フィラールとイティサム(避難と保護)

フィラールとは文字通りには何かから逃げるという意味ですが、スーフィズムにおいては被創造物から創造主への旅、「影」から逃れて「実物」に保護を求めること[1]、「滴」を拒否して「海」へ飛び込むことを[2]を意味します。さらに、太陽が反射しているガラスのかけらに満足せずに「太陽」に向かうこと[3]、それによって真実の光の中に溶けることができるように自己崇拝による限界から抜け出すことも意味します。アッラーに保護を求める節(聖クルアーン51:50)では信仰する者が心と精神において旅をすることについて述べている中でこの心と精神的知性の行為について述べられています。

身体的に息苦しい状況や世俗的な事柄から遠ざかっていれば遠ざかっているほど、人はアッラーに近付くことができ、自分自身を尊重することができます。預言者ムーサー(彼の上に平安あれ)は本当に誠実な信仰する人でしたが、彼はアッラーのもとに逃れアッラーに保護を求める人がどのように報われるのかということについて次のように述べています。『それでわたしは恐ろしくなって、あなたがた(ファラオ)から逃げだした。だが、主はわたしに知識を授けて、使徒の一人となされたのである。(聖クルアーン26:21)』預言者ムーサーは、アッラーのもとに逃れることを通して精神的喜びまたアッラーやアッラーの代理人に会うことや近付くことができると述べられているのです。

普通の人々はアッラーのお許しとご好意に人生の混乱や罪の醜さからの保護を求めます。彼らは次の言葉を繰り返し、その意味を考えます。『主よ、御許しを与え、慈悲を与えて下さい。あなたは最も優れた慈悲を与える方であられます。(聖クルアーン23:118)』彼らは誠意をもってアッラーの保護を求め、言います。『私が犯してしまった悪行からの保護をあなたに求めます。』[4]

特に敬虔でアッラーに近付くことができている人々は、自分達の不完全な性質からアッラーの性質へ、表面的な感覚で感じることから心で気付き見分けることへ、形式的な崇拝行為からその意味の最も深い部分へ、そして俗世的な感覚から精神的感覚へと逃れます。これは次のようなことです。『アッラーよ、私はあなたのお怒りから逃れあなたが認めてくださることを求めます。そしてあなたの罰から逃れあなたのお許しを求めます。』[5]

アッラーに対する知識と愛や敬虔さにおいて最も優れた人々は、アッラーの性質からアッラーの存在や本質へと、また真実からアッラーという真実そのものへと逃れます。そして彼らは次のように言います。『私はあなたから逃れあなたに保護を求めます。そして私は常にあなたを畏れます。』

逃れる人々は皆避難場所と保護を求めます。逃れるという自覚はその人の精神の深さと比例し、どこに辿り着くかはその人の自覚の程度に依ります。第1のグループの人々はアッラーを知ることに終わります。彼らは見るものすべてにアッラーを思い出し、アッラーの名を口にし、欲望を大切にし、自分達には実現不可能なことを想像し、そして最終的には次のような現実を感じるようになります。『アッラーよ、私たちはあなたを知るために必要なだけあなたを知ることができていません。』彼らは恍惚のうちに繰り返します。『すべてのものは常にあなたを知ろうとします。しかし、あなたを描写しようとする者はそれをできません。私たちの悔悟を受け入れてください。私たちは人間であり、あなたを知るために必要なだけあなたを知ることはできないのです。』

第2のグループの人々は毎日アッラーを知るという新しい海へ船出し、アッラーが常に新しくご自身を現してくださっている中で人生を過ごします。しかしながら、彼らは溢れ出す精神を沈めてくれる最終的な場所への障害を避けることはできません。彼らはより高いレベルへと続いている階段を見つめながらその上を飛んで行きますが、同時に彼らは落ちてしまうのではないかという恐れに震えています。

第3のグループの人々は、状態の変化に影響されず(「ハルとマカム」章参照)、驚きの中に溺れ(「ダーシャとハイラ」章参照)、『すべてのものの源から流れ出ているワイン』に酔っていてイスラフィールのトランペットでさえもその麻痺状態から彼らを回復させることはできません。このレベルに達した人だけが自分自身の考えや感情の深さを描写することができるのです。ルーミーは次のように述べています。『それらの幻想は敬虔な人々への罠である。実際にはそれらはアッラーの庭の輝いた幻影が反映されたものであるのだが。』「アッラーの庭」はアッラーの単一性や宇宙の至る所にあるアッラーの美名の1つの、たくさんの、あるいはすべてが明らかにされることを示します。「輝いた幻影」というのは1つのものや存在に焦点を当てたアッラーの美名や特徴のことを意味します。つまり、この対句の意味は次のようになります。『敬虔な人々がはまってしまう罠はアッラーの美名や特徴の現れているものである。これらの現れはアッラーの真実が見えていない人々にとっては幻想である。』サリ・アブドゥッラー・エフェンディの言葉を借りれば、預言者たちと敬虔な人々の心はアッラーの美名や特徴を映す鏡であるのです。また、預言者たちや敬虔な人々を惹き付けるような常に新しくされている美や魅力を持つ庭という形で、アッラーはこの世界の主、持続させる方、支配者としてのご自身の美名と特徴をも明示されています。


[1] アッラーの知識においてスーフィーたちは被創造物を本体、意味、源の影と捉えています。

[2] スーフィーたちはこの世界のすべてのものは幻想でさえも大海から取られたひとしずくに過ぎないと考えています。物質的存在や喜びはひとしずく分の意味と価値があり、他の世界やアッラーの知識と愛からもたらされる精神的喜びは大海に相当するのです。

[3] ガラスのかけらはこの世界におけるアッラーの現れを意味し、太陽はアッラー、これらの現れの源を意味します。

[4] アル=ティルミーディ「ダワアト」15;アブー=アブドゥラハマン・イブン・シュアイブ・アル=ナサーイ「イスティアダ」スンアン・アル=ナサーイ8巻(ベイルート1930)57

[5] ムスリム「サラート」222

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