信仰における深さ

信者として私たちはこの上なく深く信仰し、信じていることを内面で感じ、それらを他の人々にも伝え、自分たちを透明な存在であるかのようにして、どこから見られたとしてもいつでもそのお方を示しているようでなければならない。別の表現を用いるなら、任されている物事を文字通りきちんとこなしていく上で自らを完全にそのお方に捧げること、そのお方の中に消え入ってしまうことが必要なのだ。気高い魂をそなえた人々の中には、ウフドの戦いを、ハムザさまのことを説明しようとする時にその激しい戦いを自ら体験し、ハムザさまとなる人たちがいる。同じように、そのお方について語る時、そのお方からもたらされる波と私たちの心を出会わせることができるべきなのであり、それによって私たちは信じてもらえるのだ。

イスラームは単に知識ではない。それは生きることである。実践されることによって個人や集団と一体化する。信仰をこういった形で実践し、自身の本質の深いところにあるものとすることができる人々は、この段階に達することができる。神の偉大さの真実へと、新しい窓によって開かれる機会を見出すのである。

そう、信仰が理論の次元から実践の次元へと高められることは、現世と来世の生の双方のためにとても重要である。これを成し遂げることができれば、それは信仰が私たちの生の全ての部分に定着したということであり、逆に実践を行う時にこの信仰の深さが感じられないのであれば、信仰と実践両方の側面に不和が生じ、いつか-アッラーがお守りくださいますように-人は偽信者となるのだ。

また一方で、これを感じ味わうことだけでは十分ではない。決して止まることなく奮闘を続けなければならない。なぜならその立場、もしくは状態は人をうぬぼれ、優越感、自負へと引き立てることがあるからである。これは信仰する人を再び理論上の信仰へと落とす。神へと近づいている人を見て欲しい。彼らがいつでも神の崇高さの顕現と直接対峙しているのを見ることができる。しかし彼らにはうぬぼれや優越感、自負といったものは見られない。彼らは「全く何もできなかった」といい、怯え、そしていつでもこの状態で生きている。彼らは自らをアッラーへと高められていく競技用トラックにいるように感じている。どのようなことにもうろたえることはない。なぜなら理論上の信仰は実践される信仰と一緒になって硬い防壁に定着しているのだ。そう、本来努力して到達されるべき目標とはこれなのである。

信仰するべき形で信仰していない、もしくは信仰できていない、実践の弱さの中でよろめいている人たち、あるいは倒れたり起き上がったりしながら歩いている人について述べるなら、一定の基準で我欲やシャイターンによる逸脱から救われたとしても、信仰が完全な意味で自我を抑えられていないのである。信仰は彼らにとってサイズのあっていない服のようである。信仰を実践によって自我に浸透させていない人たちは、決して誰にも、何かを与えることはできない。この状態から救われるためには、人は物質的な糧に注意を払うように、精神的な糧の得方にも注意を払う必要がある。決して自分を空疎なところに入れ込んではいけないし、生き方に亀裂を入らせてもいけない。同時に持ち上げることのできない荷を背負おうとするべきでもない。人間的な側面を困難に陥れてはいけないのである。全く間をあけることなく断食を行ったり礼拝を行ったりすること、現世から完全に手を引き遠ざかることもまた、一つの不均衡である。忘れないでほしい。人の本質に逆らって行動することは、破滅をもたらすのだ。

アッラーが私たちを人としてくださいますように。人は言ったことの最初の例を自らが示さなければならない。心が琴線のような音を生じるように。旋律を乱してはいけない。語った言葉全てが清らかな言葉となるように。知識、論理、判断、意識、心、アッラーを感じる繊細な感覚がいつでも生き生きと活気づいていなければならない。その荷を運ぶことができるように。そうでなければ贈り物とそれを運ぶ動物の間に整合性がないということである。その整合性がなければ、人は一生の間努力を続けたとしても大麦ほどの長さですらも道を進むことができないのだ。

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