが抱いていた意図、所持していた望み、心の中の信仰、この信仰を続ける意図、思いをご覧になるのである。

そう、意図は、この短い生における信仰への忠実さや不動であるという思いによって、それが実践されなかったとしても実践されたほどに、永遠へと続く時を明るく照らす光なのだ。これとは逆に、全てを闇と見、暗い意図を持つ不信心者(不信仰者)の永遠の生は、地獄のように闇なのである。なぜなら不信心者は、永遠の信仰の光を灯さないこと、もっと正確に言うなら意志のスイッチを、アッラーが心の宮殿の信仰のシャンデリアを灯されることの要因としないことを強く望み、主張しているからである。そして、何百万年と生きたとしてもこの主張を続け、一度でもそのスイッチを輝かしい道において使うことを望まないであろうからである。このようにして、その心と世界、永遠の生を暗くするその悪い意図の犠牲となるだろう。

あなたの意志が永遠へと続きますように...。永遠に続き、そして永遠もまたあなたを受け止めますように。清らかな意図と共に過ぎる全ての瞬間が、報奨の神秘によって何千にも達しますように。

罪の裁定は、その罪の重さやその実行における要因、意図、結果によってなされる。それが
行なわれる期間ではない

この世において、五分で行なわれた殺人事件の刑罰として、時には二十五年、つまり千三百万分の懲役、時には終身刑、さらには死刑が与えられる。そして、決してこの殺人がどれほどの時間で行われたかということは考慮されない。不信仰、教えへの憎悪や否定の罪は、一人の人を殺害することより、遙かに大きくて、重い。万物の創造主の存在には、微粒子や細胞、天使、雨粒、原子や分子の数だけ、つまり無数の証人が存在する。そして教えへの憎悪は、これほどの証人の証言を全てまとめて無と見なすことを意味するものであり、同時に全宇宙を闇だと宣言し、これほどの証人たちをあたかも嘘つきだと中傷することである。さらに憎悪は、偉大な芸術者を見下し、そのお方のこの全宇宙における芸術的な作品を蔑視し、無数の証拠を否定することから、全宇宙の微粒子の数ほどの重い罪と見なされる。さらには、その生涯で嘘がありえない存在であった何千もの預言者たち、何百万もの聖人たち、そして最も重要な特徴がその誠実さである無数の信者たちを否定し、偽りだとすることである。このような罪への懲罰は、もちろんそれに類似するものであろうし[1]、だからこそ永遠の地獄でなければならないのだ。

自由意志は極めて小さいが、その結果は非常に大きいので、アッラーもそれに当てはまる罰を、
結果の重大さのために、大きく与えられる

一つのスイッチを押すことで、瞬間的に何百ものランプを消し、大きな国を闇に陥れることができる。あるいは、たった一つの振る舞いによって、あなたが、―第一次世界大戦においてそうであったように―何百万人もの人の死、何百万もの家族の崩壊、都市の破壊、何百年もの努力が水の泡となること、そして世界規模の重大な変化の要因となることもある。同じように、一本のマッチで広大な森を焼き払ったり、一つのレンガを引き抜くことで大きな宮殿を崩壊させたりすることもありえる。教えへの憎悪とは破壊であり、破壊は非常に容易で、かつその結果故に非常に重大でひどいものである。不信心者がその意志を教えへの憎悪という方向で使用することにより、結果が非常に甚大である破壊の要因となり、だからこそ永遠の地獄がふさわしい存在となる。これに対して信者は、意志のスイッチを正しい方向に押したことによって、この世とあの世双方を明るいものとするのだ。

限りのない恵みの持ち主に背を向ける人は、その見返りを受けるにふさわしい

アッラーの限りない偉大さと力を示し、無限の重要性と価値を持つその限りない恵みの持ち主に対して背を向ける人...。そして、良心といったような、アッラーの存在を無言のうちに証言する一つの書を丸めて閉じてしまい、知恵や意識、そして永遠を乞い求める感情を殺してしまう人...。さらに、宇宙という書をクルアーンによって明らかにされ、幸福への道を示された預言者に対し目をつぶり、心の扉に鍵をかけてしまう人...。こういった人は、万物を包括する規模のこの重要性に対し、非力な存在である意志を道具とし、創造や実施において何の重きも持たないいくつかの空想や仮定的事象の、ほんの毛ほどの重さを選択に用い、我欲や悪魔の招きに応じてしまうことにより、当然、万物に相当する重さの見返りを受けるのにふさわしい存在となってしまうのである。

信託への背信行為の罰は、信託とその持ち主の価値に見合ったものとして与えられる、

一枚の窓ガラスを割った子供に与えられる罰と、皇帝のクリスタルの王冠を悪用して被害を与えた副官に与えられる罰は同じではない。また、一人の兵士と、一人の司令官に、それぞれの階級にふさわしい給与が支払われたとして、この二人がその給与を市場で浪費してしまったとしたら、当然司令官は軍事法廷で裁かれ、この兵士に与えられたものよりもずっと重い罰を与えられるだろう。さらに、生涯を山で、羊たちの後を追って過ごした羊飼いと、大きな発明をすることによって生涯をすごした学者に、それぞれの立場や任務に応じて報酬が支払われたとして、この学者がその給与を、羊飼いのように羊の世話や飼料のために費やしてしまったとしたら、おそらく羊飼いよりもまた異なる形で罰を受けることになるだろう。

この世での生において動物たちに与えられている寿命という資本、そしてその他の資本や恵みは、それぞれの大きさや機能において定められ、確定されている。動物たちも、この資本を決して悪用することなく利用している。そう、一部は荷を運ぶことにおいて、一部は肉や乳を与えることによって、一部はまた別の任務においてそれを用いる。しかし人間は、動物の一種でもなければ、与えられる資本も動物のそれのようではない。人間の一つの手は、蜘蛛の千の手よりも、人の一つの指はすずめの千の翼よりも価値がある。人が自らに与えられた何十もの価値を持つ資本、良心、知恵、意識、理解、思考、判断力、何千もの感覚、感情、能力といった恵みを正しく用いなかった場合、当然その罰もそれにつりあうものとならなければならない。さらに、アッラーへの知識、敬意、愛情によって満たされ、それ以外のものに対して閉じられていなければならない、特別な顕示の場である心が、我欲に押しつぶされているのなら、その場合その心の持ち主は当然、燃料が人間と石である地獄で、燃料となるべき段階に落ちてしまうのだ。だから、意志を正しく用い、心をその真の持ち主だけのものとすることによって、アッラーの御許に正しい心で向かわなければならない。

6.魂が創造される際、あるいはまだ母の胎内にいるうちに、人が幸福か否か、天国に行くか否かと記されることはどういうことであるか

この問題は以前にも説明されたが、ここでもいくつかの文で説明してみたい。

まず、アッラーは、しもべが将来その意志を用いてどのように振舞うか、天国に値する行動をとるのか、地獄に値する行動をとるのかということを、その無限の英知で知られ、そして知られたことを記される。アッラーが記されたから、しもべが天国なり地獄なりに行き、幸福なり不幸なりになるのではないのだ。

次に、アッラーはしもべがその意志をどういう方向で用いるかを知られるのと同様に、その行為に影響を与えるあらゆる要因をもご存知であられ、それに応じて記される。その人における家族の影響やしつけはどのようなものになるか、その環境は彼にどう影響するか、信仰もしくは教えへの憎悪に導く要因は何になるか、そして彼はその意志によってこれらをいかに克服するか、これら全てをアッラーはご存知であられ、それを記されるのである。

私たちは、人が天国に行くのか地獄に行くのかを知ることはできない。なぜなら運命を知ることができないからである。ハディースの表現によるなら、ただ目に見える行動、言動を見て、それらを教えの基準に当てはめるのである。憎悪に至るような目に見える言動があったとしたら、私たちは最大限に表現して「不信心者だ」と言うことが可能なのであり「地獄に行くのだ」とは言えない。なぜなら私たちはその外見によって行動するしかないからである。そこにおける真実、その人の心や、最後に息をどのように引き取るかということを、私たちは知ることができないのだから、このことはアッラーにお任せしなければならないのだ。今日あなたが無神論者と認識している人が、後に完全な信仰を持った人物となることもある。

話がここに至った機会に、ドイツの私の友人が遭遇した出来事の一つを紹介しよう。

それぞれのモスクはあらゆる人に対して開かれており、説話が行なわれ、重要な項目が説かれている。それを聞きに来た若者の一人が「知っていますか、私は無信仰者だったのです」と言う。この若者に対してすぐさま「あなたは地獄に行くのだ」と言うことができようか? この若者は何人かの良い友達と知り合い、彼に応じたやり方で信仰に関わる事項が紹介された。そしてある土曜日、彼はもう一人の友人を連れて、夜の礼拝に現れた。その友人にもいくつかのことを紹介してもらおうと、連れてきたのである。

そう、この若者が「無信仰者だった」と言った時点で「地獄行き」のレッテルを貼り、彼を拒否していたとしたら、何を得ることになったであろうか。そして彼の最後の状態を見て、恥ずかしい思いをしなかったであろうか? 人について判断を下すことは私たちの役割でもなければ、私たちの力が及ぶことでもないのである。

もう一人別の若者が、私たちの次世代の現状を身をもって語っている、次の言葉を見てみよう。

「私はケルンで、無信仰者のデモなどに参加していた。ある時私は友人を訪れた。質問や答えがなされていた。私は共産主義に傾斜していた為、ある種の不安を感じていた。そこで話されていることを熱心に聞く一方で、『私の信条を攻撃してくるだろうか、対立するような言葉を言ってくるだろうか、スローガンを投げかけてくるだろうか』と注意深くなっていた。しかしそういったことは全く起こらなかった。ただ、それまで全然聞いたことのなかった信仰に関する事項が説明された。もしこういう形でなかったとしたら、わたしはそれを受け入れなかっただろうし、酒や博打といった習慣をやめることもなかった」

さらに尋ねたい。今では、布教活動のため、自らの車で忙しく動き回っているこの若者を、その当時のあり方を見て、そしてその年で、地獄行きだと決め付け、即座に恐ろしい地獄の井戸に投げ込もうとしたのだろうか?

これらの例に見られるように、アッラーは、人が意志のスイッチを、あらゆる要因の中でどの方向に使うか、どの方向に向かって最後の息を吐くのかということをご存知であり、だから、魂の世界、もしくは母の胎内にいる時点で、彼が幸福か不幸か、天国行きか地獄行きかを記されるのである。人は、ハディースの言葉を借りるなら「どのように生きてきたのであれそのように死を迎え、どのように死んだのであれそのように復活する」のである。私たちが行なうべきことは、アッラーへの希望を失わず、後の世代の将来を暗く見なさず、努力し、信仰や導きへの要因となると言う道において努めていくことである。

7.イスラーム的性分 とはどういうことであろうか

聖なるハディースでは「生まれてくる者は皆、イスラームの性分(フィトラ)を持って生まれる。後から、父母がその子をキリスト教徒やユダヤ教徒、あるいは拝火教徒(今日においては何々主義、というようなものに)する」と言われている。[2]

全ての人は、本来の性分として、生まれたときはけがれなく清らかで、信心やイスラームに最も
ふさわしい状態で生まれてくる

本来の性分(フィトラ)、本質として、全ての人はけがれなく清らかで、信心やイスラームに最もふさわしい状態を持っている。そう、生まれたとき人は、しみ一つなく真っ白で、何でも書き込むことができる紙、何も録音されていないテープ、あらゆる形になることができる軟膏、型に流されるのを待つ鉱物、あるいは曲げられやすい若木のようである。

澄みきって清らかな泉の水は、その源や本質において清らかで、最も効用ある状態であるのにふさわしくある。あるいは、砂塵や土を入れられると濁ってしまい、そのあり方が変えられてしまう。同じように、生まれてくる子供は皆、天性のあり方によれば、真実を認め、汚れや逸脱を拒否するのに適した状態を持っている。だから、五歳から十五歳の年齢層の子供たちには何を説明したとしても、彼らはそれを即座にその記憶にとどめ、信心やイスラームの名においてその精神世界に定着させる。例えば「一つの村は、村長なしではありえない。一本の針は、名工なしではありえない。だからこの広大な世界も、その持ち主なしではありえない」とあなたが言えば、相手はこの上なくけがれない状態で、このようなメッセージとまさに同じ周波数でいるため、全くの雑音なしでこれを記録するのである。性分による吸引力、磁力が、メッセージをすぐに引きつけるのだ。私たちが認識している概念、基準によって見る限り「清らかな性分で、良い徳を持っている、実に適切な人だ」と出会ってすぐに思えるような人たちを、私たちは目にすることができるのである。

清らかで正しい天性のあり方は、憎悪や罪によって汚され、発展を妨げられることがある

人は、教えへの憎悪と否定によって、全宇宙規模の様々な論拠に目をつぶり、耳をふさぎ、良心を押さえつけ、そして天性のあり方を妨げ、自らを光源が完全に不足である状態にしてしまい、闇の中に埋められ、清らかな天性のあり方の上にアッラーが好まれない黒いしみを落とす。これとは逆に、人は、信仰と崇拝行為によって、本質的に清いものである性分を維持し、清らかさを守る。だから、人の性質において信仰は本来のものであり、憎悪は、本質的ではない特性だと言うことができるだろう。本来清らかなものである性分が、後に汚されてしまうのである。もし、最初のあり方が守られず、助けが必要な時に助けられず、必要な予防策も講じられることがなければ、人がキリスト教徒やユダヤ教徒、あるいは拝火教徒などになること、あるいはあなたが思いつける憎悪の潮流のどれか一つの餌食になってしまうことは十分ありえることなのである。

清らかであった本来の性分が汚され、破壊されると、人は後天的な、不都合な性分を身に着ける
こととなる

卵から出てきたヒナは、飛ぶことができなくてもやはり鳥である。それはその創造において、飛ぶのに都合よく備えられているのだ。成長期に入ると私たちは、それが走っていって飛び跳ねたり、転んだり起き上がったりしながら飛ぼうとしている様子を見て「この鳥は飛ぶだろう」と言う。ただし、目に見える要因が働き、この鳥の飛ぶ能力を奪ったとしたら、鳥であろうともはや飛ぶことができない。教えへの憎悪もまた、このようである。つまり憎悪は、飛ぶのに都合よくできている鳥の翼を折ったり、未熟なままにしたり、鳥かごでその能力をだめにしてしまったりするように、人における本来の性分を妨害し、後天性の良くない性分によって、飛べない状態にしてしまうのである。意思を悪い形で用いたことによって、あるいは外的要因や動機によってその天性のあり方が妨げられてしまった人は、二つ目の性分を獲得し、清らかで正しい性分を汚してしまうことになる。鳥の最初の状態を見て「これは鳥だから飛ぶだろう」と私たちは言う。同じように、新しく生まれた子供に対しても「この子はムスリムだ」「この子はムスリムになるだろう」と言う。しかし時と共に、その子供の上に、悪い影響をもたらす風が吹き始め、子供自身もその意志を悪い方向で使えば、その時彼の腕、翼は折られ、本来の種が憎悪の土の闇の中に埋められてしまう...。芽を出し、若芽を伸ばし、その結果として季節ごとに果実を実らせる木となるために必要な熱や温度、雨水を得ることができず、だから全く生長せず、穂を実らせることができなくなってしまうのだ。

ここで繰り返し見ているこれらの問題において、運命というテーマに関する二つの事項が常に
現れる可能性がある。外的要因と意志である

そう、生まれてくる子供は皆、イスラーム的な性分を持っている。しかし、親や友人、社会や学校と言った外的要因と、これらを彼自身にとって肯定的、あるいは否定的な形で価値付ける意志が、性分に対し肯定的、もしくは否定的な形で干渉を行なう。運命においてはこれら全てが勘定に加えられ「この人は、性分を清いままに保って幸福になるだろう」もしくは「性分を汚し、憎悪に埋没し不幸になるだろう」と記されるのだ。

8.教えへの導きとはどういうことであろうか? 導きへの要因にどうやってなれるで

あろうか

教えへの導き(ヒダーヤ)とは、自由意志を用いたことの結果として、人の中にアッラーが灯される光、灯りである。先にも示したように、逸脱も、ヒダーヤも、完全に、アッラーの創造によって起こる。ある章句では、「もし主の御心なら、地上の凡ての者は凡て信仰に入ったことであろう」(ユーヌス章10/99)と、また別のところでは「もしアッラーが御望みなら、わたしたちもまたわたしたちの祖先も、かれを差し置いて何者にも仕えなかったであろう」(蜜蜂章16/35)と記されている。

さらに、預言者ムハンマドに対し、「あなたは死者にものを聞かせることは出来ない。背を向けて逃げ去る聞こえない者に、呼びかけても聞かせることは出来ない。またあなたは、(ものごとの)わからない盲目を、迷いから導くことも出来ない」(ビザンチン章30/52~53)と仰せられている。

そもそも私たちも、全ての礼拝の全てのラカートで、ヒダーヤをアッラーから望み、日に四十回「正しい道へお導きください」と言っているのである。

「本当にあなたは、自分の好む者(の凡て)を導くことは出来ない。だがアッラーは御心のままに導き下される」(物語章28/56)という節もまた、このテーマにおいて繰り返し取り上げられるものの一つである。アッラーの使徒も「私は人々をヒダーヤへと、信仰へと招く者として遣わされた。ヒダーヤへと至らされ、その心に信仰を与えられるのはアッラーであられる」とおっしゃっておられる。悪魔は憎悪や逸脱や罪を飾り立てて見せ、心に疑念を投じる。しかし逸脱や罪を創造されたのはやはりアッラーなのだ。

ある章では、「あなたは、それによって(人々を)正しい道に招くのである」(相談章42/52)と、また別のある章では、「本当にあなたは、正しい道に彼らを招く」(信者たち章23/73)と仰せられている。これらの節から理解できることは、預言者ムハンマドはヒダーヤへの要因であられ、また悪魔は逸脱や罪への要因である。しかし先にも述べたように、逸脱も、ヒダーヤも創造されたのはアッラーであられる。

アッラーは、預言者たちをはじめとして様々なヒダーヤへの要因を創造された。もし、しもべたちがこれらの要因を利用せず、意志をヒダーヤの方向に用いなければ、アッラーも彼らのためにヒダーヤを創造されない。つまり、要因は創造されても結果が創造されない。例えば、この件についてはクルアーンで、「またわれはサムード民を導いた。だが彼らは導きよりも、盲目の方を良いとした」(フッスィラ章41/17)と述べられている。つまり、この事項の一方は人間に帰されるものであり、その傾向や意志によってくるものであり、もう一方は完全に、アッラーがヒダーヤもしくは逸脱を創造されることに帰されるのである。

クルアーンは、一方で、憎悪へ導き、ヒダーヤへの妨げとなる原因や要因に対し繰り返し強調を行なっており、また他方では真実へと導く要因を激励している。つまり、信仰への妨げとなるうぬぼれ、思い上がり、渋ること、自らを過大評価すること、威張ること、相手を軽んじること、この世界を選択すること、無知、といったような要素から遠ざかるよう教える一方で、もう一方では、この宇宙を知ろうとすること、教訓から学ぶこと、判断すること、アッラーの道において語る人の話を聞くこと、そして彼らの輝かしい道をたどっていくことを求め、奨励しているのだ。

クルアーンでは二箇所で「媒介」という言葉が使われている。これらの一つでは、「あなたがた信仰する者よ、アッラーを畏れ自分の義務を果たしてかれに近づくよう媒介を探し、かれの道のために努力奮闘しなさい。あなたがたは恐らく成功するであろう」(食卓章5/35)とされている。他の節では、「だがわれ(の道)のために奮闘努力(ジハード)する者は、必ずわが道に導くであろう」(蜘蛛章29/69)「またアッラーを畏れる者には、かれは(解決の)出口を備えられる」(離婚章65/2)と仰せられている。

これらの章句から理解されるように、心の深いところへと進み、アッラーに到達した者を、アッラーは決して迷わされない。心がアッラーへの愛情によって結ばれた人たちは、皆、アッラーへと至る様々な道、様々な方法において努力奮闘し、アッラーへと歩んだ。ヒダーヤへの道であるこれらの途上において、アッラーは彼らの見る目、聞く耳、触る手となられた。つまり、アッラーの名の故に見て、アッラーの名の故に聞き、アッラーの名の故に歩んだのである。アッラーも、彼らに他の物事を見せられず、聞かせず、そして彼らの足を異なる方向には引かれなかったのだ。

今日、アッラーと真実の通詞となり、教えを支え、守り、人々の心にアッラーの御名、その使徒の御名を響かせるという方向で努力する人々を、アッラーは、―望まれるなら―お導きを与えられた道から迷わせられず、過ちを犯させられず、罪の中に投げ込み、破滅させられることもなさらないだろう。そして今日もはや下されようとしている聖なる信託の荷い手である諸教団の力を弱めさせられず、その目標に到達させられるだろう。

アッラーの使徒は、その崇高な生涯において、最後の息の時まで常に、この要因となるという任務を実行された。アッラーはその最愛の方に「あなたの近親者に警告しなさい」(詩人たち章26/214)「だからあなたは訓戒しなさい」(圧倒的事態章88/21)「だからあなたが命じられたことを宣揚しなさい」(アル・ヒジュル章15/94)と命じられ、信仰へのヒダーヤの名のもとに行動させられた。そして、このお方があらゆる苦しみ、困難、迫害、抑圧、罵りに耐え、この世的な、魅惑してくるあらゆる危険を拒み、その任務において―再度クルアーンの表現を用いるなら―ほとんどご自身を磨耗させるほどの熱意、望みによって奮闘を続けられ、旅をしてご覧になった天国ですら、ウンマ(共同体)の救済のため、彼らをもそこに連れていくために放棄され、その民のもとに戻られたこと、これら全ては、布教への思いとしてなんと驚くべき献身さの例であることか。

その聖なる足に石が投げつけられたこと、全身が血にまみれたこと、これらの犠牲を払ってターイフへ行かれ、アッラーを説かれたこと、ご自身に対しあらゆる悪事を行なった人々を、特にマッカ征服において「行きなさい、あなたがたは自由だ」と許されたこと、教友たちに対し、剣が抜き放たれて首が切られそうになった時においてもまず、敵たちを信仰とイスラームへの招きを行なうよう推奨されたこと、さらに「アリーよ、あなたの手によって一人の人がヒダーヤに至ることは、この地上に存在し、太陽がその上に昇るあらゆる物よりも(別の伝承によれば、谷を満たす羊やらくだよりも)なお尊い」という教え、そしてこれに類似する多くの出来事やハディースが、ヒダーヤへの要因となることがいかに重要かを示しているのだ。

要因となる者は、それを行なう存在と同じ位の善行を得る。この件について言葉の王、預言者ムハンマドは「誰であれ、良い道を切り拓いて善への要因となれば、彼が拓いた道を歩む人たちの善行は、不足することなく彼ら自身に与えられるのと同様、その道を拓いた人にも与えられる。誤った、罪の道を拓いた者たちには、その道を歩いた人たちの罪と同じ位の罪が記される」とおっしゃっておられる。あなたが一つの礼拝所を準備すれば、一つのモスクを建設すれば、あるいは建設させたなら、その礼拝所もしくはモスクで礼拝する人たちの善行ほどの善行が、あなたに与えられ、そしてあなたの行為の記録帳は閉じられることがないであろう。心が信仰を持ち、知能が明敏で、父母に従順であり、祖国や人々へ奉仕するような人を民族に獲得させるための道における一歩一歩、一息一息の呼吸、イバーダ(崇拝行為)や、要因となることのために行なった全ての行為が、あなたのためにあの世の糧、幸福への要因となるのだ。

要因は単に要因であり、それを行なわれ、創造されるのはアッラーだということを十分に認識し、決して忘れないようにしなければならない。誰かが、私たちの信仰が救われ、力を増し、私たちがイバーダ(崇拝行為)に慣れることへの要因になったとする。この時、要因となった人が「私がいなかったらあなたは救われなかったのだ。私があなたに慣れさせていなかったら、あなたは礼拝をしないところだったのだ。あなたの信仰を私が救ったように、あなたを礼拝に慣れさせたのも私だ」と言うことがとても危険な不足であるように、私たちが「あなたがいなかったら私は憎悪の中を漂っていただろう。イバーダが何かも知らなかっただろう」ということも、危険な行き過ぎである。そうではなくて、ヒダーヤへの要因となった人は次のように考えるべきなのである。「アッラーに感謝を。私のように適材ではなく、能力もなく、多くのものを必要としている者を、これほど素晴らしいことへの要因となされた。私は一つのぶどうの枝に過ぎないが、アッラーは私のように黒く乾いた、ひ弱な枝に、果汁が詰まった房を創造されたのだ」

誰かの要因によってヒダーヤに至ることが出来た人も、次のように言うべきである。「私の王が、私の無力さと、多くのものを必要としている様子を見て、一人の門番と召使によって私にダイヤのプレゼントを贈られたことに対して、私がその王を忘れ、門番の手にすがり、その手に口付けをし、あの贈り物をその門番からのものだと考えることは、王に対して不遜となる行為だ。感謝と恩はただ私の王、すなわちアッラーへのものだ」

ここで、以下の点を明らかにすることも有益であろう。感謝と恩を王に対して感じ、ヒダーヤが王によるものだと認識することは、決して、ヒダーヤへの要因となってくれた人への敬意、感謝に心が満たされることを妨げない。どのテーマにおいてもそうであるように、このテーマにおいても預言者ムハンマドがもたらされた基準の範囲内で行動し、必ず均衡を保たなければならないのだ。例えば、ヒダーヤへの最大の要因であられる預言者ムハンマドに対し、ユダヤ教徒やキリスト教徒たちが彼らの預言者たちに行なったように神格化してはいけない。反対に、このお方について「アッラーのしもべであり、使徒」と言う際、全ての人間がこのお方のおかげを被っていることを忘れ「全人類は彼に恩を受けました。主よ、我々を最後の審判においてこの証言と共に復活させてください」との祈りや信仰から遠ざかってはいけない。なぜならこのお方の道で、そしてこのお方への愛情と共に実践されなかった生は、生ではなく、ただ「死」と見なされるのだ。クルアーンにおける表現と比喩によるなら、おそらく全ての真実によって、それを心で携えていない人たち、その生において導く者や、彼らがもたらしたことをも生かすことをしない人たちは、ただ墓場にいる人たちと同じように見なされるのである。

そう、運命で、清らかな本来の性分が壊されるかどうかということや、生涯を通して人の前に現れる要因や原因と共に、意志の、この要因や原因に対する態度が前もって知られ、記されているということは、善も悪もアッラーによって創造されているということと異なるものではない。人の意志が働いているあらゆる場面で、アッラーは善も悪も創造される。しかし時としてアター(お与えになること、お恵み)の法則が顕示され、悪が創造されない。なぜならアッラーは悪を承認はされないからである。それにも関わらずしもべがその意志を悪い方向で使うことを主張すれば、アッラーは悪を承認はなさらないが、それをも創造されるのだ。なぜならこの世は一つの試練であり、競合であり、しもべとして行動する場であるからである。さらに、悪が創造されることではなく、その実行が悪だということ、私たちが悪だと見なしている多くの事物に重要な価値が存在すること、本質としてあらゆる事象が価値や神意の範囲内で起こっていること、だから悪が創造されることを悪と見なすことは出来ない。


[1] イスラーム法においては、「懲罰は、罪なる行為と同等である」という原則がある。すなわち、罪の重みが多ければ多いほど、その罰も重くなる。

[2] ハディースBukhari, Jana'iz 93-2/104; Ebu Daawud, Sunnah 17

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